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Tシャツが話題の荒井さんに聞きました

荒井カオルさん   撮影©️朝山実
東京・日本外国特派員協会にて

「このひとの家族の一員になるということは、そういうことなんだと腹を決めました」

【10000字インタビュー】

荒井カオルさん

映画『スープとイデオロギー』(ヤン ヨンヒ監督作品)エグゼクティブ・プロデューサー

【話を聞きたいとおもった理由】
荒井さんの本業は、フリーランスのライターだ。「Arai Kaoru」の名前でつづけているTwitterを覗いてみると、ちかくのスーパーのディスカウントタイムに、値下げ係のおじさんと心理攻防戦をしている様をつぶやいていたりして、けっこうオチャメなひとでもある。
サービス精神ということでは『スープとイデオロギー』公開の劇場めぐりの舞台裏挨拶では、Tシャツコレクターぶりも披露して観客を楽しませていたようだ。ちなみに取材当日は草間彌生×UNIQLOコラボものだった。
以前からお名前は「同業者」として目にし、コワモテ硬派な書き物をするひとの印象をもっていた。いっぽう「Kaoru」から女性?と思っていた。にしてはオヤジっぽい文体だなぁとも。だから今回、映画に登場する荒井さんを見て、へぇーこういうひとなんだ。驚きました。そして、すっかりファンになってしまった。
映画を二度観したときには、荒井さんが出てくる場面になると前傾姿勢になってしまう。最初に観たときには見落としていたけど、感心するほど、じつは荒井さんはいっぱい登場するのだ。言い方はなんだが背後霊のように。語りだす場面はすくないが、ヤン監督と母親が会話する場面の背後にちょこっといる。じつは荒井さんはヤンさんの夫でもある。映画のなかでそれは重要な意味をもつ。
さらにほんとうは荒井さん、写真に撮られるのは大の苦手で、これまで集合写真を撮る場面になると、そっといなくなっていたらしい。その心理はわかる。わたしもそうだから。しかし、そのひとがプロデューサーを買って出るだけでなく、なんでまた妻が撮るドキュメンタリー映画の、それも「助演」級にちかい被写体となることを承諾してしまったのだろうか?
今回、その一点の好奇心から荒井さんにロングインタビューを申し込んでみた。
ヤン ヨンヒ監督からは「嫌なら顔は撮らないから」など条件提示を受けたそうだが、映画ではもちろんバッチシ映っている。二度目に観たとき印象的だったのは、監督や監督のオモニ(母)の背中をポンポンと気を落ち着けさせるために、やさしく手を添えている荒井さんを何度も目にしたことだ。
あまりにさりげなく背後にいるので一度目は気づかなかったというか、見落としてしまっていた。守護霊アライ。じつはそんなふうに荒井さんは、しっかり映っている場面以外にもこの映画のなかで一杯いっぱい出ているのだった。

©️PLACE TO BE,Yang Yonghi
(以下映画カット、カラー写真は全て)

【映画のこと】
ヤン ヨンヒ監督の新作映画が公開されるのは、2012年の『かぞくのくに』(出演=安藤サクラ・井浦新ほかの劇映画)以来のことだ。
『スープとイデオロギー』は、朝鮮総連の幹部活動家だった父親にカメラを向けた『ディア・ピョンヤン』(05年)、「祖国」への帰国運動で北に渡った兄の幼い娘(ヤン監督からすると姪)を主人公にした『愛しきソナ』(09年)とつながる「家族」を撮った私的ドキュメンタリーの3作目。夫がなくなったあとも大阪、鶴橋の実家でひとり暮らしをするオモニ(母)の「その後」を映している。

映画を観終えたひとたちの多くが、
スープをこしらえたくなったという

ヤン監督が母親を主人公にした長編映画を考えるきっかけになったのは、大動脈瘤で入院したオモニが突然語りだした、これまで一度も耳にしたことのなかった母が18歳のころの記憶の衝撃が大きいという。
大阪生まれの母は、先の戦争末期に済州(チェジュ)島に疎開していたことがあったが、元気なころにはその事実を話してはこなかった。にもかかわらず、突然、当時目にしたことを病床で語り始めた。それは「済州4・3事件」と呼ばれる、子供もふくめた3万人を超えるともいわれる島民が同胞の治安軍によって虐殺された、長く韓国内ではタブーとされてきた事件の様子だった。
なぜ、母はこれまで沈黙してきたのか。
ヤン監督にとって疑問に思いつづけてきた、なぜオモニは三人の息子を北に送りだしたのか。長年解けなかった謎が氷解していく瞬間でもあった。

映画は後半、認知症が進行しはじめたオモニとともに済州島で行われた事件から70周年の追悼式典に出かけるなど閉じられてきた歴史の扉をひらけていく展開となる。そう。ズシンと重たいテーマドキュメンタリーなのだが、不思議と笑ってしまうのは「喜劇的」な場面がふんだんに織り込まれていることによる。この点での荒井さんの存在はおおきい。

『スープとイデオロギー』というタイトルにもつながることだが、ヤン監督が話しかける目線の先にオモニがいて、丸裸の丸ごと一羽の鶏のなかに大量のニンニクを詰め込み、大鍋で煮込んでいく。もてなしの料理らしいが、これから何が始まるのか? 手間のかかる作業を丁寧にカメラが映したあと、スーツを着込んだひとりの男性が旅行鞄をコロコロと引いてヤン家を訪れる。この場面がなんともいいのだ。

ということで、長い枕になりました。ここからがインタビューです。場所は東京・日本外国特派員協会にて『スープとイデオロギー』の試写と記者会見があった日でした。

荒井さんにオモニがレシピを伝授する

話すひと=荒井カオルさん
🌒聞くひと=朝山実

🌒映画を観て「済州4・3事件」について迫っていく重厚さと、荒井さんが登場する場面のコミカルさ。悲劇と喜劇が鍋で溶け合った印象で、とくに時間が経ってから荒井さんの役割がこの映画のキーだと思ったので、インタビューを申し込んだんですね。
映画の核をなしているのは、「なぜ母親は三人の息子たちを北朝鮮に送り出したのか?」。どうも北の状況はおかしいんじゃないかと言われ始めた1970年代初頭に、ヤンさんの両親は「帰国事業」で三人の息子たちを送りだしている。ただただ北を信奉していたからだ、というのでは得心はいかない。何がオモニをしてそこまでの思いを抱かせたのか。
ヤン監督自身が長年、疑問に思っていたことの真相を探り当てるという「家族」の物語の色合いをもちつつ、それはそれとして、観客としてのわたしはドキュメンタリー映画ならばこそ笑いがほしいとおもうところがあり、この映画にとって荒井さんの存在は大きいんですね。
汗を拭きながら、スーツにネクタイをしめた男性が旅行鞄を引いてひょっこり現れる。誰だろう?と思わせる。ちょっとフーテンの寅さんを想わせもする始まりです。
あのときは、すでにヤン監督と入籍されていたんですか?

「あのときはまだ知り合って五ケ月めくらいですね。2016年の4月16日が初対面で、三カ月後の7月18日にはプロポーズをしたんです。それで挨拶しに行ったのがあのシーン、あれは9月12日です。その後、書類の手続きを面倒くさがって放っておいたので、何年も事実婚状態でしたが、正式に入籍したのは2020年秋です」
🌒そのあたりのこと詳しくうかがっていいですか?
「どうぞ、なんでも」
🌒荒井さんは初婚ですか?
「初婚です。ヤン監督は昔一回結婚して、すぐに別れたことがあったそうなんですけど。ボクは初婚。当時39歳ですね。
じつは、ずっとひとりもんでいいと思っていたんです。ボクのほぼ唯一の趣味は音楽を聴くことで、とくにジャズが好きで、ひとりでニューヨークに行ったりしていたんです。ジャズクラブを一日3軒、4軒ハシゴし、二週間のうちに50軒は行く。稼ぎをそこにぜんぶ投入してきた。それが激変したんですよね」
🌒激変するくらいどこに惹かれたんですか?
「それは、ボク自身は収入がどうだ、家がどうとかいうことにはまったく関心がない。結婚するとしたら面白いひとであるかどうかがポイントだったんですが、ヤン ヨンヒの家族はバツグンに面白いんですよ。それじたいは映画を観て、会う前から知っていたことではあるんですが。じつはSNSで何年かにわたってやりとりはしていたんです。ずっと文字の交流はしていて、だから初めてあったときにはすぐに意気投合したんです」
🌒どこで会うんですか?
「それはボブ・ディランです。ちょうどボブ・ディランとエリック・クラプトンのコンサートがあって、このコンサートを誘って断られたら目はないなと思ったんです。ええ。二人分のチケットを取っていたけれど、一緒に行くひとを決めていなかった。それでクラプトンは予定の先約があるけれどボブ・ディランの日は大丈夫だと言うので、そのコンサート会場で初めて会うんですね」
🌒どのあたりが好感のポイントだったんですか?
「なんたって。お兄ちゃん三人を北朝鮮に送ってしまい、娘ひとり日本に残ったという。これだけなら悲劇の引き裂かれた在日家族ということなんでしょうけど、その模様を映画にした。しかもその『ディア・ピョンヤン』を観たら、すごいコテコテのお父ちゃんなんで笑っちゃうじゃないですか。悲劇のストーリーなのにコメディともとれる作品に仕上げてしまっている。それで会って映画の話をはじめたら止まらないんですよ」
🌒で、惚れてしまった?
「そうですね。あ、いや、会う前から惚れていたのかもしれない。アボジ、父ちゃんは、09年に亡くなっているのでボクは一度も会ってはいないんですけど、もう会った気になっていましたし。もう『ディア・ピョンヤン』は30回くらい観てきましたから、作品を通して父ちゃんとも会っていたし、ヤン監督にも会っていた気になっていた」
🌒それはアイドルに憧れる青年みたいな?
「最初はそういう感じだったかもしれないですね。でも、映画監督ですから、もっと敷居の高いひとだとは思っていたんです。ぜんぜんそんなことはなくて、びっくりするようなことが一杯で。たとえば『かぞくのくに』を撮っている真っ最中、家の電気が止められている。しょうがないからシャワーを浴びたあと、髪にドライヤーをあてずにビショビショのまま現場に行っていたということを、いきなり話すんですよ。ええ。それが面白くて、意気投合してしまったんですよね」
🌒へえー。
「自分は劇映画を一本とったきりの新人で、貧乏監督だと言うんですよね。印税みたいなものが入ってきているのかなと思ったら、そうじゃないらしい。いろんな賞の賞金は入ったけれど。冗談で言っているのかなと思うと本当にそうだという。それを聞いてもう、郵便受けに入っている電気代の督促状をこっそり抜き取って払い込むようになったんです」
🌒こっそりですか。
「これは生活を立て直すところからはじめないと映画を撮るどころじゃないと思ったので、国民健康保険の滞納書とか全部回収して潰していきました。それが出会ってすぐのころですね」
🌒びっくりというか、荒井さんすごいなあ。
「なんでそんなに貧乏なんだろうか。不思議だったんですが、たとえば彼女は映画の推薦コメント、80文字くらいのものを頼まれたら三日くらい徹夜するんですよ。何回も映画を観なおすし。文章も書いちゃ直しを繰り返しているし。だから言ったんです。『そういうアルバイトはしなくていい、生活費はボクが稼ぐから、あなたは映画をつくりなさい』と」
🌒ほおう。で、この映画につながるわけですか?
「あ、でも、最初はこの映画、ボクはこんな形で関わるはずじゃなかったんですよね。厳密にいうとボクと会う前から、母ちゃんの4・3事件の証言についてはカメラを回してはいて。3つ目のドキュメンタリーを短編ででもつくろうという頭ではいたんですよね。それはやるべきだ、応援するからお金の心配はするなと」

撮影©️朝山実


🌒それが、荒井さんが撮られる側になってしまったのは?
「そう。まさか、ですよね。アハハハ。これは母ちゃんの映画になるんだろう。『ディア・ピョンヤン』の母ちゃんバージョンを作るんだと思っていたら、『娘さんと結婚させてくださいと言いに行くところを撮りたい』と言い出したんですよね」
🌒なるほど。
「ボクは集合写真にしても、撮られるのが嫌いなんです。集合写真だと、いつのまにか消えているタイプで。そういう性格だから自分が被写体になるなんて、ありえないことなんですけど。だけど、このひとが撮ると言うんだったらそれは面白いかなと思ったので。『いいよ』と。ええ、腹をくくりました。このひとの家族の一員になるということは、そういうことなんだ。オレの人生もここで局面が変わるかもしれないと思いました。ただし、こんなにいっぱい出てくるとは思わなかったですよ」
🌒想定では?
「ちょっと見切れたところにいる感じですかね。端っこにいる。でも、とにかくずっとカメラを回しているものですから、こんなに撮って、どうするんだろうとは思っていた」
🌒カメラは、加藤孝信さんですよね? 一度『きみが死んだあとで』(代島治彦監督)の際に撮影秘話のインタビューさせてもらったことがあるんですけど、なにげないシーンの撮り方がいいカメラマンですよね。
「加藤さんが入るのはじつは途中からで、最初のところはヤン監督なんです、ボクが挨拶に行くところとかは。母ちゃんと済州島に行けることになったときに、撮るひとが必要になって加藤さんに加わってもらったんです。監督が撮りながら同時に母ちゃんのケアもするというのは無理なんで。加藤さんが撮影チームに加わったのは済州に行く直前の2018年の春からでしたかね」
🌒そうですか。シーンとして、お母さんがスープを作ったりしているのはヤン監督が撮影し、その後に荒井さんがそれを再現しようと台所に立つときもまだ?
「オモニのところへ挨拶に行ったあとからもまだまだヤン監督ですね。韓国から、済州島の事件の調査に来られたひとたちとのやりとりの場面もヤン監督です。その後アルツハイマーと診断され、ケアマネージャーが書類の手続きのために家に来る場面から加藤さんの撮影ですね」
🌒最初のスープをつくるところ、えらく手間がかかっていて、その支度をしていた理由が、荒井さんの登場でわかる。荒井さんがえらくオドオドされていて。
「それはオドオドしますよ」
🌒わたしは、初対面のふたりが床に手をついて挨拶するシーンが印象的でした。昔、うちの実家でも盆暮れに親戚のおじさんたちがやって来るとその度にやっていたなぁと。子供心に、あの作法が難しそうで、自分もしろと言われたら嫌だから隠れるようにして見ていたのを思い出したりしました。
「土下座みたいなのね」
🌒そう。あの場面とか、これは在日のひとたちの話ではあるけれど、荒井さんがそこに加わることで世界が広がるというか。もともとは娘の結婚相手は同胞の男しか認めないと口にしていたご両親だったのに、あれっ!?というくらい「日本人の男」を歓待している。吉本新喜劇みたいなオチで。
「でも、あれ、当事者の自分としては心臓バクバクですよ。まさにチュチェ(主体)思想を信奉する、キム親子の肖像画を掲げている家に行くわけですから。しかも場所は鶴橋。朝鮮総連の総本山のような場所に、敵国の若輩者がひとりで乗り込んでいくようなものですから」
🌒完全アウェイの場面ですよね。
「招かれざるをものが来たら塩をまくというのがあったりするでしょう。もし、そうなった場合どう振る舞うか。あと、韓国ドラマを見ていると、ブチキレたときに白菜キムチで頬っぺたをバチンとひっぱたくというのがあるんですが、そんなことが起こったらどうするのかとか。いろんなことを考えていきましたよ」
🌒それで、あの落ち着かないそぶりだったんですね。
「ええ。でも、行ってみたら、もう信じられないくらいのウェルカム。ただ、そうは言っても、いきなり馴れなれしくもできない。まずはこの食卓を愉しくしようというので必死でしたよね」
🌒そのあとスーツから着替えられたのが、ミッキーマウスがプリントされたTシャツでしたね。
「あの日は、前夜いったん大阪に泊まって、いろんなことをシミュレーションしていたんですね。いま言ったようなことを、心の準備をして。だからあれは前日に着ていたTシャツだったんです」

荒井さんの登場シーン
緊張ドキドキmaxの荒井さん
後日、スープの具材、ニンニクの皮をむく

🌒ヤンさんは初めて見たと言われてましたが、あのスーツは、あの日のために買われたんですか?
「いえ。スーツはもっていたんです。だけど、社長さんとかの取材のときに年に何回か着るくらいで。なんか、アボジ(ヤンさんの父)もそうですけど、母ちゃんもそうで、活動をしながら人気者だったというのは、誰でもすぐに受け入れてくれるんですね。ボクに対してもそうでした。うちに来たお客さんは全力でもてなす。しかも、娘と結婚するというひとなんだからという。朝から5時間もかけてスープをつくっていたというんだから」
🌒たしかにあのスープ、すごいですね。
「こんなに歓待してもらえるとは。だから、帰り際に言いましたよ。『きょうから四人目の息子が出来たと思ってください』と。つまり、ピョンヤンに行ってしまった息子たちとは今は自由に話もできない。こっちから行くことはできても、むこうから来ることはできない。メールも送れない。電話もできない。ましてや、その息子が年老いた母ちゃんのために料理をつくってあげるということは、まずかなわないことですから。だから、次にこのスープを自分がつくってあげようと」

荒井さん、スープ作りをいざ実践

🌒その後だったかな、スマホで手順を写真に撮ったりしておられましたよね。
「そうです、そうです。レシピをちゃんと記録しようとして」
🌒山盛りのニンニクを詰め込むけれど、意外と作業としてはシンプルなんですよね。
「そう。やることはシンプルなんです。中に40個くらいのニンニクと高麗人参を詰め込んで縫い合わせるだけですから。でも、オモニ(母)は直前まで心配していたみたいですね。日本人だから、こんなにニンニクを入れて大丈夫だろうかって。溶けてどろどろのゼリーみたいになるんですね。ボクはニンニクは大好きなんで、よかったんですけど。もともと好き嫌いはないほうで、苦手なのは寿司のガリくらいかなぁ」
🌒「家族」の物語として、映画の中で印象的なところが、母と娘の会話場面。北の家族への仕送りが負担になってきているのに、やめようとしない母親に苦言を呈するところです。ヤンさんの、本当なら自分はこんなこと言いたくはないのに、というのが伝わってくる。いっぽう、娘の苦言をやり過ごそうとする母。家族ならではのやりとりをカメラは捉えていて。あの場面、国はちがっても普遍的なものを感じました。
「じつは、あの場面以外にも困った場面というのはいっぱいあって。たとえば、母ちゃんが何だかよくわからない健康食品をいっぱい買っちゃうんですよ。そう。通信販売で。戸棚を開けたら、束になっていて。あるのにドンドン買ってしまう。そのお金も、二ヶ月分の年金を受け取ったらすぐに使ってしまうんですね。
あと、母ちゃんの隠れ借金発覚事件というのがあって。映画では使っていないんですが、けっこうデカイ金額で、仕送りするために同胞のおばあちゃんから借りていた。これ、どうするんだって。つらかったですけど、一括で借金を返済しました。でも、これは在日の家だから起きる話じゃない。どこの家でも起きる話であって。お金をめぐる問題というのは普遍なんですね」
🌒そこで面白いのは、荒井さんがヤン家に嫁ぐみたいな構図になっていることですね。結婚式はしないけど、その代わりにふたりで韓国の衣装を着、写真館でお母さんも交えて写真を撮るんですよね。
「ヤン監督がチマ・チョゴリ、ボクがパジ・チョゴリを着るというのはボクからの提案でした。母ちゃんが写真が好きなひと。でも、息子たちはみんな北に行ったので撮る機会がなくなったので、そういうこともあって。ボクがチョゴリにしたの、あれは敬意です。スーツではないだろうというのは。母ちゃんから『日本人やないみたいやなあ』と言われましたけど」

オモニが後に「棺に入れてな」と話していたという、その三人の記念写真のシーンをここで載せようかと考えましたが、ここは映画のひとつの山場でもあり、ぜひ劇場で確認してみてください。

🌒写真は嫌いという荒井さんなのに。
「うーん。途中から嫌いというのもなくなったのかなあ。あのときは、いつでも撮れるとか、いつでもまた食事を一緒にできる。そうではない、と思っていました。母ちゃんは元気に見えるんだけど86歳ですから。母ちゃんが元気なうちに、幸せな記念写真を撮っておきたい。そう思って写真館に出かけました」
🌒写真を撮るというのは、四人目の息子からのプレゼントということなんですね。
「ええ。そうですね」
🌒認知症が出てきたころにお母さんが写真をじっと見ている場面がありますね。
「ごっちゃになったりする瞬間があって、チマチョゴリを着ている娘を自分だと勘違いして。じゃあ、俺は?『これは荒井さんやん』って。オモニと俺は結婚したんかあって。ハハハハ」
🌒荒井さんのことは認識できていたんですね。
「そうですね。『ヨンヒはどこ?』『目の前におるやん』と彼女が応えたりというやりとりをしているときにも、ボクのことはわかっていたみたいですね。不思議ですけど」

オモニの家は写真で囲まれている


🌒映画としては、認知症になる母親を介護する物語という面もあるんですよね。すごいなあと思ったのは、認知症は進んでも、しっかりされていて、癇癪を起したりするわけでもない。ヤンさんも、「お兄さんはどこ?」と聞かれ「学校に行ったわ」ととっさにこたえ、「どこの学校にしよう」と言ったりする。笑いにしていくんですね。
「あれは、主治医から言われたんですよね。アルツハイマーの診断が出たときに、これから記憶は混在していくし、見えないものを見たということもあるけれど、ぜったい否定しないであげてください。否定することで認知症をさらに悪くさせていくからって。だから、途中からやりとりを楽しんでいたりするんです。『父ちゃん、どこに行った?』『いま、ピョンヤンでお兄ちゃんとご飯食べてるわ』『ああ、そうか』って。それで納得するんですよね」
🌒いい話だなあ。
「まあ、介護と認知症の問題は普遍的なテーマだと思います。母ちゃんの場合は、怒鳴るとかそういうことは一度もなかったですね。安定している。海でいうと、日本海ではない、瀬戸内海ですね。
 とくに母ちゃんはアニメーションの原画を描いてくれた、こしだミカさんの絵本が大好きで、絵本を読んでは『ああ、びっくりした』とか言ったりしながら『ああ、おもしろかった』と本を閉じるんですが、次の瞬間また最初から読みはじめ『ああ、おもしろかあ』というのが一日続くんですよ。だから嫌な記憶とか怒りの記憶を思い出して攻撃的になるというようなことはぜんぜんなく、自宅介護も出来ていたんだと思いますね」

済州島を訪れる
買い出しにいくオモニと荒井さん


荒井さんはインタビュー中、妻であるヤン ヨンヒ監督の母親で義母を「かあちゃん」と呼ぶ。なんともやさしい響きだった。映画には出てこないが、母ちゃんは長野で暮らす荒井さんの母親に会いに出かけていったそうだ。

🌒映画の中で、荒井さんが電話をかけて話しているシーンがありますよね。葬儀社からの模擬葬儀の案内状に怒るという。
「あれね。ボクは自分で見ていて、クレーマーみたいに見えるからあまり好きじゃないんですけど」
🌒いえ、むしろあそこは映画のキモだと思いましたよ。
「そうですか。あのときは、相当に怒っていたんですよね。90近いおばあさんに、自分の葬儀をシミュレーションした催しの案内をする。来てもらったら昼飯をご馳走しますよという。もし、これをピョンヤンにいるお兄ちゃんが見たらどう思うか。お兄ちゃんに代わって怒りましたね」
🌒そうか、息子としての怒りなのか。
「せめて、家族に案内を出すのならまだわかるんです。なかには自分で終活をするというひともいるんでしょうけど」
🌒汗びっしょりでオドオドだったあのひとが、義母のために怒っているという、いい場面だと思いました。家族としたら頼もしい。
「あの場面は韓国でも評判がよくて、胸をうたれたと言ってもらいました。たとえば、母ちゃんが『こんなんあるんやけど、一緒に行かへん』言うみたいなことならそれはそれでいいとも思うんです。だけど、つい声を荒げてしまったのは、ひとり暮らしをしている母ちゃんのところにあの招待状が送られてきたということです」
🌒あと、映画でいいシーンだと思ったのは、済州島で一面が墓石の光景。すごい数のひとたちが犠牲になったことがわかるのと、ひとつひとつの墓に白い花が供えられている。
「お墓のところには、生年と没年が刻まれているんですが、没年が抜けているものが相当数あるんです。いまも遺跡の発掘のようにして遺骨探しは続けられていますし。ちなみにあそこだけでも3千基を超えています。
島のあちこちに同じようなお墓があるんですよね。2万5千人から3万人が亡くなった、いや、じつはそんなものじゃなかったとも言われていて。母ちゃんの婚約者だった方の身内だけでも、犠牲者が複数いらっしゃるんですよね。
あのシーンは加藤さんですね、カメラマンは。あの日は、まるで人払いしたみたいに誰もいなくて、4・3の記念式典の日にはものすごい数のひとが集まるので、翌日だったのかな」

墓石の多さに圧倒される


🌒花が新鮮だったのは、それもあってなんですね。もうそろそろ時間なので、まとめに入りますね。
映画について、プロデューサーとしてはいまどのような感想を?

「2018年4月に母ちゃんを済州島につれていったんですが、そのちょっと前まで映画プロデューサーが何をするのか知らなかったんですね。ヤン監督に聞いたら、映画プロデューサーは要するに『お金を出すか、集めてもってくるひと』という。では、いいプロデューサーは?『金だけ出して口はださない。現場に来て演出にああだこうだ口をだすプロデューサーは最悪だ』というのを聞いて、自分が為すべきことが理解できたので『お金の心配はしないでいいから』と野放しで自由に編集作業にあたってもらいました。
ただ、二年間くらい予定より延びたんですね。間もなく完成というところまでボクは見ていないんですが、21年の春くらいに、あとは音楽をつけるというところで観たら、びっくりしました。それから完成したものを10回くらい見ているんです。韓国の二つの映画祭で上映されたのと、日本での試写会と。でも、まだよくわかっていない。観るたびに違うことを考えるんですよね」
🌒それはどのようなことを?
「母ちゃんの老いのこともそうですし。お金のこととか。いろんなイシューが詰まっていますから。見方によって、たとえば荒井という人間を中心にして観るのか。4・3事件を中心に観るのか。見え方はそれによって違ってきますし。それからウクライナ戦争が起きたいま観直すとまた違う感想をもつと思います。
映画をつくっているときには、よもや戦争によってあんなにも短期間のうちに何百万人もの難民が出るとは想像もしなかったですから。ところが、いまや母ちゃんのようなひとがウクライナから逃げている。いま起きている難民の問題と重なるんですよね。
そうそう。韓国で、これはスルメみたいな映画だなあと言われました。噛めば噛むほど味がでると」

構成=朝山実

「済州4・3事件」を
アニメーションで再現するシーンも
モデルは18歳のころのオモニ
原画 こしだミカ 
アニメーション衣装デザイン 美馬佐安子

配給=東風  6/11より東京 ユーロスペース、ポレポレ東中野、大阪 シネマート心斎橋、第七芸術劇場ほかで順次公開

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