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土を焼く技⑥ 海外向け製品の開発

明治時代を迎え、政府は外貨獲得のため、陶磁器や繊維といった軽工業の近代化にまずは力を注ぐ。こうした中、愛知の土を焼く技はときの起業家のアイデアのもと、三つの展開をみせた。

一つ目は海外向けの生活用陶磁器の開発。そのきっかけとなったのが万国博覧会だった。ウィーン万博(オーストリア。明治6年)、フィラデルフィア万博(アメリカ。同9年)、パリ万博(フランス。同11年)と連続出品された瀬戸の伝統工芸品(花瓶や壺など)は、高評価を得たことで欧米市場でも知られる存在となった(もちろん輸出も始まっている)。

明治11年のパリ万博に出品されたと考えられる、第2代加藤杢左衛門作の染付花唐草文燈籠(瀬戸蔵ミュージアム)

これに着目したのが、東京で貿易商社・森村組を営んでいた森村市左衛門である。陶磁器が有望な輸出品になることを知った市左衛門は明治25年、名古屋に出店して瀬戸の陶磁器を扱い、海外へと送った。しかし量産に不向きだったため、効率生産と事業拡大を求めて、アメリカで人気だった白磁製ディナーセットの開発を志すようになる。それは市場ニーズである純白の生地がつくれないというレベルからの出発だったが、欧州の生産技術を移入することでこれを解決、同37年には、名古屋に生産工場・日本陶器(現ノリタケカンパニーリミテド)を設立するなど、着実に準備を進めていった。その後も研究が続けられ、大正3年に国産初の白磁製ディナーセットをようやく実用化し、念願だったアメリカ市場への供給を果たしている。さらに昭和8年には、高級磁器である骨灰磁器(ボーンチャイナ)の国産化にも成功、ティーセットなどとしてアメリカに大量輸出した。

アメリカ向けの白磁洋食器(写真は遠藤陶器製、昭和40年代のもの。瀬戸蔵ミュージアム)

また、瀬戸では、明治中期頃より陶磁製の置物(セト・ノベルティ)の生産も始まっている。当初はノウハウに乏しく、浮き玩具などの単純な形状のものしかつくれなかったが、大正時代には、第一次世界大戦(同3~7年)によって供給の途絶えたドイツ製ビスク人形の代替生産を手がけるまでになった。それはアメリカを中心に飛ぶように売れた一方、品質面ではドイツ製にはまったく敵わなかったという。しかし、その後品質改善が進み、昭和初期にはドイツ製品と肩をならべるほどのドレスデン人形がつくれるまでになった。アジア・太平洋戦争末期には生産と輸出が一時途絶えてしまったが、戦後、重要な輸出アイテムとして息を吹き返すこととなる。

戦前のセト・ノベルティ(瀬戸蔵ミュージアム)

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