見出し画像

奈良のスカラベ

東大寺も見ないで、お土産通りも寄らないで、奈良公園を出ていく自分は、一人ぼっちの選択をしている、と思う。
誰かが側にいれば、選ばない選択を繰り返している。それは良くも悪くもないことで、でもどちらかだけにならないといいなと思う。
誰かに気をつかうことなく、気になるところで立ち止まって写真を撮る。地下道の壁のヒビ。奈良のマンホール。壊れて中の土が剥き出しになた植木鉢。飼い猫らしい赤茶色のふくよかな猫。坂道の途中にある空き地から見える山。自分の心のままにいれることが嬉しい。
一方でお昼時だというのに、ご飯を食べるお店は選べなくて、どこへでも行きたいけど、どこにも行きたくない気持ちになる。カレーでもうどんでもマックでもない。洋食なのか和食なのかもわからない。お饅頭とかアイスでもない。食べ歩きをしている人を横目に見ていても、私もあれを食べたい、並んで買おう、と思えなかった。誰かが一緒にいれば、私には自分の食べたいものがわかった気がする。

公園を出て、ならまち糞虫館に行く。
私はスカラベが好きだった。20歳で初めて外国に行ったとき、町の本屋でエジプト文化を紹介する絵本を買った。掌に収まるサイズで黄色い表紙をした本はかわいらしくて、淡々としていて、気に入った。イタリア語で書かれている本は読めなかったが、スカラベと呼ばれる、カナブンに見えるその虫がなにか存在を尊重されているのがわかった。私はなんとなく甲虫が好きだ。持ちやすいからかもしれないし、光に反射して光るその色が綺麗だからかもしれないし、死んでも姿があまり変わらないからかもしれない。その本はずっと読めないままだし、私も特にエジプト文化を詳しく学ぶわけでもないので、スカラベの詳細はわからないが、フンコロガシはスカラベらしい。
スカラベであること抜きにしても、フンコロガシは特別な理由などなく見てみたい虫である。1ヶ月くらい前にふと生きているうちにフンコロガシを見てみたいと思った。
人にそう思わせる虫なのだ。
私はフンコロガシはアフリカにしかいないと思っていたが、調べたら日本にも生息していることを知った。
また、鹿のフンが豊富な奈良にはたくさんの種類のフンコロガシが生息しているとのこと。

糞虫館は、人通りの多い場所から少し離れたところにあったが、盛況していた。2018年にオープンした館内は真っ白な内装で、清潔感もある上に、おしゃれだ。カラフルな糞を模した布のボールに標本が刺してあり、糞虫の熱心なファンでなくても楽しめそうだ。虫嫌いでなければ、なんとなく来たって、なんとなく楽しいと思う。やっぱり青色に輝く虫は綺麗で、ルリセンチコガネとか、名前は忘れたが、ベネズエラのフンコロガシが好きだった。糞を転がす姿は見れなかったが、フンコロガシは奈良にもいると思うと少し心強い気持ちになる。

糞虫館のパンフレットを手にして、元来た道を戻る。
帰りに豆大福を買おうと思っていたお店の前に、人が立っていたので、入るタイミングを逃した。
途中から、来た道と違う道を歩いていく。
往路の時から大きなどら焼き(三笠というらしい)を売っている店をいくつか見かけた。食べたいという食欲とは別に、欲しい、買いたいという気持ちが湧く。
次見たら買おうと思っていたら、通りかかった和菓子屋さんで売っていたので買う。大きいどら焼きはなんだか持っているだけで嬉しい。えへへと声に出しそうな気持ちになる。

駅まで戻ると、14時過ぎ。さあ帰ろうと思う。
ロッカーから荷物を取り出し、早足で京都駅に向かう。電車に乗ると、また車内でどこを見ていたらいいかわからなくなる。買った本を読む。笹井宏之さんの短歌集。目の前に印刷された言葉を見て、驚いたり、心が揺れたりする度に、少しだけ本を閉じたり、窓の外を見遣ったりする。サクサク読んでしまうのが勿体無いと思う。
空いている席がなくて、離れ離れの席にひとりひとりに分かれて座ったカップルが、電車が停車して2人分のシートが空いた途端にふたりに戻っていった。椅子に座ったとたんに頭を寄せ合って眠り始めた2人を見て、そのスピードとか迷いのなさに感心した。

京都駅に着くと、蓬萊軒の肉まんをお土産に頼まれていたのを思い出す。
駅構内の売り場に行くと、列をついており、並ぶのが面倒だなあと思った。
頼まれていなかったら並んでまで買わないなあと思っていると、私が1人でなかった瞬間に与えられているものは結構たくさんあるよなと思った。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?