Reaching out : 差し伸べられる手 2

Reaching out :差し伸べられる手

発症してから、いろんなことをあきらめてきた。
いろんなものを喪失してきた。

13年後の夏には
生きることもあきらめていたし
いのちを喪失しようとしていた。

わたしの場合は
自分に合った治療につながるまで
13年かかった。

できないことは、まだあるし
「その年代で経験すること」を経験しないまま
年齢だけを重ねてしまったところもある。

いろんな「苦悩」もある。

だけど、今は
「これはこれで、良いのかな」と思う。

おとなになる、ということ

ある日のこと。

お昼ごはんの時に
90歳を過ぎてもご自分で運転をしている方と
おしゃべりをした時に
わたしのことを少し話させてもらったのだけど。

その方は

「そうだったのね…。
だいーぶ『おとな』になったのね」と
うふふと笑って言ってくれて。

わたしも
「そうなんですよねー」と
うふふと笑って答える。

年齢的には
おばちゃんと呼ばれる40代後半。

身体的にも
ゆらぐおとな世代。

心理的に
「おとな」になったのね、いう言葉は
「それまでが未熟だった」という
意味合いだけではなくて。

「いろんな経験を重ねてきたのね」とか
「大変なところを越えてきたのね」という
意味合いも含まれているのだと思っていて。

人生の先輩から
「『おとな』になったのね」と言われると
なんだか褒められたような?
認めてもらえたような?
「 ( ̄∇ ̄*)ゞ 」って心持ちになる。

神様からのギフト

もしかしたら
「しなくてもいい経験」をしているのかも知れない。

もしかしなくても
「しなくてもいい経験」をしているのかも知れない。

だけども。
「これはこれで、良いのかな」とも思う。

緩やかに進行していた時も
このままではいのちに関わると言われた時も
「全てのことは『神様からのギフト』」と受け止めていて。

良いことも、そうではないことも
全て、「神様からのギフト」で。

これ、好きじゃありません。
趣味じゃないです。
苦手です。

という物だとしても

「今はそうかも知れないけど
必ずどこかで役に立つ」というものを
神様は選んで贈ってくれていて。

それがわかるのは
もしかしたら死ぬ直前かも知れないけれど。

「必ずどこかで役に立つ」ものを
神様は選んで贈ってくれている。

そういう思いがわたしの中にあって。

それは信仰があるから、というだけではなくて
学生時代にハンセン病の回復者さん達から学ばせてもらったこと
神経筋疾患の患児さん、患者さん、ご家族から学ばせてもらったこともまた大きくて。

寝たままでも、かぎ針編みならできるよね?と
寝たままでストールを編んだり。
体調によっては、たわしにしたり。

教会に行くことはできないけれど
(プロテスタントのキリスト教徒です)
文章を通してコミュニケーションを図ったり。

自分が慢性領域の患者になったことで
できていなさ加減に愕然としたり。
ここはできていたんだな…とわかったり。

看護について、さらに暑苦しく語ったり。
やっぱり看護が好きだーって再認識して。

趣味活動として
自分の経過を通して
慢性領域の看護を深めようとしていたり。
…って、今はできるようになったけれど。

感謝します
試みにあわせ 鍛えたもう主の導きを

感謝します
苦しみの中に 育てたもう主の御心を

しかし 願う道が閉ざされた時は
目の前が暗くなりました

どんな時でも あなたの約束を忘れない者としてください

という賛美があるのだけど。
(リビングプレイズ 131番)

16年前。
わたしは願う道が閉ざされた。

そこから13年
自分なりになんとか頑張ってきた。

だけど、力尽きてしまった。
どうすることもできなくなってしまった。

でも、それは
見放された訳ではなかった。

ヒリヒリするような痛みを伴うことがあったり
困難の中を通ることもあるけれど。

鍛えられて、育てられて
新しい道を歩いていこうとしている。

ここまでの13年は、決して無駄じゃない。
この13年があったから、今のしーちゃんがある。

地元の病院で
わたしを看てきてくれている看護師さん達は
そう受け止めてくれている。

わたしも、そう思っている。

だけども。
あの時、事故に遭わなければ…という思いもあるし
その思いを否定したり、なかったことにはしたくない。

事実は事実。
事故に遭ったことで、CRPSを発症して。
そこからの人生が始まっている。
これは変えようのないことだから。

そのバランスというか、揺らぎというか。
それはもう、どうしてみようもないことで。
あっていいものなんだ、と
精神科の先生と対話を重ねていたり。

さまざまな「苦悩」と向き合ってみたり
受け止めてみたりしながら。

神様からのギフトをどう使わせてもらうのか?
あれこれ考えたりしながら。

「おとな」になってきているのかな…。

「今」のわたしは、こう思う

「これはこれで、良いのかな」と思うのは
たぶんきっと、「良くなった」から。

何をもって「良くなった」と捉えるか?は
ひとそれぞれなところはあるけれど。

3月まで
地元の病院で診てくれていた先生は
最後の外来で
「良くなっていくところを見せてもらって
ありがとうございました」と言ってくれた。

このままではいのちに関わります、って
告知していたり
ほんっと酷い状態の時を知っていて。
いろんな思いをさせてしまった。

先生の差し伸べてくれた手を
わたしは払いのけた。

だけど、手を差し伸べ続けてくれた。
その手をそっと握り返したことが
「今」につながるきっかけになった。

同じく3月まで大学病院で診てくれていた先生は
「もっと良くなっていくので (^ー^)」と言ってくれた。

先生の差し伸べてくれた手を
そっと握り返したことが
今、受けている治療につながって。
「今」がある。

地元の病院で診てくれている
内科主治医も
ほんっと酷い状態の時に
「わたしはしーちゃんに生きてほしいの」と
いのちをつないでくれていて。

今のわたしを見て
「わたしゃ、しーちゃんが
こうしてくれているだけでいいよ」
って言ってくれていたり。

奇跡だよね、って言ってもらったりも
しているくらい、良くなったから
そんな風に思えるんでしょ?

ってことなのだと思う。

「苦悩」はある。
「波」もある。
「同世代の身体機能や身体能力には及ばない」
「感覚障害」もある。
「病気(CRPS)」もある。

程度は軽くなっているけれど
「問題」とされるものは、変わらずそこにあって。

それらの受け止め方とか、向き合い方なのかな…と「今」のわたしは、思う。

「良くなってきた」から
「今」はこう受け止めています、と。



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