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【無料】「聴覚障害者でも話せる」の、何が問題なのか?

紋白蝶がリスタートします。その最初を飾るのが、お子さんとろう学校に通った日々を描く、編集者の大熊信さんの連載です。普段あまり見ることができないろう学校の内側や、難聴の子を持つ親の気持ちがつづられます。障害とはなにか、子育てとはなにか、父親とはなにかを考える連載です。週1回更新の初回は、前後編一挙公開! ぜひお読みください。

「どういう意味なんでしょうか?」

隣に座る妻の声には、ちょっとしたとげがあった。敏感に察した僕は、びびって目を泳がせていた。僕と妻に向き合って座る女性。相手も察したのか、返事に詰まると、部屋にはがちゃがちゃとプラスチックがぶつかる音が響いた。

使い古されたアンパンマンのおもちゃで遊んでいる、息子の二朗。大人の会話が急に止まっても遊び続けているのは、まだ3歳になったばかりという年齢のせい、だけではないだろう。二朗はレバーになった食パンマンの腕を、しきりに上下させていた。

二朗はかわいい。まず見た目がかわいい。栗色の髪に、筆で引いたような眉。きらきらした二重の瞳。通った鼻筋に薄い唇。その顔に、いつもいたずらな微笑みをたたえている。僕が彼の首筋のにおいを嗅ごうとすると、髭がくすぐったいらしく、けらけら笑いながら逃げていく。けどすぐに戻ってきて、「もう一回やって」と言ってくる。

親ばかだと思われるだろうが、当たり前だと思う。二朗のかわいさは、僕の目から見た絶対的な事実だから。最強の子供。僕だけじゃなくて、一緒に歩いていると知らない人から「かわいいねえ」なんてよく言われる。当たり前だと思う。社交辞令ではない。皆心の底から言っている。

二朗の聴覚障害がわかったのは、生後すぐのことだった。最初は、新生児に行うスクリーニング(ふるい分け)検査で引っかかった。なにかの間違いだろうと思った。

産院からの退院前の検査で再び「リファー(要再検査)」と言われ、大学病院に行った。検査を繰り返し、脳波を使った検査もして、確定するまで3か月かかった。その間、我々のような聴者の夫婦から難聴児が生まれる確率を調べたり、隣で眠る二朗のそばで手を叩き、ビクッとしたのを見て安心したりしたこともあった。

今思うと、どうかしていたと思う。1年くらいはどうかした状態が続いていた気がするし、子供が聴覚障害を持って生まれた聴者の両親においては、ごく平均的な「どうかしていた」だったんじゃないだろうか。

当たり前のことだけど、難聴児が何も聞こえないとは限らない。二朗の聴力だと、耳元で大きな音を出されたらびっくりする程度には聞こえる。むしろ、起きて泣き出さなかったことに気が付くべきだった。ちなみに、新生児の聴覚障害の発症率は、1000人に1人くらいだそう。当選確率0.1%の宝くじなんて、当たるわけがない。

確定診断の日、医師からは「これくらいの聴力なら、普通に話せるようになりますよ」と言われた。健康に生まれて欲しいと思ったわが子に、障害があることがわかった。その衝撃の中、でも医師は、「これくらいなら普通に話せるようになりますよ」という。

もしかしたら、生まれる前思い描いていたように、「普通」に子育てして、「普通」に大人になっていくのだろうか。僕は医師の言葉に、そう思った。実際僕は、その日にした母親への電話で、「手話とかが必要というほどじゃないみたい」と話したのを覚えている。

二朗は0歳から補聴器の装用を始め、病院に何度も通って検査を繰り返した。ろう学校の乳幼児教育相談に通い、一緒に勉強した。彼にも聞こえる音を使った遊びをして、世界には音があることを教えた。目と目を合わせて話しかけることで、声を出せることを教えた。ものの名前を繰り返し言うことで、言葉があることを教えた。絵本をたくさん読み聞かせることで、世界は無限に広がっていくことを教えた。

そうしてようやく、二朗は言葉を発せるようになった。普通に話せることを、望まない親がいるだろうか。子供に障害があったけど、努力をすれば、「普通に話せる」ようになるのだ。がんばらない親がいるだろうか。

では、医師の言葉は本当だったのか。確かに二朗は話せるようになってきた。でもこの三年間は、二朗が話せるようになるための戦い、ではなく、「普通」に話してほしいという親の願望との戦いだったと思う。

聴覚障害者でも話せる、もちろんそれは悪いことではない。だけど聴者になったわけじゃない。二朗がどれだけ聴者のように話しても、聴者のようには聞こえない。二朗の聴力だと、静かな環境で補聴器をつけ、一対一の会話じゃないと聞き取れない。社会にそのような環境は、ほとんどない。

二朗は確かに話せる、でもそれは、社会で聴者と同じように生きていけることを意味しない。耳から入る情報は落ちていき、複数人との会話や、騒々しい場所での会話はほとんどできない。テレビで流れる音声も、バックにBGMがあるとわからない。皆が理解しているのに、自分だけがわからない。

自分のために、その場を止めてしまうことを恐れて、聴覚障害者は「わからない」と言えない。見た目に違いもなく、普通に話せることもあるから、聴者はそれに気づかない。「君は何も違わない」、「差別するやつはここにいない」。

「普通」に接するほどに、状況はどんどん悪くなる。理解していなかったことは、あとになって露呈する。聴者はそれまでの過程がわからないから、「なんで言わないんだろう」と感じる。聴覚障害者は、自分だけ理解ができないことに後ろめたい気持ちを抱きながら、孤立していく。

妄想を膨らましているわけじゃない。これは「聴覚障害者あるある」だからだ。聴者の世界に飛び込んだ聴覚障害者のほとんどが、同様の経験をしている。差別やいじめ以前に、聴覚障害者が普通に暮らせる環境をこの世界で獲得するのは、本当に困難なのだ。

聴覚障害者が話せることは悪いことではない。でも、それを受けた我々聴者が、聴者の物差しで計ってしまう。勘違いするな。この三年間、僕自身が「普通に話す」二朗と接するたびに考えてきたことだ。

この社会の「普通」は聴者が作った。二朗が生まれてから、世の中の見え方が変わった。病院やフードコートで、声やブザーのみでの呼び出しを受ける度に考える。電車やバスが急停止して、スピーカーから説明が入るたびに悩む。二朗は聴者のように話せるようになっても、きっとこれを聞き取ることはできないだろう。

2020年7月に、レジ袋の有料化が始まった。聴者には「レジ袋いりますか?」で済む。聴覚障害者も、レジに「レジ袋いる/いらない」の紙を張って指さししてくれれば済む。でも、最初からそんな対応をしたお店はどれくらいあったろう。

この「普通」を、二朗は、聴覚障害者は、受けることができない。たまたま僕は、二朗というフィルターを通して、聴覚障害に触れることになった。それだけで、この社会にたくさんの壁がそびえていたことに気が付いた。

他にも障害はたくさんあるし、マイノリティといわれる人たちもたくさんいる。僕と彼らを隔てる見えない壁は、まだまだたくさんあるのだろう。僕たちは、それに気づこうとしない。その壁を作っているのは、「普通」の側にいる僕たちなのに。

僕と妻は、二朗が生まれて三か月後くらいから、手話の勉強を始めた。手話は、聞こえない人にとっての言語だ。手話話者同士なら不自由ないコミュニケーションができる。僕は、二朗といっぱい話がしたい。二朗との壁を、できるだけ壊したい。

手話と日本語は文法が異なる。声と手話を同時に使うのは難しいが、この手の動きにも意味があることを教えないといけない。声と手話、両方を駆使して二朗に語りかけた。つたない手話を使った絵本の読み聞かせもいっぱいした。

1歳半くらいのときだったろうか、ソファで二朗を抱っこしていると、突然二朗が親指と人差し指を横に広げ、僕のあごをつまむように指を閉じた。すぐにわかった。これは、「好き」だ。僕らが彼に一番よく使ってる手話だ。正確には自分の顎でやるのだが、むしろ意思が伝わってきた。顔をぐしゃぐしゃに濡らしながら、僕も二朗のあごを何度も撫でた。

後編に続く


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大熊信(だいくましん) 1980年生まれ。千葉県出身。編集者、ライター。
コンテンツ配信サイトcakes元編集長。

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