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世界における日本文化の位置 ——クロード・レヴィ=ストロース

世界神話における主要なテーマ

 1985年に、私は初めてイスラエルとキリスト教の聖地を訪れ、ほぼ一年後に九州で、日本の最も古い神話の始原にかかわる出来事があったとされている土地を訪ねました。私の文化と私の出自から言って、第一の場所の方が、二番目に訪れた土地より、私の心を捉えるのが当然であったはずです。実際には、まったく逆のことが起こりました。ニニギノミコトが天下った霧島の峰、オオヒルメ、つまりアマテラス女神が閉じこもった洞窟に面した天岩戸神社は、ダヴィデの神殿跡とされている場所や、ベッレヘムの洞窟や、キリストの聖墓や、ラザロの墓よりも、深い感動を私のうちに惹き起こしました。
 なぜ、そうだったのでしょうか。皆さまと私たちの、それぞれの伝統への対し方が著しく異なっているからだと、私には思われるのです。日本では書かれた歴史が比較的遅く始まったので日本人はごく自然に歴史を神話のなかに根づかせたのかもしれません。神話から歴史への移行は巧妙になされています。それがたやすくなされているため、これらの神話が日本人にもたらされた状況から、一つの意図が存在したことがわかるのです。それは、これらの神話を、厳密な意味での歴史の導入部にしようという、編纂者たちの意図です。西洋にもむろん、神話はありますけれども西洋では、何世紀も前から、神話に属する領域と、歴史に帰すべき領域とを区別する努力をしてきました。検証可能な出来事だけが、歴史として考察されるに値するというのです。奇妙な逆説的な結果が、そこから生じています。つまり、もし伝承に遺されている出来事が実際にあったのだとすれば、それが起こった場所も示されうるはずです。ところがキリスト教の聖地の場合、伝えられている場所でそれらのことが実際に起こった証拠はどこにあるのでしょうか。ローマ帝国のコンスタンティヌス一世の母ヘレナ皇太后が、四世紀初め、聖遺跡を確かめようとパレスチナに赴いたのは、自分の信念に惑わされたからではなかったと、どうして言いきれるでしようか。そして教数世紀後の十字軍も、同じ思い違いをしていなかったと言えるでしょうか。考古学の進歩にもかかわらず、彼らの証言が聖遺跡を正当化する、ほぼ全面的な根拠にされ続けています。遺跡を訪れる人が、聖書の内容は信じているが客観的精神の持ち主であった場合、キリスト教のエピソード は実際にあったことだと思っていても、本当にその出来事がこの場所で起こったかどうかには疑問を抱くのです。
 九州では、このようなことはまったく問題になりません。人々はそこで、あっけらかんとして神話的空気に浸るのです。歴史性は問題になりません。より正確に言えば、この状況では歴史性を問題にすることが適切ではないのです。天から降臨したニニギノミコトを迎えた栄誉ある土地はここだと二つの場所が主張しても、差し支えないのです。パレスチナでは、もともと歴史的出来事が起こったという証拠を持たない土地には、神話で箔をつけることが求められます。しかしそのためには、神話が自らを神話ではないと主張しなくてはなりません。つまり出来事が「本当に」そこで起こった場所だと、訴えなくてはならないのです。しかしそれを証明するものは何もありません。反対に九州では、比類のない見事な風景が、神話群を豊かにし、美化し、目に見える具体的なものに仕立てるのです。
 私たち西洋人にとっては、一つの深淵が、神話と歴史を隔てています。反対に、私が最も心を惹かれる日本の魅力の一つは、神話と歴史相互のあいだに、親密なつながりがあることです。今日もなお、これら神聖な旧跡を訪ねる人たちを乗せたパスの数をかぞえてみるだけで、そのことは十分にわかります。この人たちは、偉大な国造りの神話や壮大な風景が、伝説的な時代と現代の感受性のあいだに、現実的な連続性を保っているさまをあらためて確認しようとしているのです。
 この連続性は、日本を訪れた初期のョーロッパ人たちに、衝撃を与えずにはおきませんでした。すでに十七世紀に、ケンペルは日本の歴史を三つの時代に分けています。伝説の時代〔『日本誌』では「天神の時代」〕、不確実の時代〔「人神の時代」〕、真実の時代〔「人皇の時代」〕です。ですからケンペルは、そこに神話を含めたわけです。日本がまだよく知られる前にさえ、西洋の旅行者や思想家が日本 に敬意を抱いていたのは、こんなにも早い時期に認識されていたこの能力、つまり西洋人には相容れないように思われる異なるジャンルを内包し、結合させる能力を日本人が持っていたからなのです。ジャン = ジャック。ルソーは、1755年に公にされた『人間不平等起源論』の注の一つで、まだまったく知られていないか、あまりにわずかしか知られていない諸文化を挙げ、現地に行って研究することが緊急に必要であろうと述べています。北半球では彼は15ほどの国を挙げ、その概観を次の言葉で締めくくっています。「......そして、特に日本」。なぜ、「特に」なのでしょうか。
 それに対する答えの一つが、一世紀後にやって来ます。皆さまの最も古い伝承の集成である『古事記』と『日本書紀』が、ヨーロッパの学間世界に与えた深い印象の記憶は、今ではすっかり忘れ去られていますが、英国の人類学の創始者であるタイラーが、1876年に『古事記』と『日本書紀』の概要を教えてくれているのです。そして1880年と1890年に、最初の英訳と独訳が刊行されました。原初の時代には人類全体に共通であったはずの大原始神話——ドィッ人が「原神話」Urmythus と呼んでいたもの——が、昔の姿のまま自分たちの時代まで残ったのだと考える人もいました。
 たしかに、 『古事記』と『日本書紀』はそれぞれ異なるやり方で、一方はより文学的に、他方はより学問的に、世界神話のあらゆる大きな主題を、比類のない技法でつなぎ合わせています。そしてこれらの神話は、そのなかで少しずつ歴史に溶け込んでいるのです。そこに日本文化が提起する基本的な問題があります。広大な大陸のはずれで周縁的な位置を占め、長いあいだの隔離を経験していながら、同時にその最古のテクストが、他の地域では散逸した状態でしか見出せない諸要素をこの上なく洗練されたやり方で綜合できたことを、どのように説明したらよいのでしょうか。
 問題は、旧世界だけに限られたものではありません。これらの古い文献に見出される、神話的な多くの主題やモチーフは、アメリカ大陸にも存在するのです。けれども、この点に関しては慎重を要します。アメリカ先住民と古い日本に共通するすべての主題は、インドネシアにもあり、そのいくつかのものは、この三地域にしか認められないのです。この三地域の神話は細部にいたるまで一致しているので、個別に考え出されたという仮説はただちに排除できます。それならこれまでにもやって来たように、これらの神話の単一の起源を探す努力をすべきでしょうか。インドネシア、あるいは日本の神話が、独立に二つの方向に旅をしたのか、あるいはインドネシアを出たこれらの神話が、まず日本にもたらされ、次いでアメリカに渡ったのでしょうか。宮城県での最近の発掘によって、四万年から五万年前のものとされる石器の一群が見つかり、人間が居住していたことが明らかになりましたが、北方に位置することを考えると、旧世界から新世界へと移動する通過地域にあたっていたのかもしれません。
 忘れてはならなのは、大氷河期のあいだ、そしてそれより後の、およそ一万二千年から一万八千年前の時代には、日本は何度もアジア大陸とつながっていたということです。そのころ日本は、北に向かって警曲した長い岬だったのです。この時期にはマレー半島、つまり一方では台湾とオーストラリアのあいだ、他方ではニューギニアとマレー半島のあいだの島々の大部分は大陸とつながっていました。さらに、およそ1000キロメートルの幅の陸地が、現在のペーリング海峡にあたる地域で、アジアとアメリカを結んでいたのです。大陸の縁で、地球上の大通りともいうべき場所が、人やもの、思想を自由に行き来させていたのです。それはインドネシアから中国沿岸部、朝鮮、満洲、北シベリアを経て、アラスカまで達していました。先史時代のさまざまな時期に、この広大な複合体は、両方向への人々の移動の舞台になっていたに相違ありません。ですから、起源地を探すのは、やめにした方がよいでしょう。おそらく神話が共通の遺産をなしていて、その断片を、あちらこちらで私たちは採録しているということなのでしょう。

「失われたもの」というモチーフ

 それなら、日本の独自性をなしているものは、何でしょうか。この問いに答えるのに、日本の神話の一つの挿話を検討することが、私を助けてくれるのではないかと思います。1986年に、私は九州の東海岸で、幼少のウガヤフキアエズノミコトが母方叔母に育てられたと神話が語っている洞窟を見学する機会がありました。ミコトはのちにこの叔母を娶り、神武天皇が生まれるのです。
 こういった事柄は、インドネシアやアメリカ大陸の神話でも、同様の脈絡のなかで物語られています。けれども注目すべきは、日本版が最も豊かだということですが、それは二つの意味においてです。まず、日本版だけが物語を完全な形で収めています。相補う役割を持つ二人の兄弟が登場し、さらに失われたものというモチーフがあり、持ち主はその返却を求めます。そして弟が訪ねる海の王もしくは神のエピソード。王は、弟がなくした釣針を見つけて返してくれるだけでなく、自分の娘を娶らせます。出産のとき、竜に姿を変えている妻を見るなという禁忌があり、これを破った夫のもとを妻は去って戻らないのです。最後の部分は、ョーロッパに類似したものがあります。十四世紀のある物語によると、妖精メリュジーヌは人間の男と結婚しますが、彼女が半人半蛇であることを夫が知ったため姿を消すのです。しかし彼女は息子を残し、その子孫が、のちに母方の大叔母を姿るのです。日本版では、海神の娘が産んだ息子が母方の叔母を娶ります南アメリカの神話の一つでは、釣針が盗まれる話に、叔母——ここでは父方の叔母になっていますが——との近親婚の物語が続いていて、やはり興味深いことです。しかし、インドネシアやヨーロッパや南北アメリカでは、物語は断片的ですし、完全に一致してはいません。
 最も豊かな日本版は、より厳密に構成されてもいます。『古事記』と『日本書紀』の記述をたどりますと、この神話の物語は、まず生と死という主要な対立を提示し、その後、人間の生命を短縮するという一つの仲介項を導き入れて、その対立を中和することがわかります。次に、生あるものの範疇のなかにもう一つの対立が現れます。今度は二人の兄弟、時間軸の上で、それぞれ年長と年少という対立です。そして空間軸——役割という軸でもありますが——においては、一方は狩りに、もう一方は釣りにという、山と海に結び合わされた二つの活動に従事するのです。弟の発案で、二人の兄弟は彼らの道具、釣針と弓矢を取りかえることによって、役割の対立を中和しようと試みます。彼らは失敗するのですが、他ならぬこの失敗から、かりそめの成功が導かれます。兄弟の一人〔ヒコホホデミノミコト〕と、海の王女〔トヨタマヒメ〕の結婚が続くかぎり、陸と海の空間的対立は乗り越えられるように思われます。一人の男性が二つの役割を持てないのと同様に、女性も自分の二重性を見せてしまえば罰を受けるのです。仲介のために支払うべき代価はあまりに大きく、夫婦は別れ、空間の対立は修復不可能になってしまいます。そのことを『日本書紀』は、この海と陸が分離する挿話の締めくくりで、次のように明確に語っています。「此、海陸相通はざる縁(ことのもと)なり」。日本の島国としての特性は、陸と海のあいだのこの対立、そしてそれを乗り越えようとする人間に課せられた絶えることのない努力と、ある意味で切り離せないのではないでしょうか。
 分析を仕上げましょう。一連の出来事の初めに、人間の寿命を短くすることが、生と死という時間の次元から生まれる二律背反に、一つの解決をもたらします。そして終わりには、空間の次元の陸と海という二律背反に解決が与えられるのですが、これはどっちつかずの解決です。海の王を訪ねて戻った主人公は、潮の干満を支配できるようになるのですが、潮の満ち引きという現象は、ある時は海に対して陸に、ある時は陸に対して海に優位を与えるものです。けれどもそれは周期的なリズムに従うのですから、ふたたび時間の次元に属することになります。このようにして円環が閉じます。なぜなら、これら宇宙規模の対立が解決した結果である神武天皇の誕生とともに、少なくとも『日本書紀』の著者たちの考えでは、人々は神話から出て歴史に入るからです。
 日本の古い神話にいくつもあるこのような例から、どんな結論を引き出すべきでしょうか。私がいま要約してお話しした神話上の出来事で、日本だけに固有のものは一つもありません。すでに申しましたように、世界のさまざまな地方にもあるのです。交換を断るというモチーフは、アフリカにさえあることが確かめられていますが、ァフリカがアジアと繰り返し接触して来たことは、知られているとおりです。けれども、八世紀に書かれた皆さまのテキストほど、こういったばらばらな要素を、これほどしっかりと構成し、極めて大きなスケールでまとめ上げた例は、他のどこにもありません。失われてしまったモデルがもとになっているにしろ、新しく創作したにしろ、これらのテクストは日本文化の特質を例証しています。この特質にはニつの側面があります。極めて古い時代に、比較的等質性の高い民族のタイプと言語と文化を形成するのに貢献したに違いない要素の多様性を考えると、日本は何よりもまず、出逢いと混淆の場であったと思われるのです。けれども、年古りた大陸の東の端という地理的環境と、断続的に孤立していた状況は、日本が一種のフィルター、あるいはこう言ってよければ蒸留器として働くことも可能にし、日本で合流した歴史の流れが運んできた物語から、稀少な一つのエッセンスを分離させたのです。借用と綜合、混合と独創とを交互に繰り返してきたことが、世界における日本の位置と役割とを言い表すのに、最もふさわしいように私には思われます。
 非常に古い時代からすでにあった出逢いと混涌の段階、それは先史学が証明してくれています。日本の旧石器時代が他に類を見ない豊かな時代であったことが、年とともに次第に明らかになってきています。ごく最近、明石市の近くで、人が加工した五万年から七万年前の木板が発見されましたが、このようなものが世界のどこで見つかったでしょうか。石器の多様性もまた驚くべきものです。何千年にもわたって、人がたえまなく流入したこと、あるいはその場での進化から生じたさまざまな文化が、日本に多様性という芽を植えつけたことは疑いありません。

「縄文の精神」とアクション・ペインティング

これに対して、狩猟·漁携や採集を営み、農耕は行わない定住民で、土器作りの名手として知られる人たちが生んだ日本の一文明は、私たちに独創性の一例を示してくれます。人類諸文化のすべてを見ても、これに比肩できるものはありません。なぜなら、縄文の土器が、他のどんな土器にも似ていないからです。まずその年代ですが、これほど古く遡ることのできる土器作りの技術は、他に知られていません。次に一万年も続いたという、長い期間もそうです。そしてとりわけ様式が独創的なのです。その様式は、縄文中期の「火焔様式」とでも呼ぶべき土器において、見る者の心をとらえずにおかない表現に到達しています。これを他と比較する言葉などありません。それであまりにも突飛な形容をしてしまうのです。「構成がしばしば非対称」とか「あたりかまわぬフォルム」とか「ぎざぎざ、突起、瘤、渦巻き、植物的な曲線がからみ合う造形装飾」といった表現をきくと、五、六千年前に「アール・ヌーボー」が生まれていたような気持ちになりますし、別の側面からは、アメリカのいく人かの現代芸術家が言うように、叙情的抽象とかアクション・ペインティングが想起されます。完成された作品にも、どこか素描のようなところが残っているのです。作者がある突然のひらめきにとらわれ、その一つ一つの作品が創作の意図せぬ勢いのなかで、最終的なフォルムを与えられたかのようです。
 おそらく、これは誤った印象でしょう。これらの器の用途や、社会的、心理的、経済的条件は、私たちがほとんど何も知らない一つの社会に具わったものであったはずだからです。いずれにせよ、私がしばしば自問することは、弥生文化によってもたらされた大変動にもかかわらず、「縄文精神」と呼べるかもしれないものが、現代の日本にも存続していないだろうかということです。もしかすると、日本的美意識の変わることのない特徴は、この縄文精神かもしれません。日本的美意識の特徴は、素早く、確かな創作を実行することであり、これには二つのことが必要です。一つは技術をこの上なく見事に操ること、もう一つは仕上げる作品を前にして長い時間考えることです。この二つの条件は、霊感を得た縄文土器の名人たちも、おそらく有していたと思われるのです。そして、様式上の同じ原則が、遥かな時をこえて、変化した形で残っているのではないでしょうか。太さも堅さも違う竹の薄片を不規則に編んだ、風変わりな造りの籠編みのうちにそれを見ることはできないでしょうか。この手の筆は、日本の展覧会や博物館では重要な場所を与えられていないように思えますが、私はそこに、極めて興味深い、そしてさまざまな点でめずらしい、日本美意識の表現の一つを見るのです。
 他に、もっとわかりやすい日本らしさの例があります。弥生時代の銅鐸の側面に描かれている表象に繰り返し現れる様式化された線。何世紀かのちの植輪。さらにのちの時代の大和絵。そして現在に近い浮世絵の技法。そこにもここにも、表現の意図と、手段の簡素さが、何よりもはっきりと認められます。さらにグラフィック・アートでは、単色と線とが、対立をなし、同時に補完し合ってもいます。中国式のふんだんな複雑さからは、およそ遠いのです。ただし、ある時代、ある領域では、明らかに中国は日本の着想の源でした。
 このように見てきますと、日本文化は両極端のあいだを揺れ動く、驚くべき適応性をもっていることがわかります。日本の織物師が、幾何学模様と自然を写した絵柄とを好んで取り合わせるように、日本文化は反対のものを隣り合わせにすることさえ好むのです。この点で、日本文化は西洋の文化とは異なっています。西洋の文化も、その歴史の過程で、さまざまな立場を取ってきました。けれども西洋では一つのものを別のものと取りかえるのであり、後戻りするという発想はありません。日本では神話と歴史の領域は相容れない関係にあると考えられていませんし、独自の創作と借用についても同様です。もしくは——美的側面の話題で議論をしめくくるなら——漆芸や陶芸に見られる洗練を極めた技と、自然のままの素材や民芸風の製品——一言で言えば、柳宗悦が「不完全の芸術」と呼んだもの——に対する嗜好とのあいだにも対立は感じられないのです。さらに驚かされるのは、科学と技術の前衛に位置するこの革新的な国が、梅原猛氏がいみじくも強調したように、古びた過去に根を下ろしたアニミズ ム的思考に、畏敬を抱き続けていることです。神道の信仰や儀礼が、あらゆる排他的発想を拒む世界像を有していることを知れば、これも驚くにあたらないでしょう。宇宙のあらゆる存在に霊性を認める神道の世界像は、自然と超自然、人間の世界と動物や植物の世界、さらには物質と生命とを結び合わせるのです。

底本:クロード・レヴィ=ストロース著 川田順造 訳 『月の裏側 —— 日本文化への視覚』(2014年7月10日初版発行、中央公論社)

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