蛍の君
高校2年の梅雨が終わった頃、かおちゃんはバスケ部の練習中に右アキレス腱の怪我をした。
同じグループの友達に教科書と筆記用具を持ってもらい、松葉杖をついて階段を登ろうとしている彼女を私は遠目から見ていた。
元気がない。
表面上、人に気を遣わせないようにかおちゃんは明るく振る舞っているが、ふとした横顔に、ひりつくような苛立ちと、周囲の人間に対する気疲れが滲み出ているように見えた。
不自由な足。
サポートしてもらえるのはありがたいけど、
誰も自分の気持ちを分かってくれない。
ほっといて欲しい。
だけど、人の手を借りないと生活出来ない。
イライラする。
だけど、そんなこと他人に当たってもしょうがない。
ストレスが溜まる。
そんな負の無限ループの中で、
かおちゃんは静かに、うっすらと淀んでいるようだった。
私とかおちゃんは、
不思議なことに、
家が近いわけでも
部活や普段遊んでいるグループが一緒なわけでもないのに、同じクラスになった中3の時から仲が良かった。
それはお互い依存せず、干渉しない、一定の距離を保った関係がとても心地いい相性だったからだと思う。
だからこそ、私は、
''怪我をしたかおちゃんの日常''から一歩離れて彼女に接することが出来た。
親身に悩みを聞いたり、かいがいしく足のサポートをするわけでもない。
ただ、1日数回、朝のHRの前や授業と授業の合間に、クセの強い先生達の授業でウケた話や、クラスメイトの話題、共通で好きな男性ダンス&ボーカルグループの話をするだけ。
かおちゃんに対する私の態度は、彼女が怪我をする以前と何ら変わらなかったし、変わろうとも思わなかった。
潜在的に、彼女にとって変わらないことが大事だと私は気づいていたのかもしれない。
私にとってかおちゃんは特別な人だった。
笑うとチャーミングな八重歯を覗かせる、運動神経も良くて友達が多い活発な彼女は、
一方でたんぽぽの綿毛のように柔らかで肌も髪も色素が薄く、触れると壊れてしまいそうな儚さと繊細すぎる優しさを持ち合わせていた。
そんなかおちゃんが無邪気な顔で私に甘えてくる時は、彼女のお母さんではなく、なぜかお父さんになったような気持ちで、彼女を受け止め、包みこんであげたいと思った。
1度、たまらなく愛しくて、どさくさに紛れてかおちゃんを抱き締めたことがある。
人を愛する、っていうのはこういうことかと、一番最初に気付かせてくれたのは彼女だと思う。
私は女性で異性が恋愛対象だし、
これまでに好きになった男性も何人かいる。
でも、それらは「恋愛感情」という狭義の「好き」の域から出ることはなく、
もれなくドキドキや不安、見返りや嫉妬などがセットで付いてきた。
私のかおちゃんに対する想いは、
温かくて、安心で、無償で、執着がなかった。
彼女がどんなに他の同性の友達や異性と仲良くしていても気にならなかったし、
彼女は私より勉強もスポーツも出来て、可愛くて頑張り屋なことは百も承知だったから、
かおちゃんに対して純粋に感心することはあっても、ひがみや妬みという感情は生じなかった。
これから進学なり就職なりで離ればなれになるだろうと思っているし、音信不通になったとしてもそれは自然なこととして、変な未練や寂しさを残さず受け入れるだろうなと、私は自分自身に確信めいたものを感じていた。
夏休みに入って8月のある日の昼下がり、
珍しくかおちゃんからLINEが届いた。
「うちの家の近くの川辺に蛍がいっぱいいて綺麗だから、今夜一緒に見よう」
そんな素敵なお誘いがきたものだから、ふたつ返事でOKした。
自宅で夜ご飯を済ませ、集合時間に合わせて自転車でかおちゃんの家に向かう。
夏の夜の生ぬるい空気も、自転車で風を切ればいくぶんか涼しく、彼女に会える嬉しさでウキウキの私は、無敵になった気分だった。
前に1度明るい時間に訪れたことはあるが、暗闇で見ても、かおちゃんの家は豪邸だとすぐ分かる。
着いたよ、とLINEを送ると、
すぐに玄関から彼女は出てきた。
松葉杖はついていない。
ひょこひょこと怪我をしたギプスのついた右足をかばいながら歩いているけれど、
少しずつ良くなってきているのかな、と思った。
「もんちゃーん!」
「るーさん久しぶり!」
(※私は2人で話す時かおちゃんを、るーさんと呼んでいる)
「夏休みどっか遊びに行った?」
なんてことを話しながら、
「こっちだよ」
と誘導されて、かおちゃんちから10メートルも離れていない、小川沿いの砂利敷きの道に向かう。
「わあー!」
小川に向かって生える両サイドの草むらが、
蛍光のミニ電球でいっぱいだった。
こんなにたくさんの蛍を一度で見たことがない。
やんわりとゆっくりと点滅するそれは、まさに自然のイルミネーションで趣がある。
「綺麗だね」
と言ってから、それ以上かおちゃんと特に何かを話したわけではないけど、
1枚の絵画のように
蛍が彩る夏の夜の中
かおちゃんと私がいる。
それだけで充分だった。
30分程経っただろうか
どちらともなくそろそろ解散しようか、という流れになって、
私は夢見心地のままかおちゃんとバイバイする。
家に帰ってきてからも
かおちゃんと一緒に見た蛍の余韻が私の胸を満たしていた。
私が何よりも嬉しかったのは、かおちゃんがあの美しい光景を私と共有したいと思ってくれたことにある。
誰と一緒に見るか、で随分その様相は変わるだろう。
自分の部屋の窓から、煌々と月の光が差し込んでいる。
ちょうどかおちゃんの家がある方角だ。
そっと窓際に立ち、私はなぜだか泣きたくなるような気持ちで、かおちゃんの幸せを祈った。
それはずるくて、無責任かもしれない。
けど、私は自分の身の程を誰よりも理解していた。
だから、私はただただ祈るしかなかったし、
この先私の人生がどんなに長くても、この日を忘れることはないだろうと感じていた。
現に10年経った今、私はここにあの頃のあの日をしたためている。
反芻したくなる思い出として。
かおちゃんと見た蛍を
そして改めて祈る。
彼女が今どこで何をしているのか、
誰と一緒にいるのか皆目分からないけれど
やっぱり、かおちゃんの幸せを。
私が出来るのは相も変わらず、ただそれだけ。