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木を削る技② 純粋な進化(西洋化の進展)

江戸時代に成立した愛知の木を削る技は、明治時代になっても途切れることなく引き継がれた。ときの政府が推し進めた近代化政策のもと、主に県内出身の起業家たちの手によって、大きくは三つの展開をみせた。

一つ目は純粋な進化(西洋化の進展)。楽器を中心とした展開だった。
たとえば、三味線製作を職芸とする尾張藩士の家に生まれ、家業を継いだ鈴木政吉は、いずれ日本でも洋楽が流行することを感じとり、明治20年に国産初のバイオリンを試作、同23年より本格的な生産に入った。同33年には、専用加工機(渦取機や甲削機)を独自開発して生産の機械化を実現、合わせて、パリ万国博覧会(フランス)に自作のバイオリンを出品して高評価を得ている。以後海外からの注文が増加し、これに応えて生産体制を拡大していく。さらには、マンドリン(同39年。国産初)やギター(大正3年)などもアイテムに加えつつ、昭和5年には個人経営から会社法人(鈴木バイオリン製造。本社は現在大府市)へと改組して事業体制の強化を図っていった。なお、政吉のもとを独立した矢入儀市は、同10年に矢入楽器製作所(現ヤイリギター。本社は現在岐阜県可児市)を設立しており、後に世界的なギターブランドとなる。

鈴木政吉が製作した第3号バイオリン
(大府市歴史民俗資料館)

また、政吉の友人でもあった名古屋大須の明笛奏者・森田吾郎は、大正元年、二弦琴とタイプライターのキーをすり合わせた大正琴を発明した。政吉のつくった玩具楽器を参考にしたという。さらに昭和初期になると、名古屋の玩具業者・加藤庄太郎と山田留吉がトイピアノ(玩具ピアノ)を考案している。大正琴、トイピアノとも比較的容易に演奏できたこともあって、家庭用楽器として広く普及し、音楽の大衆化の一助となった。

あるいは、江戸時代以来の家業を継いで名古屋で曲物(桶など)づくりを行っていた浅野吉次郎は、明治32年頃、東京の三井物産からモミ材茶箱の製作依頼を受ける。このとき参考にしたイギリス製の茶箱が合板(合わせ板)でできていることを知った吉次郎は、独自に合板製造機の開発に取り組み、同40年、国産初の合板(ロータリー式ベニヤ板)生産に成功した。この合板は普通板の3~4倍の耐久性を誇ったことから、西洋風家具や西洋楽器の素材として広く活用されていった。

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