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「戦争マラリア」って?


 とつぜんですが【映画deおべんきょう】はじめてみました。

 たった一人の指図で移住が始まり、500人もの命が失われた。
 1945年4月、
 沖縄本島に米軍が上陸して間もない頃、八重山列島の波照間(はてるま)島の住民約1600人が、隣の西表島に強制疎開させられた。近いうちに米軍の上陸するといわれたからだ。

 疎開先とされた南風見(はえみ)地区は当時、マラリアの発生地域として知られ、波照間の住民は不安を抱き、疎開に反対する声が多く、住民の三分の一にもあたる500人余りがマラリアに感染し命を落とした。一般には知られていないが、島の人たちが「戦争マラリア」と呼んできた事件です。

 事件のことを知ったのは『沖縄スパイ戦史』(三上智恵・大矢英代=共同監督)というドキュメンタリー映画がきっかけで、映画は今年7月末に公開され、硬い作品ながらいまも上映館数を増やしロングラン上映中です。


 まず簡単に『沖縄スパイ戦史』について紹介すると、スパイの養成機関として知られる陸軍中野学校出身の将校たちが、沖縄戦を前にして、15歳からの沖縄の少年たちを「志願」というかたちで集め、ゲリラ戦に投入していたという。この「護郷隊」と呼ばれる組織について、元少年兵たちの証言をもとに紹介していきます。

 しかし、いかに兵隊が足りなくなったとはいえ、当時の兵役法でさえ召集年齢は17歳以上とされていたにもかかわらず、というか、だからこそ軍は「志願」を募るという形式をとったのでしょう。元少年兵が語る、その日学校に行ったら知らないうちに話が決まっていて拒否できるものじゃなかったという証言はすごい。これは強制ですよ。

 軍が「徴兵」ではなく、「志願」という形式をとった背景には、「志願」であれば後々「自己責任」だと言い逃れができると考えたからでしょう。こういうの、ずるいなぁと思ってしまうわけだが、昔も今も「命令する」側の人たちの考えることはまったく変わらないんでしょうね。

 80代をこえている元少年兵のオジイたちが、ちゃんと顔を出して証言している中には、ショッキングな出来事が含まれています。
「護郷隊」の役割は主に後方かく乱にあり、米軍の兵士の目には「子ども」にしか見えないことを利用して、敵の陣地に潜入して破壊工作をする、爆雷を抱えて戦車の下に潜り込む、つまりそれって「特攻」だよねという訓練をつんだそうです。
「護郷隊」という名称が意味するように、少年たちなりに自分たちの家族を死守するという意思が働いていたと思います。でも、だとしても少年まで「特攻」に使うなんてムチャくちゃだわ。もちろん、大人だったらいいって話でもないが。

 ええーーっ!?
 映画を観ていて身体がこわばったのは、少年であっても「軍隊」に引き入れられたとたん、大人たちと同様に扱われ、戦場で負傷したり病気になったりしたときのことです。
 後退戦の中で動けなくなった仲間が処置されたという証言がでてきます。「処置」とは、当時の日本軍内部で使われていた婉曲な言葉で、端的にいうと行軍に負担をかけないように自死を促すか、射殺したわけです。

 日本軍は精神論を強調し、兵士が「虜囚」となることを認めてこなかったため、南方の戦場では傷病兵が手りゅう弾をわたされて自決を迫られたり、仲間によって射殺されるということは多々起きていた。とはいえ、十代半ばの少年にまで同様のことを迫っていたというのは。現場を目撃した元少年兵がまさかこんなことが、と信じられない思いで語っていたのが印象に残りました。

 ほかにも、びっくりする証言は続くのですが、「戦争マラリア」の話が出てくるのは映画の後半です。

 沖縄本島からさらに南に位置する波照間島は平坦な土地が多く、米軍はここを占領し飛行場をつくろうとするはず。そうした予測から、軍は疎開命令をだします。
 住民の安全確保という名目はありはしたものの、実際は地上戦ともなれば住民は足手まといとなるだけでなく、軍に関わる情報が漏れることを危惧した判断だったといわれています。
 
 突然、疎開を知らされた波照間の住民は動揺します。しかも移住先がマラリアの発生地域と聞かされ、反対の声があがります。
 議論が続くなかで事態を一変させたのは、島に赴任して間もないひとりの臨時教員の恫喝でした。

「やさしい先生」「かっこいい先生」と子供たちに親しまれていた「山下先生」が、住民集会の場に現れるや「命令は絶対だ。聞かない奴は俺がぶった切る。前に出ろ」と軍刀を振りかざし怒鳴った。その場にいた人たちは震え上がったそうです。

 映画では、この「山下先生」に教わったオジイ、オバアたちの証言が映されていきます。
 彼が名乗っていた「山下虎雄」は偽名で、じつは陸軍中野学校出身の青年将校。波照間に配置されたのは彼一人ながら、沖縄には「護郷隊」を組織した将校など、中野学校出身の軍人42名が偽名を用いて配置されていたことが明らかとなっていきます。山下の任務は島の調査と人心掌握で、彼は「やさしい先生」と慕われたことで役割を果たしていたのでしょう。

 映画を観ていて疑問に思ったのは、軍の命令であったとはいえ「山下」は、マラリアにかかる危険性の高い場所に住民を疎開させることにためらいはなかったのか?
 
 結局、疎開は食糧難と栄養失調と医薬不足もかさなり、マラリア被害を拡大させ、毎日のように二人、三人と亡くなっているなかで、埋葬が追いつかなくなり「浜が遺体でいっぱいになった」というほどの惨状となります。

 こうした光景を目にしながら「山下先生」は、いったいどういう心理だったのか。
 帰島を求める住民に対して、彼は頑として拒否しつづけたという。
「やさしい先生」は偽りの姿でしかなかったのか。
「軍人」とはそういうものなのか。
 山下という人物の二面性に疑問を感じ、山下のことをもっと知りたいと思いました。

 そこで「戦争マラリア」「陸軍中野学校」で検索をかけてヒットした書籍を図書館で借り、映画の中にも登場する名護市教育委員会文化課市史編さん係嘱託委員の川満彰さんの新刊図書が出ていたので、まず購入しました。
 
 今回、参考になったのは主にこの4冊です。
『陸軍中野学校終戦秘史』畠山清行著・保坂正康編(新潮文庫・平成16年発行)
『沖縄戦争マラリア事件』毎日新聞特別報道部取材班(東方出版・1994年発行)
『沖縄戦の記録 日本軍と戦争マラリア』宮良作(新日本出版社・2004年)
『陸軍中野学校と沖縄戦 知られざる少年兵「護郷隊」』川満彰(吉川弘文館・2018年)


 映画の中で、戦後に「山下先生」を探しあて、責任を問う電話の録音が流れます。山下を名乗っていた人物は、戦後は滋賀県で機械工場を営み、1997年9月に亡くなったそうです。

 あの強制疎開について、彼はどう思っているのか。

 軍の命令であって、自分に責任はない。指揮したのが自分であったことでむしろ被害は抑えられた──
 音声だけながら、山下の物腰には威圧感があります。

 しかし、あれだけの犠牲者を出しながら、自分があのときにこうしたから……と悔やんだりしないのか。「責任」を感じないものなのか。
 中野学校出身者の兵隊は、一人で百人の部隊を上回る能力を有する。それぐらいのスペシャリストだとも評されていますが、そうしたエリートの精神構造がわたしにはわからない。

「戦争マラリア」と「山下先生」


 わからないからこそ、知りたくもなる。そこで先にあげた本を読むことになるわけですが、最初に入手した『陸軍中野学校と沖縄戦 知られざる少年兵「護郷隊」』川満彰(吉川弘文館・2018年)から、印象に残ったポイントを整理していくことにします。
 というのも、川満さんが取り上げられた引用部分には、先にあげた3冊を原典とするものも多く、まったく知らなかった「護郷隊」についても読みやすく整理されていたからです。さらに「離島残置諜者」の配置先を示した一覧表も掲示されていました。中野学校出身の各人の偽名と本名が記され、「山下先生」の本名とともに階級が「軍曹」だったこともわかりました。


 じつはこの波照間の強制疎開には、裏の理由があったのでは……。

 川満さんは、疎開理由とされた米軍の上陸は表向きのもので(結果的に米軍が攻めてくることもなく)、「住民の証言を見ると石垣島に駐屯していた約一万人の日本兵の食糧を確保するため、黒島と波照間島の豊富な食糧を奪うことが目的だった、という真相が見え隠れする。」と書いてある。
 この件については『沖縄戦争マラリア事件』『日本軍と戦争マラリア』がより詳しいので、あとでふれることにして、まず先の録音です。

 山下に電話で問いただしていたのは『日本軍と戦争マラリア』の著者でもある宮良作さんで、川満さんの『陸軍中野学校と沖縄戦』の中には、このような抜粋があります。
 
宮良 酒井(※山下の本名)さんは波照間の人たちが西表(島)に行きたくないと拒んだときに、抜刀して追いたてたと聞いているし、また、書物でも読んだことがありますが、その通りですか。
 酒井 ああ、そうだよ。そうでないと当時はみんな大騒ぎして意見がまとまらなかったんだ。だから抜刀した。
 宮良 なぜ抜刀までして追い立てたのか。
 酒井 私は(※石垣島の)旅団本部に行って、(宮崎)旅団長に命令を出したのかと聞いたら、旅団長はただ黙って座っていたが、側にいた(東畑広吉)高級参謀が、うん命令出した、と言っていた。これは先日も話したとおりだ(※二回、この件で宮良さんは電話していたらしい)。そうすると旅団長名の軍令がでていることははっきりしているし、私は軍隊だから旅団長の命令は天皇陛下の命令だ。聞かない奴は俺がぶった切る、そいつは前に出ろと言ったのだ》(p.166-167)※は筆者脚注

 映画に使われていたのと同じ音源をもとにしているのだと思いますが、「聞かない奴は俺がぶった切る」とはすごい。
 ただ、さらに頁をめくると、同様のことを聞かれながら、質問者によって微妙に異なる答え方をしています。
 
「軍の命令で、仕方なくやったことで、私がやらなくとも、誰かがやったことだし、あるいはその人間が悪ければ、波照間島民は、もっともっと苦しんでいたかもしれない。そう思うと、それほど気にすることもないのかしらんが」(発言部分の引用元は『陸軍中野学校終戦秘史』)。

 500人もの死者が出たというだけでも驚きなのに、自分がやらなければ、もっともっと苦しんでいたかもしれないとは、どういうことなのか?
『陸軍中野学校終戦秘史』を読むことにしました。その前にもうひとつ、川満さんの本の中で驚いたのは、疎開後の山下の豹変です。

 4月8日に疎開が始まり、当初こそ山下も波照間の住民たちと同じ、西表島の南の海岸に位置する、南風見地区に暮らしていたそうです。
 しかし、マラリア患者が出るや、わずかな住民をつれ、安全とみられていた場所に移動します。そこから住民を監視するために毎日、南風見に通っていたといいます。

 証言によると、山下が子供たちにやらせたことのひとつに「死体に群がるハエ取り」があったそうです。
 マラリア対策なのでしょうが、ハエの量が少ないと青竹のムチで叩きつける。しかもそうした暴行は、山下の手下となっていた教員(沖縄出身者)にやらせ、激しい殴打によって亡くなった子供もいたという。これではまるでジキルとハイド。「やさしい先生」の面影はどんどん薄れていきます。

 あまりといえばあまりな証言ばかりです。「仕方なくやった」という山下の発言の真意を知るため『陸軍中野学校終戦秘史』を読むことにしました。

 沖縄の離島に配置された中野学校出身の軍人たちの活動を紹介する「第二編 本土決戦準備とゲリラ戦」の中に、「スパイ変じて救世主」「牛馬二千頭の焼肉」の見出しがあり、ここに「山下虎雄」が登場します。
 構成は聞き取りをもとに書き起こした伝記で、山下のおおらかな語り口調から英雄譚のような印象を受けました。
 
 彼が「やさしい先生」と慕われていたことを裏付けるものとして、東京から玩具を送ってもらった子供たちに配ったことなどを話しています。聞き手に促されて饒舌になる箇所があり、島には若い男がいなかったため、女性たちから熱烈な誘いを受けて困った、とくだけた口調で語っています。
 肝心の「強制疎開」については、石垣島の旅団司令部で参謀長から命令を受けた山下は、西表島のマラリアについては認識していて、反対意見を述べたという。

 山下たち「偽名」の軍人を波照間島に派遣したのは「大本営」で、組織上、石垣島にいる旅団司令官は直轄の上官にあたらない。それゆえなのか、もともとの彼の気質なのか、上に対しても堂々と「ものを言う男」と印象付ける場面描写が随所に見受けられます。
 これほどに住民のことを思っている人間は自分以外にはいないということを強調する格好にもなっていて、「自分でなければもっとひどいことになっていた」と彼自身そう思ってきたのでしょう。しかし、結果的には「軍令」だと押し切られた彼は、忠実にこの命令を実行していきます。
 
 この『陸軍中野学校終戦秘史』だけを読めば、山下というのは島民思いの「温情家」にして、司令官とも意見を言う豪胆な人物と読めます。
 この本じたいが、これまで「秘密」とされてきた陸軍中野学校の活動に迫ることを意図し、山下の発言についての裏取りもしなかったのでしょう。
 底本は、昭和46年から49年、番町書房より刊行された『陸軍中野学校』で、その後に刊行された宮良作の『日本軍と戦争マラリア』や『沖縄戦争マラリア事件』では、山下の発言と住民の証言とでは食い違う部分が多く、後発の二冊では、山下の発言を引用しながら疑義を呈しています。

『陸軍中野学校終戦秘史』を読む中で首を傾げたのは、山下が戦後も波照間島を訪れていたことです。
 恐る恐るであったはものの「先生が帰ってきた」と大歓迎をうけ感激したと語っています。島の人たちの中にも、もちろんいろんな立場の人がいて、感情はひとつではなかったのでしょうが、歓迎されたということを強調しているところが気にかかりました。
 
 しかし、1981年8月7日、山下が波照間島を訪れると知った住民たちが「二度と来ないよう」に抗議書をつきつけるという騒動が起きます。
 以降、彼は島に足を向けることはなくなったそうですが、時系列でいうと『陸軍中野学校終戦秘史』の底本の聞き取り後の出来事。それにしても山下は何をしに島を訪れていたのか。
 
 戦後、山下は自身が経営する鉄工所に島の若者を雇い入れたり、島の農家に農機具を送ったりしていたという。そこに何かしら「非情な軍人」だけではない、人間的な一面があったのでは。そう期待するのですが。

食肉はどこへ?

 大阪毎日新聞取材班による『沖縄戦争マラリア事件』を読むと、山下は島の牛馬を軍の糧秣(りょうまつ)としたのではないかという問いかけに対して、「デマだ。疎開先で各家に分けた」と強く否定しています。
 ところが『陸軍中野学校終戦秘史』では、家畜を「殺せ」と命じたことは認めたうえで、肉は燻製にして「軍の糧秣として石垣島に送った」と発言しています。

 いったい、いずれが本当なのか?

 離島に配置された中野学校出身の軍人たちには十分な食糧が与えられていたといわれ、自分は肉をひとり占めにするような人間ではない。心外だという腹立ちからの「デマ」発言だったのか。

 ちなみに『沖縄戦争マラリア事件』は、大阪毎日新聞取材班によるノンフィクションで、波照間島で亡くなった人たちを含め、八重山列島全体での強制疎開が発端のマラリアによる死者は、約3600人。遺族が国に対し、国家補償請求を行う裁判が1993年にあったことから取材がスタートしています。
 
 ところで疎開先となった西表島の南風見地区は、過去に行政主導で開墾がなされたもののマラリアによって移住村が壊滅したという、いわくつくの密林地帯。疎開先に選ばれた背景にはそうした過去の経緯も無関係ではないようです。(『日本軍と戦争マラリア』p.160-163)
 そして、米軍侵攻の兆候がなかったにもかかわらず、軍が疎開を迫るという不可解な背景には、先に川満さんが著書の中で記しているように、軍の糧秣問題が深く関与していたようです。
 
 波照間島には牛や馬、豚、鶏を飼育する農家が多く、山下は疎開にあたり、家畜を連れていくことはできない。しかし、残しておけば米軍が上陸した際、彼らの食糧となり「利敵行為」となる。「ぜんぶ殺せ」と命令します。
 それだけでなく、軍の上層部から、全戸を焼き払い井戸水に毒を入れろという指示もあったが、これは自分の判断でやめさせた。だから住民が帰島した際に飲料水に困ることがなかったのだから感謝してもらいたいくらいだと述べています。「自分でなければもっとひどいことになっていた」というのは、ここから出てくるのでしょう。
 
 家畜のト殺に関しては、若い男たちが軍に徴用され、島には年寄りと女子供しか残っておらず、女たちが「殺せない」と嘆願すると、食肉解体経験のある兵隊を10人ほど島に引き入れ、鰹節工場で燻製加工し、島外へと運びだしたという。
 その行き先は?

 毎日新聞の取材では、複数の現場の兵隊から旅団の「軍幹部に渡った」との証言を得る一方で、監督責任者であった軍人たちは一様にこれを否定しています。
 山下も、この食肉の件については、質問されるたび答えが違っている。宮良さんの『日本軍と戦争マラリア』では、「燻製にして、住民が疎開地にもって行った」という山下の発言が記されています。
 
 ところが、当時小学2年生で、家畜の牛を兵隊が食肉にする場面を目にしていたという住民の証言では、軍が運びだすのを見たという。しかも、
《西表島に疎開してから、「山下軍曹」が大人も子供もみんな集めて、
「この中に、牛肉を盗んだ人がおる。出てきなさい」
 と怒り、何人かを棒でめった打ちしたことがあったんだ。袋詰めにして波照間から西表に届いた肉の数が合わなかったんだろう》
(『沖縄戦争マラリア事件』p.33-34)
 疎開先では「やさしい山下先生」の面影は消え、瞬時にキレる「こわい軍人」の話が多くなる。
 
 結局、波照間島に住民が戻ることができたのは、7月末に住民の代表が山下に隠れて石垣島に渡り、八重山列島を管轄する独立混成第45旅団の宮崎団長に直訴し、敗戦直前にようやくにして認められたそうです。
 やっと帰島がかなうと島民が喜んでいた場に、山下があらわれ、自分に隠れての行動が気に入らなかったのか、「旅団長ではダメだ。大本営の許可しか認められない」とまたしても軍刀で脅したという。

 旅団長ではダメだというのは、直属の上官ではなかったのと、自分は「大本営」から特命を授かったというエリート意識を指摘する声もあります。しかし、マラリアが拡大するなかで、なぜそこまで帰島に強硬に反対なければいけなかったのか。
 後に山下は、住民たちが旅団長に直訴して帰島となる経緯も含めて否定し、帰島は自身の判断によるものだったと語っています。
 
 そもそもマラリア発生地域を疎開先に選択について、山下は「希望したのは住民」だと毎日新聞の取材に答えています。
 逆に彼がマラリアを懸念して住民たちを説得しようたしたものの、彼らは望郷の念がつよく、すこしでも波照間島が見える場所を望んだのだと。

 少年兵たちの「志願」もそうですが、住民自身の「希望」を理由にすれば結果に対する「責任」は自分にはない。そういう論理なのでしょう。
 しかし「反対する者は、俺がぶった切る」と怒声を浴びせたのは山下で、マラリアを恐れて疎開に反対していた人たちが、何故に好きこのんでマラリアの危険性の高い場所を選ぶのか。山下の言動はどうみても矛盾しています。
 
 最後に読んだのは、各書の原典ともなっている『沖縄戦の記録 日本軍と戦争マラリア』。著者の宮良作さんは、1927年、与那国に生まれ、88年から沖縄県議会議員を二期8年務めた人です。
 波照間の住民たちが、石垣島にいる旅団長から帰島の許可を得て準備をしているところにあらわれた山下が、「認めん。俺を動かせるのは大本営だけだ」と軍刀をふりさがした場面がリアルです(p.98-100)。
 
 疎開先を南風見地区としたことについて、疎開の先年に失敗した開墾の件や、戦後に山下が疎開地について「住民が選んだ」と主張する件、家畜を殺し燻製肉としたことを認めながら「住民が持っていった」と答えていることなど、著者は山下の発言のひとつひとつに詳細な反証をあげています。

 山下の人物像を映す印象的な場面があります。
 波照間小学校の校長の妻でもある先輩教員のことを当初、山下は「キヨ先生」と慕う態度を見せていたそうです。
 ところが疎開が論議されてからのこと、そのキヨ先生が「同じ死ぬんだったらこの島で死にます」と反対意見を口にするや、山下は「お前は校長の妻のくせに何を言うか」と声を荒げ、それからは誰も山下に逆らうものはなくなったという(p.39)。
 
 あまりのコワモテへの豹変です。山下はスパイだったのだから、それくらいは当たり前だと言われれば、たしかにそうなんでしょうけど。
 うーん……。豹変する山下について、映画の中では「やさしい先生」と語られたりもするのですが、その一面をすこしでも知りえたらと思ったのだけど、なかなか出会えそうにないのが残念だ。

【参考文献】
『陸軍中野学校と沖縄戦 知られざる「護郷隊」』(川満彰・吉川弘文館・2018年)
『沖縄戦争マラリア事件 南の島の強制疎開』(毎日新聞特別報道部取材班・東方出版・1994年)
『沖縄戦の記録 日本軍と戦争マリア』(宮良作・新日本出版社・2004年)
『陸軍中野学校終戦秘史』(畠山清行著・保坂正康編・新潮文庫・2004年)

○『沖縄スパイ戦史』の上映情報は→こちら
○大矢英代監督をインタビューした「週刊朝日」8/31号の記事もよかったら→こちら


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