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鹿の目は大きい

近鉄電車で奈良公園に向かう。
スマホに目を落として、誰かに見られても恥ずかしくない画面を選んで眺める。
隣の席で親子らしき人が喧嘩を始める。パスワードを読み上げて怒られるお母さん、頓珍漢らしいことを言ってそうじゃないと強く言われるお母さん。身内に強く当たってしまう現象には心当たりがあるなと思う。

初めは空間に余裕があった車内もいつの間にかにぎわってくる。
奈良公園に着くと周りは観光の人らしい。大きなリュックサックを背負った外国人観光客らしき人、軽装の大学生と見られるグループ、子供連れの家族。
ホームからひとつ階を上がりみまわすと通路の真ん中の方にあるロッカーが目に入る。未使用のロッカーもまだあり、荷物を預けられる、と思う。トートバックと1日をともにする覚悟も持っていたので、嬉しい。奈良公園の近くにスタバがあることを調べたので、スタバで日記でも書こうかと思っていたが、ロッカーを目の前にしては、賛成できない。空いているロッカーに手をかけた時、後ろでこれは何かと母親に尋ねる男の子の声を聞く。これは300円を渡してでも持っていてもらいたい荷物がある人が使うもの。

ペラペラの小さなトートバッグに財布を入れて身軽で気軽な気持ちになる。
昨日、喉が乾いたが飲み物を持っていないという経験をしたので、駅の中のコンビニで水を買う。
駅を去る前にトイレに並び、マップを開く。奈良公園までは一本道で迷わなくて良さそうだ。スタバにはもう行く気がなくなったから、もう1つのいきたい場所、ならまち糞虫館からのルートなどを見る。糞虫館は13時からしか開かないようなので、午前中はとにかく鹿を見るべきだ。
トイレから出ると、目の前にお土産屋さんがあったので、ふらふらと寄る。いちじくワインというものが気になる。お酒はあまり飲まないが、果実酒という存在に惹かれる。旅行先では重いか軽いかの基準でものを見てしまう。ワインは確実に重い。また今度、と店を後にする。

人の流れに乗り、階段を登り、駅を出る。人が多い。
自分と同じくらいの背丈の人が、おしゃれな格好をしていたので目で追ってしまう。
最近は服の裾がほろほろしているのが流行っているのだろうか、ほろほろとした白いニットに、黒のロングスカート。スカートは一部がチュールのような素材になっていて、春らしい。サボというのかわからないが、丸っこくて分厚い黒い靴を履いている。明るい色のボブヘアと相まって、「イギリスの子供」みたい。

歩調に合わせて、頭の中で「シカ シカ シカ」と唱える。奈良公園には人生で3回くらい来ているが、普通の道路の傍に野生の鹿がいる光景というのは毎回ドキッとびっくりするし、特別な場所に来たようでときめく。前来た時は3年くらい前の初夏だった。鹿の毛並みは濃い茶色で、白い斑点が際立っていた。小雨が降る日だったが、それで余計に青く茂って見える、芝生の上に鹿の姿はよく映えていた。
今回は冬の名残に春が降ってきたような時期。鹿の見た目もそんなふうに見えた。少しけばけばとした毛並み。眠っている冬の切り株みたいに乾いた色をしている。雄の鹿は角を切られたばかりなのか、おでこの上に真っ赤な丸い断面がふたつ。そこだけ異様に生々しく鮮やか。触れたくないけど触れたい色をしている。芝生もまだ黄色いような黄緑でうっすらとした砂埃の中にいるみたい。

立ちあがって観光客の周りにいる鹿は、鹿せんべいを持っている人間かそうじゃない人間かを常にジャッジしているように見える。とりあえず首をグラグラとさせる鹿と、そんな鹿にせんべいをあげる人間をみていると、人間はなんで鹿におじぎをしてもらうことにしたのか、覚えていないのではないかと思う。

鹿せんべいを2束買う。こういう時、1番出入り口の近くにいる売上に有利そうなおせんべい屋さんを選びたくない性分で入口から少し遠いところで買う。
鹿せんべいを買うところを鹿に目撃されたので、公園の隅から中に足を踏み入れると、もう鹿が数頭近づいてくる。まだ数歩もいかないところでせんべいを使い果たすわけにはいかない、と思う。
私は鹿せんべいをもらえるのに1番有利そうなところにいる鹿にせんべいをあげたくないのだ。鹿せんべいをペラペラのトートバックに放り込み、鹿から隠す。
鹿をかわして早足で先に進もうとするが、せんべいを隠したからなんだと鹿も早足になってついてくる。仕方がないので、数枚あげて諦めてもらおうとする。バックの中でせんべいを留めていた紙を綺麗に剥がしていたら鹿を焦らしてしまったらしい。

近くで立ち止まっていたはずの鹿もゆっくりとこちらに歩いてくる。
数秒の間に私の周りには4頭くらいの鹿が寄ってきた。じわじわと寄ってくる様に焦った私は、鹿から遠ざかろうとする。歩きながら「はいこれだけよ」と周りの鹿に1枚ずつせんべいをやった。しかしこれは逆効果で、「こいつはせんべいを持っているし、くれる」と、鹿の追求が激しくなった。
「大変だ」と呟きながら、鹿に背を向け歩き出すが、鹿は横にピッタリと張り付いてくる、横にいる鹿以外にも、1、2頭以上の気配を背後から感じる。
走って逃げるのはかっこが悪い気がして、あくまでも早足で撒こうとするが、なんなら鹿の方が歩くのが速い。鹿がコートのウエストタブを引っ張り始めたのをその衝撃で感じる。コートの腕の部分を定期的に啄んでくる鹿も出てきた。やめてという手のジェスチャーを挟んでいきたいが、鹿はもうせんべいしか見ていない。

鹿の気を逸らし、逃げる時間を稼ごうと芝生の上に荒く割った鹿せんべいをバラバラと落とすが、鹿は歩く速度を落とさず、0.5秒くらいでそれを食べ、私を追いかけてくる。
笑って余裕そうに「もう!だめ!だーめだって!」なんて言っているが、内心なんて怖いんだと思う。数分の間に手に持っていた1束のせんべいはもう無くなった。バックの中のもう1束のせんべいの存在に気づき、トートバックにふがつく鹿もいるが、私はもう何も持っていないんだと空の両手を鹿に見せつける。必死だ。
数頭の鹿が若干納得したので、今のうちだと後ろを振り返らずに急いで歩き去る。
数十秒歩ききったところで振り返ったが、鹿はもう追って来ていなかった。

ほーっとするのと同じくらいしょんぼりした気持ちになる。
鹿との触れ合いを楽しみに浮かれていたが、鹿はあくまでも野生動物である。
ジェラシックパークか何かで、小さくてかわいい恐竜にお菓子をやって楽しんでいたら餌に誘われた小さくてかわいい恐竜がたくさん、たくさん寄ってきて、しまいには餌をやっていた人間が、うっかり食べられてしまったなんてシーンがあった気がする。あの時の人間の気持ちが少しわかった。
向かった先にあったベンチに座り込み、しばし呆然とする。
周りの人々は1人につき1、2頭の鹿と友好的に触れ合っている。誰も鹿に追いかけられていない。

鹿の洗礼にしょんぼりしていると1頭の鹿が近寄ってきた。やはりトートバックから鹿せんべいの匂いが漏れているのだろうか。
普段ならわざわざ近づいて来てくれる鹿にはせんべいをやるだろうが、先ほどの出来事でセンシティブになっていた私はせんべいをあげる気にならない。
せんべいをあげたら他の鹿もせんべいの気配に気づき、血の匂いを察知したジョーズのように寄ってくるかもしれない。1枚せんべいをあげたら1束全部食べるまで追いかけて来るかもしれない。

無言の時間を待つ間、カメラで写真を撮らない代わりに、鹿の姿を目に焼き付けてみようと、しばしじっと見つめる。

鹿の目は大きい。ビー玉よりも大きい。
駄菓子屋でたまに買っていたコーラとかソーダとかグレープ味の、中にフーセンガムが入っている大きな飴玉を思い出す。あの飴玉とちょうど同じくらいの大きさだと思う。
頬骨の形に気を取られる。犬とも猫とも人間とも違う。横にふくよかに出っぱっていて、ひゅうと長い。
お腹の辺り、肋骨も抱いたことのないカーブをしていて広い。なのに足も首もお尻もキュッと細い。そろりと音もなく長い。

鹿は、走り出せば速いのだろうけど、なんだか見つめてしまう、そろそろとした動きをしている。
空の掌を鼻先で見せ続けていると、そろそろと歩き出し、私から離れていった。

私もベンチから立ち上がり、芝生を探しに横断歩道を渡ろうとする。
後ろで、5、60代くらいの夫婦が会話している。鹿せんべいを買ったばかりなのに、そろそろと寄ってきた鹿に言われるがままにそっとおせんべいをあげるお父さんが、お母さんに嗜められている。私にはどっちの気持ちもわかるし、なんなら鹿の気持ちもわかる。わかるというのは傲慢かもしれないけれど。
正解はないので、なんでか寂しい気持ちになる。

前来たときには青い芝生にそれはたくさんの鹿がその華奢な足を折りたたんで丸く座って、目をうつらうつらとさせながら、優しい雨の中で微睡んでいたが、今日は黄色っぽい芝生の上にポツポツとまだらに鹿がいるだけだった。春の始まりは、まだ冬だ、と思った。

トートバックに鹿せんべいを入れっぱなしにしながら、数頭の鹿の前を通り過ぎ、ベンチに座る。
ふと、オンラインイベントのアーカイブが観れるのが今日までだったことを思い出す。
座ったまま、見始める。旅先でスマートフォンを眺めているのは勿体無いかもしれないが、ポカンとした開放感があって悪くないように思う。好きなことをしていい。予定はない。目の前を過ぎる観光客や、たまに鹿。
イベントを観終わった頃、そろそろとしかが1頭近づいて来た。少しだけこちらを見つめていたが、そろそろとまた近くまで寄ってきて、膝の上のトートバックに鼻を近づける。
無いよ、と嘘をついてみたが、鹿はもしゃ・・・っとバックを噛み出した。
ソフトに払い除けた後、せんべいをやるか、と思う。
トートバックに手を突っ込むと、欠けたせんべいの破片がザラザラとする。鼻面に1枚せんべいをやると、鹿がシャクっと食べる。私は立ち上がる。
少しだけ離れたところからこちらをみていた鹿と目が合う。鹿はなにか確認したように、こちらにそろろと寄ってくる。せんべいをやる。シャクっと食べる。
私は出口に向かって歩き出す。歩きながら、近づいてきた鹿にせんべいをやる。
鹿はちゃんと空っぽの掌をこれでもかと見せれば諦めてくれることがわかったので、もうあまり怖くなかった。

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