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45年続いた、大阪・阿倍野の珈琲店・力雀のこと。


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 きょうで49日になります。大阪・阿倍野の「珈琲店・力雀」の雀さんが、むこうにいっちゃってから。
「シャッターを電動式にかえたのよ。40万円もしたんだから」頑張って店をやらないといけない。零細の店舗で毎月の出費はキツいけど、腰を痛めて難儀だからしかたない。そう言っていたっけ。本人もこんなに早め展開は考えてはいなかったにちがいない。

 だから今年の春に45周年を迎えられたあとも、まだまだ続いていくものだと思っていたから、「力雀」を手伝われていた二代目さんのツイートを目にしたときは身がこわばりました。


 わたしが通いはじめたのは、ユーゴー書店に就職してしばらくしてからで、その5年前から営業していて、カウンターだけの5人座れば満席となる小さな店。
 大学時代の友人のサトウくんから「ライフみたいな店があるんやわ」と連れていってもらったのがきっかけで、昼休みによく往復15分くらいかけて通っていた。途中、阿倍野体育館のちかくのトンカツ屋でランチをとった。こんな美味しいトンカツがあるのかと感激した店もいつの間にかなくなっていた。ライフというのは中島みゆきの歌に出てくる喫茶店に似た、長瀬の大学通りにあった店で、卒業する年に閉店してしまった。

 当時から「雀ノート」というのが置かれていて、サトウくんはその大学ノートに何か書き込んでいた。70年代、個性的な喫茶店が街のあちこちにあり、プガジャ(正しくは『プレイガイジャーナル』誌)という小さな雑誌をジーパンの後ろポケットにねじ込んで、京都や神戸に喫茶店を目的に出かけていったりしていた。
 阿倍野近辺にはマントヒヒというめちゃくちゃあやしげな、真昼でも店内は暗黒な雰囲気を漂わすライブハウスがあり、そこでハマッてしまったのが佐渡山豊でした。「ボクは三茶でキミを待っていた……♪」というフレーズがいまもふいに耳に響いてきたりする。三茶という場所がわからず西成の天下茶屋駅あたりの風景を想像していた、当時は(笑)。
 20くらいの客席でギターひとつ。イッパツで佐渡山豊の沖縄なまりの唄にしびれた。声フェチのわたしは、叩きつけるような歌謡のようなのに甘い声に魅了されてアルバムを集めたものだった。ぜんぜん関係ないけど、力雀の屋根裏部屋に上がったときに日焼けしたユージンスミスのポスターが飾ってあり、佐渡山のポスターを転居の際になくしたことをちょっと悔いた。

 そのマントヒヒ(たしか憂歌団の関係者がやっていたんじゃなかったか)もユーゴー書店もなくなったし、もともとは「雀」という店名だったのがパワーがもらえるとか誰かにいわれたとかで「力雀」と一文字増えるなどした後、大規模な再開発によって阿部野の街の風景もすっかり様変わりし、小さな路地の数件きりの商店街の珈琲店の周囲だけが、映画のロケセットのように昭和の色合いをたもっていた。

 いくら聞いても「スズメは雀」と笑い返され、結局本名を知ったのはお葬式の会場となった、福祉施設の玄関の葬儀案内の張り紙を見たからだ。その名前もいますぐに思い出せないでいる。
 店には三代続けて「ミミィ」と名づけられた店猫が棲みついていて、カウンターの上を、コーヒーカップをよけながらゆったりと気品のあるウォーキングしている。店内が空いていると、入り口のガラス窓越し外を眺めて、客の呼び込みをしていた。
 黒猫、トラ猫と種類はことなるのに、物静かな性格は似ていた。飼い主に似るのだろう。三代目が息をひきとったあとも、店に魂がいるかのように「ミミィ、アサヤマさんが来てくれたよぉ」と宙に向かって呼びかけていた。三匹いたどの猫にいうてんねん。つっこんだことはない。
 わたしが転職を重ね、30代の半ばに東京に出ていってからは、母の墓参りや関西での仕事帰りには立ち寄ったりしてきたが、それでも訪れたのは年に数回くらい。母がなくなってからうちの家の中はゴタゴタ続きだったので、ゆううつな話を吐き出せる相手だったかもしれない。他人ながら親身に話を聞いてもらっていた。

 まだユーゴー書店に勤めていた頃には、「時任三郎さんて知っている?」彼が大阪芸大の学生だった頃、よく店にやってきていて、青春時代の回顧録的なテレビ番組の取材を受けたという話を聞いた。嬉しそうだった。自慢の息子の出世を喜ぶ感じだった。
平凡パンチ」の特集記事を見せてもらったこともあったと雑誌を見せてもらった。遠くからも若者たちがわざわざやってくる。つまり、ちょっとトンガッタ店だった。
 アネキな雰囲気があるひとで、ひとまわり年の離れた姉に似たところのあるひとだった。
 でも、結局、彼女のことはなぁーンも知らない。なんで喫茶店を始めたのかも聞かずじまいだった。お葬式の会場で、ようやく名前を知るくらいだ。

 わたしが知っていることといえば、山陰地方の旧家の生まれで、家族関係が入り組んでいるということぐらい。それも、うちが父の相続でもめている話をしたときに、ぽろっと、わたしのところもそうなのよ、という話を聞いたのだった。考えてみたら、いつも一方的に、いま鶴瓶さんのおとうと弟子の笑福亭小松さんを取材していて大阪に来たんやとか、自分の仕事の近況を話すばかりで、雀さんのことをろくに知ろうとはしてこなかった。後悔してもしかたない。仕事をした雑誌を送ると、必ず感想が手紙や電話が返ってきた。聞き上手のスナックのママさんみたいな存在だったかもしれない。

 わたしは人物を追いかけ書くという仕事にしていることもあり、一度彼女をインタビューしようとしたことがあった。
 友人から「雀さんこのあいだ、わたしもインタビューを受けてみたいわ、といっていたよ」と聞いたことも動機にはなった。ちゃんと写真家に撮影してもらって…と申し込んだら「元気になったらね」と断られた。体調を悪くしていたということもあった。お洒落なひとだったから。結局その機会はなかった。

 10月4日のお葬式には、お店の手伝いをしていた二代目さんのツイートで、突然の訃報を知った常連のお客さんやケアマネさんたちが集まりました。さびしい見送りになると思って駆けつけたらひとが次々と現れて。
 病院に入院する際に、身寄りはないと申告させていたそうで、ケアマネさんが身元保証人になっておられたとか。そうした経緯から生活保護受給者を対象にした福祉葬の扱いになったそうですが、葬儀屋さんが「ここで、こんなに人が集まることはめずらしい」と話されていました。

「お葬式、お通夜は不要」を書き残されていたそうで、とくに喪主のいない、誰が弔辞やスピーチするわけでもない、時間になるとお坊さんの読経があり、焼香をして、それぞれが持ち寄った花を棺にそえるだけの簡素なもの。だけど、ひとはなんのためにお葬式をするのか、あらためてその意味を実感できた時間でした。父の葬儀で喪主をつとめて見送ってから、周囲に「ジブンのお葬式は要らない」とひとに言ったりしてきたけれど、あらためて、お葬式って、のこされた者がどうにもならない気持ちをなんとかするためにするものなんだなぁと。


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 お葬式のあと、常連さんたちと主のいないお店の片付けにうかがうと、雀さんが撮ったポートレイトが大量に出てきた。
 来店者に「ちょっと撮らせて」とカメラを向け、暗室で現像しプリントまで自分でする。撮ることが、彼女と店の足跡だったんだなぁと、いまにして思えてくる。
 しばらくぶりに訪れると「いい?」といっては撮られたけれど、ちょっとピントが甘かったりしてボケ具合が微妙で「雀さんにはこういうふうに見えているのか」と思ったりした。見返してみると、自己史を見るようだ。
 雀さんの撮り方が特徴的なのはカウンター越しの近距離で撮影する。定点観測にちかい。すべてモノクロ写真で、バックが写りこまない肖像写真。いつか自分も遺影が必要になったら、これかなぁと思ったりする。

 次に来店した際に渡すことをしてきたらしいが、たくさんの焼き付けられたポジともにこんなにも引き取られずに残っていたのかと驚くほど、百人をゆうに超える写真があった。これ自体が45年の歴史になっていた。
 どうします? 居合わせたものたちで話し合い、とりあえず物置スペースのあるわたしの実家に運び、45年間続けられた「雀ノート」とともに保管してあります。

 タイトル写真は、昔のメニューボードです。祭壇の遺影はわたしが通うようになった頃に撮影されたらしい。彼女の部屋に飾られていたものです。

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