架空の寺の話

 こんにちわ。錦鯉の口です。今日は、私の知り合いのT君に聞いた話を書こうと思います。T君は私の一個下の後輩ですが、馬が合うのでよく色んな話をします。これは夏の暑さを感じる6月の夜に聞いた、彼の考えた架空のお寺の話です。





1 出会い

 その日は妙に寝付けない夜だったらしいです。明日はお昼に割と遠めな現場に行く必要があったので22時には床に就いていたのですが、何度も寝返りをうっても、目を瞑っても、椅子に溶けたクラゲを思い浮かべても、全然に睡魔に誘われることはなかったそうです。

 夜も開け、T君は今日は眠らないで過ごすと決めました。そして折角朝早くから動けるのならば、普段乗ることのなかった始発の電車に乗ろうと思い、駅に向かいました。

 2時間と少し電車に揺られ、現場の最寄の駅に到着しました。T君の予定はお昼からなので、かなりの暇を潰す必要がありました。そこで、散歩をすることにしました。

 町も起き始めた6時すぎ、一つのお寺が目に入りました。普段ならスルーしてしまいますが、心に余裕があるからか、それとも不眠から来る目の冴えか、とにかくそのお寺が気になったそうです。

 門のところにお寺の名前が書いてありました。

 『牛干生寺』

 そう書いてありました。T君は(私も)読み方がわかりませんでした。

 ただ、現代にはスマートフォンという文明の利器があります。門の前に立ち止まって、その名前を打ち込みました。

 結局、牛干生寺のことは何一つわかりませんでした。


 それからしばらく、お寺の前でスマートフォンをいじくっていると、若いお坊さんが竹ぼうきを持って歩いて来ました。そのお坊さんはT君にぺこりと頭を下げてから挨拶をし、

「なにか御用ですか?」

と尋ねてきました。これは願ってもないチャンスです。

「すみません。このお寺の名前の読み方がわからなくて」

「なるほど。これは『うしひき』と読むんです」

「ありがとうございます。ネットで調べても出てこなくて困ってたんです。すみません」

「いえいえ。インターネットに載らないようにしているので。すみません」

「・・・なぜ、ですか?」

 若いお坊さんは竹ぼうきを握りしめ、黙ってしまいました。10秒程度黙っていたのですが、決心したのか口を開きました。

「少し長くなってしまいますが、いいですか?」

 幸い、時間はありました。T君はお坊さんに連れられて門をくぐりました。


2 牝牛の死

 T君は境内のベンチ(岩を切ったようなものだったそうです)に勧められるまま腰かけ、お坊さんは竹ぼうきをしまいに行きました。好奇心に駆られて着いてきてしまいましたが、一人で境内にいるとちょっぴり不安感もあります。緊張から玉砂利を眺めていると、若いお坊さんが「お待たせしました」と帰ってきました。

 そこからT君は色んなことを聞いたそうです。ざっくりいうと

・『牛干生寺』は元々この名前ではなかった

・昔、朴真という立派な和尚が居た

 の二つです。特にこの朴真という和尚が如何に立派で素晴らしい人物であったかを丹念に語られたそうです。あまりに長く話すのでT君は後悔したそうです。
 

 しかし、T君が飽きたのを知ったか知らずか、若いお坊さんは本題を話し始めました。

「これから話すのは、なぜこのお寺が『牛干生』となったか、になります」



 ある日、朴真のもとに一人の男が老いた牝牛を連れて訪ねてきました。男は縋りつくように朴真に近寄ると、最初に罪の告白を始めました。

「俺は、妻も子供もいるが毛ほども愛してねえ。俺が愛してるのはこの牛だけだ。妻も子供も、この愛しの牛を養うための道具としか見れねぇ」

 ひどい男です。朴真は眉をひそめました。そんな朴真を見もせずに男はこんな質問を投げかけたのです。

「だけど、この牛ももう歳だ。いつ死ぬかわからねぇ。俺は、この牛と同じ天国に行けるだろうか?」

 妻帯者であるにも関わらず、そこに愛はなく、しかも愛しているのが家畜であるこの男に、朴真はこう告げました。

「このままでは、地獄に落ちてしまうだろう」

 そう言われた男は、老いた牝牛を引き連れ、とぼとぼと帰ったそうです。


 それから幾日か経ったあるとき、朴真は弟子たちが門の前で何やら騒いでいるのを見つけます。朴真が弟子たちのもとへ行くと、門の外にあのときの牝牛が立っていました。

 牝牛は決して門をくぐることはせずにじっとそこに立っていました。しかし、朴真が現れたのを見ると、その場でばたりと倒れて死んでしまったのです。

 これは何かがあったに違いないと考えた朴真は、ざわつく弟子たちを置き去りにして寺を飛び出し、牛の足跡を辿って走りました。

 しばらく走ると、それほど大きくない村が見えました。朴真が村で牛を溺愛していた男を探して回ると、あの男の妻であった女を見つけることができました。その女は朴真が僧であることがわかると、これまた縋りついて朴真が聞くより早く話を始めました。

「助けてください、助けてください。私の夫は妖怪に食われました。次は私が食われるのでしょうか、あの子たちが食われるのでしょうか。助けてください」

 朴真は取り乱し始めた女を鎮め、事の顛末を聞き出しました。


 旦那は昔から一匹の牝牛だけを溺愛していました。そのことは妻になる前から知っていることで、子供ができても愛が無いことには驚いたが、べつに旦那を嫌いになることはありませんでした。ただ、あのとき、老いたその牝牛を連れて明朝人知れず家を出ていったときは、とうとうこのとき来てしまったかと思いました。

 しかし、夕方頃、旦那は牛を連れて帰ってきました。どこか憑き物が落ちたような顔をしていたのが印象的でした。驚いたことに旦那はその牝牛をほかの牛のいる牛舎にしまい、私に抱き着きました。それから今までの遅れを取り戻すかのように愛のある人になりました。はじめは、私も子供たちも喜びました。しかし、次第に怖くなりました。旦那が旦那でないような気がしたのです。何より、あの牝牛。老いて今すぐにでも死にそうなのに、ちっとも死にませんでした。きっと、あの牝牛は物の怪で、旦那をずっと狙ってたんです。そう考えた私は子供たちを連れて、家から逃げたのです。きっとあの牝牛は次に私たちを狙うはずなのです。

 

 朴真は話した後も怯える女を宥めながら、今朝、寺の門前で死んだ牝牛のことを考えていました。

 女は置いてきてしまった旦那の様子を見てきて欲しいと、朴真に頼みました。朴真はこれを快諾し、女に教えられた男の家へと向かいました。

 戸を開けてすぐに朴真は愕然とします。男は死んでいたのです。細く瘦せほそり、一人孤独に死んでいました。牛舎を覗くと、牛たちも、男と同じく死んでいました。

 男は牛の世話もろくにせずに死んだようでした。

 牛舎をまわった朴真は、あることに気が付きました。一つの縄が千切れているのです。どうやら、あの牝牛はあの老いた身体で縄を千切り、寺まで歩いたようです。

 こうなると、寺に残した弟子たちが心配になります。朴真は女に旦那と、そしてあの牝牛も死んだということを伝え、急いで寺へと戻りました。

 

3 蔵の牝牛

 寺に着くと、驚くことに今朝死んだばかりの牝牛が乾いていました。

 さらに驚くことに、この牝牛の死骸がとても魅力的に見えたのです。

 朴真は規律を重んじ、研鑽を欠かさず、誰よりも懸命に生きていました。何があろうとも教えを守り、平和を祈っていたのです。しかし、今日、朴真はこの牛の死骸を引きずり、境内に入れたのです。理由は、あまりにも魅力的であったから。

 その後、朴真は医者や猟師、あらゆる人を呼び付け、この牛を剥製にしました。内蔵を抜いて綿を詰め、目には高価なガラスをはめ込みました。そして、四六時中その牝牛を愛でて過ごしたのです。

 当然、弟子たちは騒然としました。逃げるように寺から去っていくものもいました。気が付けばこの寺にいる人間が、朴真と一人の弟子だけになりました。

 朴真は生涯、牝牛を愛しました。残った弟子に牝牛を見せることは決してなく、死期が迫ったのがわかると蔵を作らせ、そこに牛をしまいました。そして、弟子に「寺を守り、牛を守るように」と遺言を残して蔵へと入り、そして、二度と朴真が出てくることはありませんでした。

 


 ここまで聞いたのならわかるでしょうが、この若いお坊さんはその弟子の子孫でした。朴真の言いつけを守り、今も固く閉ざした蔵とこの寺を残しているのです。

 『牛干生』と名前が付いたのがいつなのかは正確にはわからないそうですが、牛を引きずって境内を歩いていた朴真の姿を見た元弟子たちの証言が形を変えて付いたのでは、と若いお坊さんは話しました。

 T君はこの話を聞いて、その牛を見てみたくなったそうです。そこで、若いお坊さんに牛を見せてくれないかと頼みました。

「申し訳ありませんが、お見せすることはできません」

 断られました。しかし、T君はなんとしても、その牛、せめて気配でも知りたかったのです。そこで、せめて牛をしまっている蔵を見せてないかと頼んだところ、蔵までならと見せてもらえました。

 その蔵は見た目はどこも変な気配のない普通の建造物だったそうです。しかし、蔵の戸の正面に立つと体の内側が何かに引っ張られるような、そんな感覚を味わったそうです。若いお坊さんは、T君がその感覚に冷や汗を流しているのを見て、「まだ、見たいですか?」と尋ねたそうです。

 もちろん、断りました。


 T君はその若いお坊さんに連れられて、寺を軽く回り、そこで色んな話を聞かせてもらったそうです。が、その話の内容は教えてくれませんでした。しかし、若いお坊さんから聞いた話を1つだけ教えてもらいました。それは、T君に対して、なぜこんなにも色んな話をしたのか、という話です。

「私はね、子供の頃、あの蔵を開けたことがあるんです。凄かったですよ。手入れなんて勿論されてないですから、むせるほどの埃の匂いがしました、そして腐った何かがあった気配がするんです。でも、その蔵には綺麗な牝牛の剥製しかないんです。もう、わかっていると思います。この寺は私の代で終わりなのです。私が動けなくなったら潰します。決して残さないようにしてるんです。でも、少し寂しいじゃないですか。父や祖父、代々ずっと師弟の約束を守っていたのに、それが誰にも伝わらないなんて。だから、たまたま興味を持ったあなたに話すことにしてしまったのです。巻き込んでしまって、ごめんなさい」

「いえいえ、大変興味深い話でした。本当にありがとうございました。」


 T君はそう言って、若いお坊さんにお礼をすると、若いお坊さんは笑ってから小さな砂糖菓子をくれたそうです。






 これが私の架空の知り合いのT君に聞いた、架空のお寺の話です。

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