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今年は、"縛られない"目標を立てる。

「今年は、XXXにチャレンジするぞ。」

新年の恒例行事で「今年の抱負」を語ったり、目標を書き出したりする。ただ、私の中には、きちんと目標を立てることへの抵抗感がある。なぜなら、目標を立てると、それを達成しなければならない、という思いに、自分が縛られてしまうからだ。目標として掲げた瞬間に、「やりたい」が「やらねばならない」になり、ワクワク感が義務感に変わってしまう体験をしてきたし、その結果として、どんな目標を立てていたのかすら、忘れている。

目標との葛藤

目標を立てたその瞬間から、私の中では、目標を達成しようとする真面目くん、と、目標を忘れようとする怠け者くんとが戦い始める。そして、私は知らず知らずのうちに、怠け者くんを応援している。その結果、あぁ今年もまた目標を達成しなかったし、ほとんど忘れてたまま過ごしてしまったなぁ、という罪悪感を、自分の中に積み上げる。そんなことの繰り返し。

「目標設定」の魔力

では、なぜまた、懲りずに、また目標を立てるのだろう。それは、目標を立てる行為は気持ちが良い、からだと思っている。何か見えない力が働いて、誰かがそれを叶えてくれるような気がしてしまうので、ついつい欲張って、高い目標を掲げ、そして、「高い目標を掲げた自分、えらい。」と満足してしまう。そう、目標を実行することよりも、目標を立てることが、目的になってしまっている。そう、目標を立てることは快楽だけれど、目標を実行することは苦行。こんな感覚が、脳に沁みついている。

目標というモンスター

そもそも、目標あるあるで、目標は必達だ、目標を変更してはいけない、目標をぶらさずに頑張ることに意味がある、といった「べき」に囚われている私にとっては、目標が、自分を苦しめる「モンスター」になってしまうのだ。モンスター化した目標は、それを達成できないこと、そこから逸れること、目標を変えようとすることに対し、どんどん、べき攻撃をしてくる。だったら、変に目標を立てず、その時その時の感情を大切に過ごしていく方が、いいのかもしれない、とも思う。

それでも、今年も目標を立てる。

今の自分は、いつ死んでも後悔しない人生を歩むと決めて、「時間の使い方は、そのまま、命の使い方である」という言葉を肝に銘じている。自分の人生を自分でコントロールすると決め、昨年6月末に26年間勤めた会社を退職した私には、誰かに与えられる目標は何一つない。そうなると、時間の使い方の優先順位を決めるのは、自分しかいない。なので、自分が納得のいく人生を生きるためにこそ、目標を設定することが大切だ、ということは、コーチングを学んだり、受けたりしていることもあって、とても実感している。

「目標>自分」ではなく「自分>目標」

そこで、例年通りにならないように、改めて、どのように目標を立てたいくのかという作戦から考えた。最初の問いは、「何のために?誰のために?目標を立てるのか」。
答えは、「自分の人生の目的を達成するための手段」である。そもそも、自分のありたい姿(Being)があり、現状や制約条件があり、その中で、どのようにすれば、ありたい自分でいられるのか、ここが大事。決して、目標に、自分の前を走らせてはいけない。そうなると、目標はモンスターになり、自分を苦しめる。常に先頭は、自分。目標は、後ろで自分をサポートしてくれる存在でいてもらう。

目標は、幸せのサポーター。

そうなると、私にとっての目標とは、自分の時間の使い方を大切にするための優先順位を決めた「行動リスト」ということになる。それは、自分をサポートしてくれる頼れる相棒なので、モンスターにはならない。目的や状況が変われば、目標はどんどんアップデートしてよい。単なる手段に過ぎないから。目標を変える、とか、目標をあきらめるのか、といったことで悩まなくていい。それよりも、その行動によって目的に近づけているのか、本当に時間を有効に使えているのか、ということを考えて、行動のアップデートをしていくことの方が重要なんだ。

「人生を精一杯生きるため」「幸せに生きるため」

そのための手段として、目標がある。こんな感じで、1月末までに、今年の目標を決めていく。目標さん、今年こそ、よろしくお願いします。

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