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土を焼く技④ 近世瀬戸窯・常滑窯の展開

慶長15年(江戸初期)頃より徳川家康は、かつて美濃(岐阜県)へと移動した陶工の瀬戸への呼び戻しを行う(竈屋呼び戻し。唐三郎・仁兵衛兄弟を美濃郷ノ木から瀬戸赤津へ、新右衛門・三右衛門兄弟を美濃水上から瀬戸下品野へと呼び戻したのが始まり)。この年、名古屋城の普請が始まっており、城下に向けた陶器の生産拠点とするためだったという。こうして瀬戸に戻った陶工には諸役免除の特権が与えられ、尾張藩の御用窯として保護された。やがて瀬戸窯は、生活用陶器を大量生産する規模へと成長、供給先も名古屋城下のみならず、関東地方(江戸前期)や東北地方の太平洋側(江戸中期頃)まで拡大していった。

瀬戸窯で焼かれた生活用陶器(瀬戸蔵ミュージアム)

ところが江戸中期になると、肥前(佐賀県)の有田磁器(江戸初頭の成立)がシェアを伸ばし始める。市場を奪われた瀬戸窯でも享和年間(江戸後期)に磁器生産を開始、しかし、品質で有田磁器にはおよばなかった。そこで瀬戸の陶工・加藤民吉は、文化元年(江戸後期)、肥前に赴いて数年がかりで有田磁器の技を習得、同4年には故郷へと持ち帰った。その結果、瀬戸磁器の品質は飛躍的な向上をみることとなる。また、鮮やかな上絵磁器が特徴の有田磁器に対し、瀬戸磁器はシンプルな青一色の染付を施すことで差別化が図られた。やがて瀬戸窯では、磁器生産(新製焼)が陶器生産(本業焼)をしのぐ規模へと拡大し、販路は西日本地方まで広がっていった。

江戸後期より生産の始まった瀬戸窯の染付磁器(瀬戸蔵ミュージアム)

一方の常滑窯ではこの時代、窯内の高温部で焼いた真焼物(水を張る容器向き。甕や壺など)と低温部で焼いた赤物(火にかける容器や貯蔵具向き。火消壺、蛸壺、こんろ、蚊遣りなど)といった具合に製品構成が充実し、復活へと向かう。真焼物の分野では、天保年間(江戸後期)、陶工・伊奈長三により白泥焼の技が、安政元年(江戸末期)には、陶工・杉江寿門らにより朱泥焼の技が生み出され、これらを活かした小細工物(小型の陶器。徳利、急須など)は後に常滑を代表するアイテムとなっていく。また、赤物の分野では、江戸後期頃に土樋(土管のルーツ)も焼かれた。後に近代土管の祖となる陶工・鯉江方寿が弘化4年(江戸後期)に手がけた上水道用の土樋は、美濃高須藩の江戸上屋敷に敷設されている。このように製品開発が着実に進んだ常滑窯だったが、供給面ではかつての勢いを取り戻すことができず、市場は伊勢湾周辺や関東地方にとどまった。

常滑の陶工・第二代伊奈長三作 獅子摘白泥湯沸(江戸後期。とこなめ陶の森)
常滑窯で焼かれた土樋(江戸後期。作者不明。とこなめ陶の森)

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