『理系、文系』区分の弊害

理系、文系という区分けがあまり好きではない。というのも、この理系、文系という言葉が用いられる場合、

理系=数字が得意で、文章が苦手な人。
文系=数字が不得意、文章が得意な人。

もっと言えば、

理系=数字が得意。
文系=数字が不得意。

として使われることもあります。

それ故、この言葉の認識が不足しているものがこの言葉を用いる場合、文系であるので数字に不得意でも良い、理系であるので文章が不得意でも良いという根拠のない免罪符を与えかねません。

というか、私もそう思っていた時期がありました。

学生時代、私は数学が比較的得意であったため、日本語に対する理解が不足しており、数学、物理という原理・原則を理解するれば、言語という冗長表現に頼らなくても、何かを生み出すことができると考えていました。

しかし、さまざまな文学、芸術、料理に至るまで、様々な表現を知ることで、数学、言語は元より全ての創作活動においていわゆる"型"として原理・原則が存在し、その理解には文章に数字も垣根無く学ぶ必要があることが分かりました。

例えば、一般的に理系の分野とされるプログラミング言語は、多くの言語に共通するif,for,whileなどの"型"に用いられる単語を学び、各プログラミング言語特有の表現方法を学ぶという手順で学習されます。
これは一般的な言語において日常会話から、その言語特有の表現までを学ぶのと同様であり、C、VBA、HTML、java等のプログラミング言語はそのまま日本語、英語、中国語等の言語置き換えることが可能であり、言語学習として捉えれば、いわゆる文系出身者も比較的簡単にプログラミングを理解することが可能だと思います。

また、言語としての数学という特性を理解していなければ、文系の進学先とされる経済学や社会学に用いられる確率統計を適切に表現することはできません。"正義"の主軸が曖昧で多様性、可能性への理解が求められる昨今、"程度問題"適切に理解するためには確率統計への理解もまた重要だと考えられます。

理系の進学先である、化学、物理学、IT分野においても、文章への理解が乏しければ適切な論文の執筆、プレゼンは難しいと思われます。

というか、自分が文章を勉強しなかったせいで、今でも文章に苦労してます。。。

さらに、芸術表現における数学に関しては、映画における表現に関しても笠原和夫シナリオ骨法十箇条における原理原則の重要性しかり、ビートたけしの『間抜けの構造』で語られる”映画の因数分解”ができれば余分な説明はいらないという言葉然り、表現全体において過不足無く構成するという数学的な論理性の必要さについて説かれています。

ということで、何にせよ文章と数字への理解が深ければいくらでも応用が利くという事です。

では、なぜそもそもこの文章と数字を敢えて分けるような"理系"、"文系"という言葉が生まれたかというと、一説では、東京工業大学教授で社会学が専門の橋爪大三郎によれば、学問を文系と理系とに区別することの本来の動機は、実験設備に予算がかかる学問の学生数を制限することが目的だったそうです。

■理系と文系https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%87%E7%B3%BB%E3%81%A8%E7%90%86%E7%B3%BB

つまり、最初に申し上げた、文章および数字に関する能力を区別する言葉ではないということです。

もちろん、"理系”、"文系"という言葉は今日用いられる多くの言葉と同様にただの便利な道具として用いられることに異論はありません。しかし、この"理系"、"文系"という言葉表現しうる文章および数字の解釈には限界があるという事に関しては、先ほど述べたような多様性への理解が求められる現代において、今一度考えてみる必要があるかもしれません。

どのような分野においても、専門家の情報が入手可能な昨今ですので、敢えて分ける必要は無いと思いますが、効率的に学習しようと思えば、個人のパーソナリティ特性の分類法ビッグファイブと興味の指向性を判断して、学習対象を推薦するというやり方も効果的ではないかと考えます。

■ビッグファイブ(Big Five personality traits)https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%93%E3%83%83%E3%82%B0%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%96_(%E5%BF%83%E7%90%86%E5%AD%A6)"

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