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武井壮さんの努力の話が良かった件

ひろゆきさんの動画を観ていたら、武井壮さんも上がってきた。
ひろゆきさんの動画について話をすると読まれることが多いみたいです。

文章を読む傾向が強いということはひろゆきファンの知的レベルは高そうだなと勝手に思っていますが、どうなのでしょうか?

僕は武井壮さんの運動理論とかぶる部分もあるので、武井壮さんは尊敬している。
生い立ちにも色々難があるようだが、その動画ではその時のことを少し話していた。

その時の言い分がこうだ

「『そこまで努力できることが才能』みたいな言い方をされたくない。ただ、奨学金とかもらえないと学校にも通えなかった。努力じゃなくてせざるおえなかったんだ。才能って言葉に逃げているひとが多い。めちゃくちゃしんどかったし、めちゃくちゃ辛かった。」

みたいなことを言っておられた。
これに関しては僕もすごく思うことがある。
もちろん武井壮さんのレベルではない。

もっと低いレベルの話になるが、
僕は医療系の職種の中では法律に詳しい方だ。

さらに何をするにはどこにどんな書類を出したらいいかとか、
どんなトラブルが想定されるとか知っている方だと思う。

それはなぜかというとみんなが、お金を出して業者にさせることを僕は全部自分でやってきたからだ。

それは業者に任せても意外と問題は起きる。
僕も今までそうだった。

そして、何かと何かの違いは何とか、それとそれではどういった手続きが違うとかも説明できる。

それはお金がなかった僕が全部自分でせざるおえず、
必死にやってきたからだ。

「色々なことをよく知っている。」とひとは僕に言う。
「そんなこと誰が教えてくれるの?」、「何で勉強したの?」

誰も教えてくれないし、実際失敗をして学んできた。

ネットで調べ、実際行動し、突き返されてまた出してみたいなことを延々としてきたのだ。

『逃げるは恥だが役に立つ』という言葉がある。
ある意味ではあっていると思うし、ある意味では間違っていると思う。

問題の種類にもよるかも知れないし、
今後自分がどうなりたいかにもよよるかも知れない。

僕はしんどい時こそ困難に立ち向かうべきだと思っている。
その時に蓄えた知識や経験や能力がいつか上がる時の糧になるからだ。

ひとの人生でずっといいなんてこともないし、ずっと悪いことなんてこともない。
悪い時は自分の知識や経験を蓄える時だと僕は思っている。

その時に逃げに逃げまくっていたら、知識や経験をえられない部分が出てきてしまって、いい流れがきた時により高く飛べないことがある。

ここで大事なのはそこでの僕の困難に立ち向かう姿勢は努力をしようとしてした努力ではないということだ。

これが武井壮さんも言いたいことだと思うのだが、
生きていくために仕方なくしていたのだ。

高い精神性で「この困難を乗り越える努力は今後の自分がより高く飛ぶために必要なステップなのだ!」みたいなことではないのだ。

生きるために必死に行っていたことが、血となり肉となっただけなのだ。

高い精神性など何もない。ただ生きるのに必要だっただけなのだ。

それを『努力できるのも才能です』みたいな簡単な言葉で片付けて欲しくないとは確かに思う。

今ある能力は必死に自分がもがいて手に入れたものであって、
ダラダラ生きてる奴が才能あるひとはできていいよねみたいな言葉で片付けて欲しくない。

ずっと努力したし、トライアンドエラーで改善もしてきたけどうまくいかなかったひとが羨むものが才能であって、努力をするというのは才能というには簡単過ぎる。

やってできること、誰でもできるようになることに才能などいらない。
いくらやってもどうにもならないものが才能なのだ。

才能とは天賦の才のことを言うのだ❗️

例えば僕がイケメンに憧れたとする。
身長が185cmぐらいあって小顔で、作りもいいひとになりたいとする。

身長はもうおっさんの僕は伸びないし、小顔にも当然なりえないし、イケメンに今からなったりもしない。少なくとも僕が考えるレベルにはなりえない。
例えどんな努力をしてもだ。

しかし、これらはもともと持っているひともいる。

これが才能だ❗️

努力ができるとかそんなものではなく、どうしようもない差なのだ。
僕はど真ん中ストライクなほど凡人だ。

ずっと言い訳ばかりして逃げてきた思春期を経てより凡人になってしまった。
この文章を読む若者がいるならば、
僕みたいになってはいけないと本当に思う。

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