もんての娘とは。①

さて。
もんての経営持論をつらつらと編集しながら投稿しはじめて1週間。

たまには私についてもお話ししようと思います。
もんての娘こと 私 りりこは 1988年9月7日
父、母、姉の4人構成で次女として生まれました。
それぞれ違う性格の3人に囲まれ、
色んな考えを3人から聞かされてきた結果、
自分の考えは一通り意見を聞いてから結論を出すという性格になりました。
特にこの考えが染みついたのは中学時代に読んだ
ロバートキヨサキの「金持ち父さん、貧乏父さん」に描かれている幼少期。
二人の父さんに色々な考えを聞かされ、
自分で結論を出すようになったというストーリーを読み、
自分もきっとそんな感じだ!いや、そうであろう!と思ったのが
きっかけだったように思います。

それがいいのか悪いのか
人によってはもったいない、損していると言ってくださることもありますが
おかげさまで人に好かれる性格ではあるようで
自分としては得しているなぁと感じております。

高校の同級生には突拍子もないことをやりだす子と
言われておりますが、本人はそんなつもりはございません。
つつましやかにまじめにおとなしく目立たないように
ただただ自分の思うままに生きているつもりなんです。

私は鹿児島で生まれ、12歳まで鹿児島で育ちました。
小学4年生の頃、東京に向かう飛行機に初めて乗る時、
鹿児島空港で父と母に
「あ!忘れ物してる!!!パスポート持ってきてないよ!!!!」
と大声で叫んだのはいい思い出です。
飛行機に乗るときはパスポートが必要だと思っていた子供でした。
そしてその飛行機で向かったのは横浜にある中高一貫の学校でした。
ガラス張りのエントランス、山に沿って建っている建物。
キレイな重厚感のある心がきゅっと引き締まる建物にドキドキしていたら
父から「こんな学校があるんだが、行ってみないか?」と一言。
え?なにそれ?それってつまり鹿児島から離れ、親元を離れ、
ここに通うってこと?!何それ、カッコいい!!!と二つ返事で「行く!」と回答してしまったんです。

そこからは私の頭じゃあ通常入試は難しいということで推薦入試を狙って、
ひたすら作文、ひたすら公文式の受験地獄?が待っておりました。
まさかあの二つ返事でこんなことになろうとは思ってませんでした…。
とはいえ、なんだかんだ頑張ったかいがあり、
公文式3教科を中学課程をすませ、それを推薦状とし、
推薦入試を受けることができました。
作文の課題は「地球温暖化」もしくは「中国4000年の歴史」について
のどちらかを選択し、その場で書いて提出でした。
私は地球温暖化を選択。
あの時の作文がどんなものだったのか見てみたい今日この頃です。
そして、面談を経て、無事に合格。
神奈川の公文国際学園に入学することができました。

私が小学生の頃に姉が高校1年でアメリカへ留学したため、
漠然と自分もアメリカに留学するものと考えておりました。
しかしのんびりやの私はちゃんとした準備をしなかったため、
高校1年での留学は間に合わず、
高校2年の夏休みに急きょホームステイ先が決まり、
友人に何も言わず、ギリギリでアメリカへ留学したわけです。
夏休み明けて私がいないことに友人はビビったことでしょう。
多分このことが「突拍子もないことをする」と言われる所以だと思います。

そして無事にカリフォルニア州サクラメントにある
Forest Lake Christian Schoolに入学しました。
姉が留学した時に3ヶ月経った頃に英語をペラペラとしゃべる夢を見て、
次の日不思議なことに急にしゃべれるようになった
という言葉を信じ過ごしていましたが、一切そういうことは起きず、
なかなか上達せずに1年が過ぎました…。
聞き取りはできるけど、しゃべれない単語力のなさが悲しいです。

そして、1年後、アメリカから戻り、
アメリカでの単位を反映させていただき
皆と同じ学年に戻してもらいました。
しかし戻った先はみんな受験真っ只中。
私はというと全然受験勉強をしていません。
自分がどうしたいのか考えてみたところ、
中国へ留学したい ということでした。
それは前々から中国を推してくる父、
そして、私の良きライバル姉を越えることができる手段、
これからは中国なんだ!行ってみたい!
という単純な考えからでした。
そこでアメリカへ留学した強みを活かして、
早稲田の国際教養学科のAO入試を狙いに行こうと考え始めました。
早稲田の国際教養は2年目が留学必須なんです。
そういう考えが定まったところで父に説明。
すると父はこう言ったのです。

「そんな回りくどいことせずに中国行っちゃえよ」

目からウロコ。
そ、そっか、そうだよな…、と父の言葉を真に受け?
進学校だというのに学年の中で一人だけ大学受験をせず、
中国への留学を決めました。
多分このことが「突拍子もないことをする」と言われる所以だと思…ry
中国留学中は、父と暮らしつつ、
浙江大学の漢語研修科で中国語を勉強しながら家庭教師したり、
高級日本料亭でお手伝いしたり、父の経営するJAZZ BARの経理を手伝い、
大学生活を楽しんでおりました。

しかしここで問題勃発。
父と考えが衝突し、一方的に父を嫌い、国外家出。
父がちょうど日本に帰ってる最中に計画をすすめ、
中国に戻ってくるタイミングで日本に家出をするという
計画的犯行でした。

そのころ、遠距離恋愛をしていた男性のもとへ転がりつつも
一人で生きていくつもりだった私。
家出を知った姉から電話があり、帰らないと告げたものの、
その後、お世話になった親戚が他界したと知らせを受け
すぐに鹿児島戻ることになり、
入院していた祖母の容体も悪くなったことから
母や母方の祖父の手伝いをしながら過ごしておりました。
このタイミングで祖母の死に立ち会えたのは
この家出のおかげであり、そういう運命だったと思っています。

長い1年を経て、中学からアニメが好きな私は夢に見ていた声優を目指し、
姉の好意に甘え、神奈川に戻り姉と暮らし始めました。
パチンコ屋でメダル流したり、
リッツカールトン東京で清掃のバイトをしながら、お金をため
一人暮らしにこぎつけ、声優の事務所に入り、小さな仕事をもらいながら
そこで知り合った友人と劇団を創設。舞台役者をやっていました。
それでも小さな仕事や舞台では食べていけず、
スタジオアリスでアシスタントやったり、
痩身専門のエステティシャンしてみたり、
横浜スタジアムでボールに向かって笛ふいてみたり、
ノジマで家電製品売ったり、パチスロで生計たててみたり、
色んなバイトを経験しました。

その後、声優を始めた時に決めていた2年というリミットを過ぎたため、
声優を諦め、モバゲーで有名なDeNAに入社。
DeNAではアバター作成する部署に入り、
毎月発生するガチャ等の企画・提案・運営をするディレクターとして
色々な案件をリリースしました。
その中で売上や版権ものの料率管理等をしている経理の方が退職する際、
後継の方とかぶらないから一度私が中継する謎の出来事があり、
おかげさまでVBAやAccess覚えることができました。
覚えるついでにAccessのフォーマットを改善したり
業務効率化をするのがすごく楽しかった記憶。
その後は諸事情により転職を決意。
色々迷った結果、DMMに入社することができました。

つづく。

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