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土を焼く技⑩ 戦中の代替品生産と戦後復興

日中戦争勃発(昭和12年)にともない、その翌年、政府が国のすべての人的、物的資源を統制することを規定した国家総動員法が公布される。こうした中、愛知の窯業各社は事業統合・規模縮小を余儀なくされ、生産者を示す統制番号のついた統制食器(国民食器)を生産するようになった。さらに同16年にアジア太平洋戦争が始まると、物資不足のために国によって回収された金属製品に代わる陶磁製代用品も手がけるようになる。当時生産された代用品とは、鍋・釜・コンロ・アイロンといった生活用品、手りゅう弾などの軍用品、梵鐘や陶貨、鏡餅などと多岐にわたったが、これが型成形のノウハウ習得へとつながって、戦後の大量生産時代には大いに活かされることとなった。

陶製代用品  風窓(伊奈製陶。INAXライブミュージアム)
陶製代用品 焼き網とガスコンロ(瀬戸蔵ミュージアム)

そして終戦と同時に愛知の窯業各社は息を吹き返す。戦時中の慢性的な物資不足という状況が、終戦と同時に人々のおう盛な購買意欲を引き出して、食器をはじめとする生活用陶磁器の生産が活況を呈していった。
また、昭和22年には民間貿易が再開され、白磁製洋食器やノベルティなどの生産も完全復活へと向かい始める。連合国軍総司令部(GHQ)の指示による「Madein Occupied Japan(メイド・イン・オキュパイド・ジャパン=占領下の日本製)」の刻印が入ったこれら愛知産の諸製品は、アメリカをはじめとする海外諸国へと送られて、外貨獲得という重要な役割を再び担うこととなった。なお、「Madein Occupied Japan」が刻印されたのは、同22年から27年までの5年間に限られており、陶磁器のほか、衣料品、機械製品(カメラ、ミシンほか)、玩具などの多様な製品(輸出品)が対象となった。

その後、高度経済成長期(昭和30年代)を迎えると、海外向け陶磁器の生産はさらに増加していく。あわせて国内では、所得向上や核家族化、家庭電化が進み、建築用陶磁器(タイル、衛生陶器、土管など)や工業用陶磁器(碍子や工業用研削砥石など)の生産が大きく伸び、同40年代、愛知の窯業は最盛期を迎えた。

昭和時代の常滑製ノベルティ(写真は貯金箱。とこなめ陶の森)

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