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いつからか「価値」は感情から遠のいていた

日中でも冷え込むようになり、季節はすっかり巡ったのだなと思いつつ出かけた。
肌感覚では秋へと移り変わった季節も、視覚を通してはまだこれと感じられるものは少ない。

けれど、それは視線を上へと向けているからであって、少し下を見てみると、そこには秋の気配があったりする。
僕はそれを、靴ひもを結ぶためにしゃがんだ時に見つけた。
道の上にころりと転がるどんぐりだ。

それを見つけたとき、不意だったこともあって、なんだかとてもうれしくなった。
きっと、そこにあるどんぐりを「ただ」見つけただけであったなら、「秋が増したな」くらいだったろうと思う。子どものころはただそこにあるだけでうれしく感じられたどんぐりも、大人になったいまではそこまでの「価値」を見出せなくなっている。

思えば、あの頃僕にとっての「価値」というものは、「喜び」であったように思う。ただ嬉しくて、ただ楽しい。そのことに一番価値を見出していた。
けれど、僕にとっての「価値」は、物質的・金銭的なものへといつしか書き換えられていた。
それが悪いことだと思わない。それにはそれの価値がある。けれど、ひたすらなまでの純粋な感情からわきあがる「価値」というものを、大人になったからといって捨ててしまう必要もないのではないか。

靴ひもを結び、立ち上がりながら、ある俳句を思い出す。

  
  よろこべばしきりに落つる木の実かな


という富安風生の句だ。
自らの喜びと落ちる木の実を呼応ととらえる、純粋で温かみのある句。
嬉しい、楽しい。そうした喜びから生じる「価値」を、忘れないでいたい。

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