与右衛門の憂鬱

「奈佐日本之介殿のご尊顔を拝し奉り恐悦至極に存じまする。それがし、羽柴小一郎長秀が家臣、藤堂与右衛門と申す」
 但馬北端にある津居山に構えた津居山城の南峰にある奈佐日本之介の居館に藤堂与右衛門が使者としてやってきたのは天正九年が明けて程なくの事であった。使者である藤堂与右衛門は壮年の年頃でありながら、どこか飄然としてる。しかし、どこか窮屈そうに見えるのは服の大きさが合っていないだけではないようであった。
「我があるじ、羽柴小一郎長秀よりの書状でござる」
 と、与右衛門は懐から書状を取り出し、それを恭しく持ち上げて一礼すると、くるり、と反転させて日本之介の家臣である奈佐丹後守に手渡した。丹後守はそれをそのまま日本之介の前に進み出て、差し出した。
「役目、大儀でござる」
 日本之介は海の潮風に鍛えられた締まった体に、日焼けした黒い顔が乗っている。それだけに歯が浮き出るように白い。書状を開けて読み進めると、丹後守にそのまま渡した。
「つまり、織田につけ、と」
「但馬水軍の長たる奈佐日本之介殿に御助力を賜りますれば、少なくとも本領は安堵、この度の戦が成就いたしますれば、更に御加増をされる、とのことでござる」
 与右衛門の言い様は軽いものであったが、それが嘘偽りではないことは表情を見ればよく分かることであった。
「だが、我らは古くより山名家の庇護を受けている。その山名が毛利と和睦して結んでいる以上、我らは毛利方につくのが筋であろう」
「御説、御尤も」
 与右衛門は慇懃に頭を下げた。
「それを裏切って、織田方に着くというか」
「そういう事になりまする」
 日本之介は暫く思案して、
「暫時別室にて控えておれ」
 といって、家臣に別室に案内させた。
 与右衛門の姿がなくなり、日本之介は荒々しく鼻から息を吹きだした。誰もが、
(毛利方につく)
 と思った。与右衛門の手前、感情を爆発させることをしなかっただけで、内心は、怒りで充満していた、と考えたからである。ところが、日本之介はゆっくりと腕を組み、天井を仰ぐと、目を閉じた。
「大将」
 どこからともなく声が飛んだ。毛利方につくという明言を促しているのである。
(しかし)
 と日本之介は考える。確かに毛利は大勢力であり、因幡から周防までを治め、その途中にあった大内、尼子といった勢力を全て排除してこんにちの地位になっている。決して実力がないとは言えない。だが、尾張を統一し、その後美濃、近江、京、越前、加賀、摂津と織田の勢力も大きい。更に、織田信長という男は苛烈で軍団を欲統制している、と聞く。
「どちらがよいか」
 という日本之介の一言は、それらすべてを総合してひねり出した一言である。これには丹後守は驚いたようで、
「毛利に味方いたしませぬのか」
 と尋ねた。その表情はまるでこの世にあらざるものを見たように目を剥いている。
「いや、そうではない。毛利と織田と、どちらが我らに利があるかを考えているのだ」
「利があるのは無論、毛利でござろう。これまでの事を考えれば、毛利が織田に勝つのは必定でござりまする」
(果たしてそうか)
 丹後守の言い分は、確かに考えられぬ事ではない。互いの実力は伯仲しているであろうし、織田に猛将と名高い柴田勝家や佐久間信盛という人物がいれば、毛利にも「両川」と称えられた吉川元春、小早川隆景がいるし、今攻めてきている羽柴秀吉や、その秀吉の弟で書状の主である長秀などもその能力は他を抜きんでていると聞く。毛利にもそれに見合った人材もある。
(だが)
 と日本之介はもう一歩踏み込んで考えている。その一歩、というのは大将の能力差であった。
 織田家の当主である織田信長という男はたった一代で身を興した、いうなれば新興の大名である。その能力は恐らく遠く甲斐の武田信玄や越後の上杉謙信と比しても決して遜色ないものであろう。その一方で、毛利家の当主である輝元はどうであろうか。その能力は凡庸で、いうなれば毛利は当主の能力というよりも元春や隆景といった、輝元の祖父である元就の配下がその高い能力を差配して毛利家を動かしている。元々、元就には長男の隆元という人物がいた。しかし、隆元は今から二十年ほど前、当時大きな勢力を誇っていた尼子討伐に向かう途上、備後で傘下の国人の饗応を受けた折に謎の頓死を遂げた。これは毒殺が疑われ、その饗応をした国人らは元就によって誅殺されている。
 その隆元の嫡男が輝元であった。輝元は元就の元で育てられたが、それでも「長者三代に伝わらず」という言葉通り、輝元は凡庸に育ってしまった。しかも元就はすでに十年ほど前に他界しており、しかも今の領地はほぼ元就時代に築き上げられたものであるため、輝元にとって対外勢力と戦うのは事実上初めてになる。しかも、両川の二人も寄る年波には勝てず、毛利家の往年の輝きは陰りつつある。とはいえ、創業の臣が支えているという事に変わりはなく、まだ勢いは目に見えて衰えているわけでもなく、挽回できる猶予はある。つまり、どちらもその実力においての差は僅かでしかないのである。
「ならば、其れこそ毛利に御味方するべきではありませぬか」
 丹後守はやれやれ、といったような表情で言った。
「では、そのように取り計らいまする」
 といって丹後守が立ち上がろうとしたのを、日本之介は手で制して、
「家中の意見がまとまらぬため、返答は追ってそちらに参らせる、とこう申せ」
 といった。これには家中の者は色めき立って、中には床を拳で叩く者までいた。
「皆の意見は分かっている。だが、どうしても我の中で釈然とせぬものがある。毛利が良いと思えば間違いなく毛利につく。だが、そうとも言い切れぬところがある」
「と、もうしますと」
「確かに、毛利は強い。だが、織田とて凡庸であればここまで先ず勢力を伸ばすことはなかったはずである。我はそれが引っかかるのだ」
「つまり、織田の勢いを軽んじてはならぬ、と」
 誰かの声に対して、日本之介は頷いた。
「毛利の実績を取るか、織田の勢いに任せるか、というところでござりましょうか」
 丹後守も少し思い直したようで、再び座りなおした。
「それに、この但馬に攻め寄せている羽柴小一郎という男は、羽柴秀吉の弟である」
 と日本之介が話すと、今度は皆が一斉に笑った。笑った、というよりも嘲った、といったほうがいいかもしれない。
「何がおかしいのだ」
「その羽柴某という男は元は木下藤吉郎とか申す、百姓上がりの男でござりましょう。それに、織田の家臣の中には出自の定かならぬ者も大勢いる、と聞き及んでおりますれば、いくら織田の軍勢の勢いが凄まじくとも毛利には勝てますまいて」
(そのような事で趨勢が決まるものかよ)
 日本之介はこの家臣の意識のずれを感じて、毛利方につくのを躊躇たのかもしれない。出自の尊卑で戦が決まるのであれば、織田の血筋は尊いもののはずである。それに、出自という点でいけば、それこそこの奈佐家はもっと隆盛して良いはずである。
 元々、奈佐家は日下部氏を本姓とし、城崎郡奈佐谷を本拠としたところから奈佐の姓を使ってはいるが、その血筋をたどれば但馬国造であり、また開化天皇の孫、さらに天皇暗殺を目論みながら失敗し、炎の中で兄妹自殺をしたと言われている狭穂彦王がその祖である。
 それが、一介の但馬の水軍の首領で納まっているのはどういう事であろう。つまり、出自身分などで大名の実力は測れぬ、という事である。
「乱世になれば身分出自なんぞ芥子粒にもならん。どちらにつくべきであるか、これを誤れば当然、本領はおろか下手すれば一族郎党の首と胴が離れることにもつながる。よしんばそれを免れたとしても、領地を奪われることは必定だ。それを防ぐためにどうするか思案の時間を稼ぐのだ」
 日本之介はそう言ってやおら立ち上がった。与右衛門が通された部屋に向かったのである。
 与右衛門が別室に通されて一刻はすでに過ぎていたが、それでも端坐したまま微動だにしていない。瞼を閉じており、一見すると寝ているようにも見えるが、日本之介の足音が遠く微かに聞こえたと思うや、すぐに目を開けた。そしてすぐに両の拳を幅広く床について頭を下げて待った。日本之介の肌の色と違う存外に白いつま先が見えた。
「藤堂与右衛門とやら。待たせた」
「して、ご返答は」
「保留じゃ。家中の意見を束ねる」
 日本之介の声は少し上ずっていた。この感情のひだが敏感な男は
「それでも、羽柴の陣営に」
 と押すことは出来なかった。自身もそれまでに幾度か主君を変えた身であれば、自らの家を守るためにどう行動するか、といういうなれば一家をあげての博打をする事がどれほど困難であるかよくわかっていた。だから
「それでは、あるじ長秀にはそのようにお伝えいたしまするが、あるじ長秀は馬首を共にすることを切実に願っておりますれば、それが叶いますることを願っておりまする」
「……考えておく」
 日本之介の声は少々唸っているようであった。

 与右衛門は但馬を南に下って、出石城に入った。中国平定を信長から命じられた秀吉から但馬平定を命じられた長秀が本拠としているからである。
 出石は後年、「播磨の小京都」とよばれるほどの風光明媚な町になり、さらに明治に入ってからは辰鼓楼などが建てられて、こんにちでは観光客が後を絶たない観光の町になっているが、この時代の出石はそのような殷賑を極めたものではなく、小さな城下町がある程度で、その城下町も整備されたものではない。
 長秀はその出石城主となって、但馬平定を完遂せんと硬軟取り混ぜて攻め寄せていた。長秀は、その鍵を
「奈佐日本之介だ」
 と考えている。但馬から山陰沖の制海権を握ることで、毛利水軍の頭を抑えつけることができる。その為には丹後では遠く、また因幡は毛利の勢力下にある以上、その中間地点である但馬の水軍を味方につけることが何より最重要課題であった。
「その為には、出来れば無傷で味方につけたい」
 というのが、長秀の考え方である。この温厚かつ人に寛容な男は、平素怒ることが皆無、といっていいほど少ない。しかし、与右衛門からの報告を受けて、
「仕方あるまい」
 と残念がったが落胆はしていなかった。
(恐らくは、そうなるであろうな)
 という、長秀の中での予想の範疇を超えたものではなかったからである。たった一度の交渉で成功できるほど甘くないことも分かっていたし、そもそも但馬水軍は山名氏の麾下にあって、その山名は毛利と和睦を結んでいる。という事は、毛利方についていると考えて間違いないであろう。その但馬水軍をこちらに調略するにはそれ相応の時間がかかるのは分かっていた事である。言い換えると、この但馬、あるいは兄秀吉が攻略しようとしている播磨、備前の毛利家に対する忠節、あるいは好意といった影響力が甚大である、という事になる。
「それを切り崩そうというのだから、時も根気も必要であるわい」
「しかし、それほど悠長な事は言えますまい。御館様のご気性は」
「分かっている。もしこの但馬を平定出来なければ己だけではない、兄者の中国攻めにもかかる影響は大きい。与右衛門だけではない、この但馬平定がならなければ全ては水泡に帰してしまう。それを努々、忘れるな」
「しからば、この一件、それがしにお預け願いませぬでしょうか」
 長秀は驚いたが、その一方で与右衛門の能力は高く買っている。恐らく、この羽柴軍の中で、こと外交能力に関しては屈指の者であろう。だが、それでも
「必ずこちらに味方させられるか」
 と念を押さずにはいられなかった。それほど、日本之介を引き込むことが重要課題になっているのである。
「必ずや」
 与右衛門は過信しているわけではない。だが、自信がなければこの申し出をするわけがない。長秀は与右衛門に、
「頼む」
 とだけ言った。
 与右衛門はすぐに津居山城には向かわず、先ずは但馬水軍の動向を探った。但馬水軍が毛利に乗ろうとして、織田の味方にならぬ理由がどこにあるかを見極めるためであった。
 この時代の水軍には、一つの共通点があった。
 それは、目銭と呼ばれるものである。別名として帆別銭とも呼ばれ、海上輸送が発達したこの時代、船というのは大量の荷駄を運べる貴重な交通手段であり、商船やあるいは輸送船などが登場して、物流は一気に発展していく。当然そこに権益が発生し、水軍はそこに目を付けたのである。
 要するに、水軍にとってこの帆別銭は数少ない権益であると同時に生活の糧でもあった。
「関所のようなものか」
 と与右衛門は解釈した。関所には関料という通行料が取られ、これによって交通手段や物流などが妨げられていた。さらに言えば、この戦国期における関料は寺院や土地の豪族、庄屋などの地主たちが自らの権益確保と財政上の理由のみで徴収していたのである。
(どうにも水軍というものは)
 遅れている、と与右衛門は思った。すでに楽市楽座が広まって、織田領内では関所どころか門一つついていないほどの様子で、その点物流や人の交流については他の大名領内よりも一歩も二歩も抜きんでている。それに比べて水軍の古めかしさは目を覆わんばかりである。
「しかし、加増が叶えばそのようなことはしなくなるであろう」
 とも考えた。加増を確実なものとし、さらにその知行地を豊かな土地にしてしまえば、そのような事は起こるまい、と考えたのである。その為には、この但馬の半国ほど与えれば納得するかもしれない。
 与右衛門は早速、長秀にこれを取り付けた。長秀は
「途方もないな」
 と大いに驚き、のみならずこれは越権行為であるぞ、と釘を刺した。
「それは重々承知しておりまする。しかしながら、今ここでその程度の小事に迷ってしまえば奈佐日本之介を取り込むことはでき申さぬ」
 与右衛門はすでに腹をくくっているようである。しかし長秀もおいそれ、と承諾するわけにもいかない。幸い、兄で中国攻めの総司令官たる秀吉は但馬の南である播州にいる。数日以内で返事がもらえるであろう。長秀は伝番を播磨姫路の秀吉に向かわせた。
 伝番は三日程で出石に戻ってきた。
「どうであった」
 長秀は気もそぞろに尋ねた。すると、
 ―― 但馬の件は長秀の胸一つ。
 というのである。長秀の差配が全てである、という事である。
「ならば、そのように取り計らえ」
 与右衛門は再び津居山城に向かったのである。

 津居山城では再び与右衛門が来たと知って、城内は慌てた。
「戦の布告か、それとも脅迫か」
 と上を下へも置かぬ騒ぎであったが、日本之介は鷹揚に構えて、
「通せ」
 といった。与右衛門は前と同じ使者としての礼装に身を包んでいる。
「奈佐殿。前の約定の件について、お伺いに上がった次第でござる」
 与右衛門は口上を飛ばしていきなり本題に入った。日本之介は少々不機嫌な面構えになったが、与右衛門の立場を考えると、いつまでも先延ばしというわけにもかぬことは承知している。
「して、ご返答はいかに」
 日本之介は口を閉ざしたままである。
 与右衛門はいきなり、
「我らにも考えがござる。此度は、それを伝えに参った次第。それをお聞きになりその上で御判断願いたくござる」
「考えとは」
「加増の件でござる。我が主長秀は、此度の中国攻めが成し遂げられた暁には、但馬の半国を治めていただきたく考えれおりますれば、よしなに」
 与右衛門の出した条件は、奈佐家の諸将の心を大きく揺さぶった。但馬の半国となると石高では五万七千石ほどで、数字だけを見ればそれほど大きなものではないが、津居山城周辺の知行地から考えれば破格の待遇といっていい。
「如何」
 与右衛門は確信とまではいかずとも、十分に押し切るだけの材料であると、自信は持っていた。ところが、日本之介の口からは意外な言葉が出た。
「知行地がどうとか但馬を半国とかそのような事ではない」
 意外な反応であった。与右衛門は
(後で了承を取り付ければよい)
 と考え、
「では、但馬に丹後、因幡も一部を加えるよう取り計らいますれば、御再考を」
 といった。この時点で越権行為であるのだが、知行地の割り振りは、秀吉に話をつければどうにかなるかもしれぬ、と思ったからである。しかし日本之介はそれでも頭を振った。
「これ以上はいくらそれがしとて一存ではでき申さぬ」
「釣っているのではない」
 日本之介は明らかに苦笑している。
「では、奈佐殿は何を所望であるや」
「何も求めぬ。ただ、これまで通りの暮らしを保証してもらいたいだけだ」
「それならば、十分に保証を致す。それだけではないため、加増を、と申しておりまする」
「そうではない、『これまで通りの暮らし』だ」
 日本之介はわざと強めていった。与右衛門はさればこそ、といいかけてふと、止めた。
「……。関料の事でござるか」
「せきりょう?……我らは海の者だ。関料ではなく、帆別銭だ」
 日本之介がいう『今まで通りの暮らし』とはこれまで通り、海の通行料である帆別銭の徴収権を保証する事であった。与右衛門は考え及ばなかったわけではない。むしろ、帆別銭を徴収させぬために、但馬半国から因幡までの大風呂敷を広げてまでしたのである。
(何とも小さい男だ)
 与右衛門はすこし拍子抜けした。与右衛門の勝手な推測の話であるが、海の男は豪放磊落の印象が強かった。しかし、そう言った権益を守ろうとするあたりに、守旧の匂いがした。
「なぜ、帆別銭を取るか分かるか」
 だしぬけに問われて、与右衛門は分かりませぬな、といった。
「我らの帆別銭が陸の関料と違うのは、我らの帆別銭は、船の安全を守るためのものだ」
「船の安全を守るものが何故、銭を取るのでしょうな」
「銭で安全を買う、という考えは出来ぬのか」
 日本之介のいうには、帆別銭というのは海の護衛料も入っている、というのである。
 戦国期、船による海上輸送が大幅に革新し、またそれまで小型の関船程度であった造船技術が革新をしたことでその輸送能力も大幅に増大した。馬を使った陸上輸送よりも大容量の物資を運べる船は、海を荒らすならず者集団にとって格好の狩猟場となり、その被害も甚大なものであった。
 そこで、独自の軍事力を持つ自立した水軍が登場してくる。水軍の起こりは平安末期、瀬戸内海での源平合戦であるとされていて、その歴史より村上や因島、来島などといった水軍が古くからある。
 この日本之介の但馬水軍もそうしたものの一つで、他にも相模であったり九州であったりと、凡そ海に面している領国にはほぼ水軍は存在していたといっていい。織田軍の中にも「九鬼水軍」がある。九鬼嘉隆という男が頭領となって、志摩をその領域にしていた。九鬼嘉隆という男は目端が効いた人物のようで、早くから織田軍に協力というよりも半ば臣従してした。
 もっとも、このように臣従する水軍は少なく、大抵は近隣の大名家に協力する代わりに帆別銭を黙認させるなどして、立場上は被官であっても半ば独立した状態であるのが殆どである。逆に言えば、後ろ盾を持たないのが水軍の特徴といえる。その水軍とて資源や資金がなければ生きていけぬわけで、帆別銭はその為の数少ない生活の糧でもあったのである。
「それでも、我らに帆別銭をやめろ、というのか」
 日本之介の言葉は丁寧であった。しかし、家臣たちのあからさまな殺気から、この帆別銭というものの重要性を、迂闊にも与右衛門は初めて知ったのである。
「逆を言えば」
 と与右衛門も引くわけにはいかず、食い下がろうとする。
「帆別銭を認めれば、我らに臣従していただけるということでござりまするか」
「臣従はせぬ」
「それでは話になり申さぬ。無体この上ない」
「臣従はせぬ。だが、この戦に限って合力いたし、毛利水軍を駆逐することを約定いたそう」
「……分かり申した。では、その帆別銭については、我が請け負いまする」
 与右衛門のこの言葉は完全な越権行為である。おそらく長秀でもあるいは秀吉ですら、この権限を承認することは出来ないはずだからである。
 というのも、織田信長は自らの領地に関所を置くことを禁じ、また寺社勢力が持っている既得権益を壊すことで、経済の流通を促進させ、都市を発展させてきた。所謂「楽市楽座」と呼ばれるもので、信長は経済においては規制緩和と成長主義的な観点があった。無論、この旧弊にしがみつく既得権益に手を焼くこともしばしばあったが、少なくとも経済を安定させ、雇用を創出することで相対的に治安を向上させることを念頭に置いた。恐らくここまでの経済観念を持った武将は他にいない。
(恐らく御館様は承知なさらぬであろう)
 与右衛門はその事を容易に予測できた。だが、そこまでせねばならぬほどこの日本之介の水軍を長秀は欲しがっているのである。
「貴殿が出来るか」
 日本之介は与右衛門の立場すでに分かっている。少なくとも、この場で決定できる権限を持ち合わせてはおるまい。
「我らの要望はそういう事だ。帰って貴殿のあるじにそう伝えよ」
 日本之介はそういって立ち上がると、広間を出た。

 長秀は与右衛門の独断をなじることはなく、
「その場にいたら、儂とてそう言ったやもしれぬ」
 といって擁護した。
「長秀様、この事を御館様は」
「恐らく承知すまい。それは兄者が行っても同じ事であろう。御館様は古いものをとにかく壊したがる御方だ、ましてや承認などできよう筈もあるまい」
「しかし、九鬼殿については認められておりまするが」
「それは、御館様がまだここまでの勢力を持つ前の話だ。あの九鬼嘉隆という男は目敏い男でな、桶狭間での折に御館様と懇意していたのだ。それゆえ、御館様も認めざるを得なかったのだ。それが名残として残っている」
 長秀は一計を案じた。といっても、播磨にいる秀吉に再び書状を出し、信長に特例としてこの日本之介の帆別銭を認めてもらうようとりなしてもらうだけである。そこに但馬水軍が但馬、ひいては中国攻略にどれほど大きな影響を持つかを切実に書き連ね、但馬水軍を味方につける利も説いた。
「後は兄者がうまく御館様にとりなしてくれれば万々歳といったところか」
 長秀の声は鈍い。
 長秀の使者は但馬街道を南に向かった。途中の和田山、生野峠を越えて神崎を更に過ぎると、秀吉のいる播磨姫路に着く。
 秀吉は姫路城で、旧城主であり唯一といっていい味方である黒田官兵衛、美濃時代からの家臣である竹中半兵衛と共に中国攻略の為の軍議を開いていた。
「小一郎からじゃとな」
 秀吉は不思議そうな顔をしたが、半兵衛と官兵衛はすでに但馬の攻略が手こずっている事を見抜いている。使者から書状を受け取った秀吉は、中身を開けて書状を読み進めていく。不機嫌な顔を隠さない。
「半兵衛、読んでみい」
 半兵衛は秀吉から書状を受け取って読み進めていく。婦人の様に白い容貌は変わらず、淡々と書状を手繰っていく。
「これは、ちと困りましたな」
「どうにも田舎の海賊連中は時代というものを分かっておらぬ」
「とはいえ、この帆別銭というものはその海賊連中が生きていく上では必要な糧であるとすれば、御館様の方針はそぐわぬこととはいえ、ここは認めて度量を示すべきかと」
「……官兵衛、おぬしはどう思う」
「竹中様と意見を同じゅうしますれば、秀吉様には信長様を御説き伏せいただきませぬと」
(ぬけぬけというわい)
 秀吉は炒った豆を奥歯で噛み砕くような表情をした。信長の気性を考えると、とても受け入れられるものではないであろう。
「しかし、与右衛門も余計な事をしたことよ」
「秀吉様、もしそれがしがその場にいたとしても、同じ事を申し述べたやもしれませぬ」
 半兵衛の意外な答えであった。秀吉はすぐに出立の準備を行うと、翌日には信長のいる京に向かった。
 この頃の信長の勢いというものは旭日というよりも、抜山蓋世といったほうがよい。武田信玄が死に、本願寺を事実上抑え込み、さらに室町幕府すらも崩壊をしてしまっている今、信長と対等に戦えるのは中国の毛利を置いて他にない。そしてその中国を今攻めているのである。
「何用じゃ」
 信長は一段高い所から秀吉の顔を見るなり、少し甲高い声で言った。
 この頃の信長の京での宿舎は妙覚寺という、今の京都市中京区にある名刹であった。以前は、武者小路に邸宅を構える予定であったが、足利義昭との関係が悪化したことによって邸宅は完成せず、結局妙覚寺に戻ってきた格好になって、そのままになっている。
 とはいえ、妙覚寺にある信長の茶器などはどれも一級品ばかりで、そのうちの一つだけでも一国の値打ちはあろう物ばかりである。
 秀吉はその中に囲まれて、神妙に平伏をしている。秀吉がいつもに増して大仰に振る舞っているのは、茶目っ気でやっているわけではない。
「実は、我が弟小一郎が但馬平定の任に就いておりますれば、その事でちと」
「振るわぬのか」
「そうではなく、但馬の水軍の将である、奈佐日本之介というものを我が方に調略せんとはかっておりまする。その日本之介が出した条件は、帆別銭の」
 と秀吉が言いかけたところで、信長の顔色が変わった。
「いや、これは奈佐日本之介を我が方に味方させるための、必要な措置でござりますれば、よろしくお考えいただきたく、参上仕りましてござりまする」
「それだけか」
「それだけでござりまする」
 信長はやおら立ち上がると、秀吉の前に向かった。慌てて、秀吉はまるで畳に眉間を括りつけた様に更に深く頭を下げている。信長は少々はげかかっている秀吉の髷を焼き尽くすような目つきで見下ろしている。
「そのような事で儂に裁可を仰ぐか」
「はっ、何分これにつきましては御館様がやってこられた楽市楽座と反するものでござりますれば」
「分かっておるではないか」
「では、やはり」
「そのような事を認めるわけがないであろうが。早くから臣従しているわけでもない、ましてや但馬を平定する事が貴様の弟のやることであろう」
 信長からすれば、奈佐日本之介という男は
(とるに足らぬ田舎豪族)
 という程度にしか考えていない。本来風が吹く野草のように靡いて然るべきであるところを、よりによって条件を出してくるのは不遜極まる。その程度ならば押しつぶしてしまえばよい、と考えている。
 だが秀吉にとってみれば、この奈佐日本之介率いる但馬水軍が山陰沖での制海権を握る上でこの上なく重要な人物であり、味方につけるのに少々の便宜は図ってもよさそうなものである。そもそも臣従をするつもりならばこのような条件を出すことはない。つまり、どちらにでも転ぶというのであれば、喜ぶ餌を与えるべきではないか。
(その事を御館様はお分かりになっていない)
 と言いたい衝動にかられたか、言ったところで殴り飛ばされるか、悪くすれば手討になってしまう。それを避けなければならない。秀吉は、
「承知」
 というほかなかったのである。

 秀吉は京にいる間に書状をしたためた。そしてそれを連絡将校に渡すと、但馬に行くように命じた。一刻も早く結果を報せることで、次の策を練らなければならないからである。
 書状は数日の間に届いた。長秀は少々下膨れた顔をさらに垂れさせるような陰鬱な面持ちで、与右衛門を呼んだ。
「やはり、無理であった」
 与右衛門は嘆息して天井を仰いだ。暫く天井の木目の数を数えるような速度でゆっくりと頭を戻し、
「それでは、御館様に内緒にして見ては如何」
「内緒。……儂らの独断で黙認させる、と」
「左様。この毛利攻めが終わるまでのしばしの間、どうにか騙しつつ奈佐殿の言い分を呑むことが肝要かと」
「しかしな、もし露見致さば我らがどのような咎めを受けるか分かったものではない」
「そこは、手こずっているように見せかければよいだけの事でござりまする。そもそも、御館様は但馬に出張られることはござりますまい。さすれば、この事は我らが二人の胸中にしまい込んでおけば、誰にも露見致しませぬ」
 なおも長秀は迷っている。確かに、日本之介の調略を命じたのは自身であり、与右衛門に委任もしている。だが、信長は家臣の独断と専行を何よりも嫌うのである。
 かつて、越後の上杉軍と対峙した折、総大将である柴田勝家は秀吉の具申を一蹴したことで仲たがいが起きた。すると、秀吉はすぐに陣を引き払って長浜城に戻ってしまったのである。信長は激怒と同時に、
(秀吉は謀反をたくらんでいるのではないか)
 と疑心に陥った。秀吉は信長の気性を分かっているので、すぐに城中において酒盛りをし続け、踊り狂って信長に叛意がない事を示したので事なきを得たが、本来ならば切腹ものの違反である。他の大名家において、軍令違反は当然切腹するほど重大なものであるが、他の大名家と織田家の違いは、その処分の貫徹さである。信長は命令したことは必ず実行に移さねばならず、それを翻すとすれば信長自身の翻意以外にその手立てがない事である。無論、他の大名家であっても大同小異であるが、信長は信長そのものが一個の完全体、と考えている節があり、家臣が異なる意見を言う事はおろか、持つ事すら嫌ったほどのある意味では「絶対政治」を行おうとした男であり、またそれだけの力と器も持っていた人物である。それゆえに、家臣を将棋の駒か碁の石の程度にしか思っておらず、織田家中は常に移動と戦の繰り返しであった。その信長を欺く、という事がどれほど重くまた難しい事であるか。
「もし、責を負うとすれば、それがし一人が狂気の沙汰似てやった事ゆえ、全てそれがしに押し付けてもらいとう存ずる」
 と、与右衛門がすぐに火中に飛び込むような覚悟を決めた表情で言ったのは、そういう事を全て知り抜いて理解した上でのことである。
「そうなれば、軽はずみかもしれんが儂も同罪だ」
 長秀は漸く生えそろった口髭を揺らして笑っていた。
 与右衛門が三度津居山城に入った。
 三度目ともなると、奈佐家中は、
「又来たか」
 と、遠方の客人が来る程度にしか思っていない。それでも、他家の武将のであるためそれ相応の緊張は張っているのだが。
 日本之介も、小袖に袴と少し砕けた格好で応じた。
「単刀直入に申しあげまする」
 与右衛門が口上を述べず、いきなり切り出したことで広間の空気は一変し、与右衛門の体から四方に緊張が飛んでいく。
「帆別銭の事でござるが」
 というと、日本之介は脇息を押しのけるようにどかして、居住まいを正した。
「小一郎長秀は了承した、との事でござる。従来通り、帆別銭の徴収を認めるとの御沙汰をいただきましてござる」
 家臣たちは安堵の表情から腹の底を震わすほどの唸り声を上げた。だが日本之介は
「ならば、それを証明する書付か何かがあるはずだ。それを出してもらいたい」
 与右衛門は懐から書状を出し、恭しく一礼をするとくるりと変えて、直に日本之介に渡した。日本之介はその書状に目を通していく。
「……これは、まことに羽柴様が認められたのだな」
「花押がござろう」
 確かに「羽柴小一郎長秀」という署名の下に花押が書かれてある。これには、日本之介も納得するしかほかなく、
「分かった。我ら但馬水軍は、織田方に御味方いたそう」
 これで山陰沖の制海権を手に入れ、但馬平定はなった。

 山陰沖の制海権を手中にできた羽柴軍の勢いは風に乗った帆船のようで、みるみるうちに諸城を落としていった。播磨から因幡へ向かう秀吉の軍と、但馬から向かう長秀の連合軍は、着実に鳥取城に押し寄せていた。
 鳥取城の城主は吉川式部少輔経家という、毛利方の重鎮の武将である。父親は経安といって、その次男が吉川元春である。つまり、この経家と元春は親戚筋ということになる。元春はそのまま毛利両川として柱石を担い、この経家も石見国を治める重責を担っていた。山名豊国が織田方に着こうとした際、毛利に近い家臣から放逐されて、迎え入れられていた。
 鳥取城は難攻不落の名城である。かつて日本之介の盟友であった山中鹿之助が何度か挑んで漸く落としたほどで、それも当時の城主である武田高信が半ば和議を受け入れる形での開城であった。
 それを、今度は秀吉が攻めるという。
「たかが田夫あがりの小男に何が出来ようか」
 と鳥取城内の諸将は言うに及ばず、末端の足軽に至るまで、秀吉の事を軽侮していた。だが、経家だけは、
「百姓からここまで上り詰めた男だ、よほどの人物に相違ない」
 と考えていた。実際、毛利方にいるとはいえ、織田の動静は耳目している。信長が何度も足利義昭の包囲網を潜り抜け、そのたびに大きくなっていくその影に、得体の知れぬ魔物の様に感じていた。
「よいか、決して怠るなよ」
 経家は何度も諸将に言い聞かせた。秀吉の軍勢に備えろ、というのである。
 秀吉が鳥取城に攻めかかったのは二月の末頃である。軍勢は凡そ二万。一方の鳥取城の軍勢は山名、毛利を合わせて千四百ほどである。
「これは造作もない事じゃ。すぐに攻め取ることが出来よう」
 秀吉は訛りの強い尾張弁でそういった。実際、参謀役である黒田官兵衛は竹中半兵衛の跡を継いで役目を果たしていて、但馬からの軍勢も精強なものばかりで落城させるのは時間の問題のはずであった。
 ところが、存外に鳥取城はしぶとかった。一つには峻険な久松山という孤峰に聳えたっていて下から攻めるには困難であったこと、また経家が引き連れて来た兵と山名の兵がうまくかみ合って十分な機能を果たしていた事、さらに頗る士気が高かった事も原因であった。
 秀吉は人たらしと呼ばれるほどに愛嬌がある男であるが、一旦事が思うように運ばぬと、途端に下卑た冷たい表情になることがあった。官兵衛はその事をよく理解している。
「落ちぬとあれば、兵糧を攻めるしかあるまい」
 官兵衛は三木攻めの事を思い出した。かつて播磨で臣従を誓っていた三木城の別所長治が寝返って毛利方に着いた時、四方を蟻の這い出る隙間もないほど埋め尽くして兵糧を絶って二年に及ぶ長丁場の城攻めを行った。これによって城主一族の命と引き換えに城兵を助けたのである。
「同じ事をするのか」
 官兵衛の進言を容れた秀吉はすぐさま、山陰沖に商船を出すように命じた。商船によって兵糧を相場の数倍の値をつけて買い取らせる、という策であった。そして、その若狭の商人たちを護衛するのが、日本之介の役目であった。
 日本之介はすぐに軍勢を整えてそれぞれ船に乗り込んだ。船は数百艘に上った。一方の商船も積荷をなるたけつめるように大きな船を用意して、それでもって交渉の場にたった。
 市場の値の数倍とあって、城の兵糧は売れに売れた。民百姓はおろか、鳥取城の兵達までが持ち出して売るという有様であった。やがて鳥取城の備蓄の兵糧がすっかりなくなってしまうと、商船は引き上げて若狭に戻っていくのであるが、その道中の護衛までが日本之介の役目であった。
 商船が無事若狭に到着した。商人たちが港に引き上げていくのを見て、日本之介の家臣の何某が、
「おい」
 と声をかけた。商人は、
「なんでござりましょうな」
「ほれ」
 といって、掌を見せると、釣るような仕草で帆別銭の催促をした。ところが商人はそれが分からず、
「何の事でござりましょうか」
「何の事?帆別銭やないか」
「織田様はそのような事をせぬ、と聞いておりますが」
「織田がどうとか関わり合いの無い事や。帆別銭を出せ」
 商人は頭を振った。織田様が聞けば無事ではすみますまい、このままお引き取りを、といった。当然何某も黙って引き下がるわけにはいかず、
「羽柴長秀という御人からちゃんと許しは出ておるわい」
 と言ってしまった。これには商人は驚き、また
「本当か」
 と疑った。当然の反応である。羽柴長秀という人物は統治面において優れた人物であり、また織田家は早くから楽市楽座令を布いている為、その織田の家臣がそのようなふるまいをするわけがないと思っていた。しかし、今の目の前で、帆別銭を要求されているのである。
(払うべきか)
 と思った。しかし、此処で払ってしまえば恐らく同じことが繰り返されるに違いないと考えた商人は、
「……お支払できませぬ」
 と突っぱねた。おのれ、と何某は抜刀するや、港に上がって商人に逃げる間も与えず斬り捨ててしまったのである。辺りは阿鼻叫喚の地獄になった。さすがにこれには驚いて、
(話が違うやないか)
 と、与右衛門を毒づいた。

 程なくして長秀と信長、秀吉の耳に入った。
「猿と小一郎を呼べ」
 信長の怒りは怒髪天を衝き、すぐさま使者がはなたれた。出石からは長秀と、与右衛門が自身のたっての願いで同行することになり、秀吉も官兵衛を連れての状況となった。
 四人は事前に顔を合わせた。
「困った事になったのう」
 秀吉は持ち前の愛嬌を引っ込めている。
「いや、兄者。すまん」
「しょうがあるまい。おそらく同じ立場ならそうしっとたわ。……官兵衛、どうすりゃええかのう」
 さしもの官兵衛も策を考えるのに骨が折れた。
「ここは、正直にすべてを話しましょう。与右衛門は役目を考えての事で、長秀様とて但馬平定の為に必要であり、我らは中国平定の為に黙認した、という事に」
「いや、黒田様。これはそれがし一人に、押し付けくださりませぬか」
「与右衛門、それは出来ぬ。我らは言うなれば同罪じゃ。軽軽に命を捨てるわけにいかぬからこそこのように申し合せておるのだ」
 と官兵衛は与右衛門にそういって諭すと、長秀も
「儂が認めた時点で同じ事よ」
 といった。程なくして、取次の者が血相を変えて飛び込んでくると、
「い、今はお会いなさらぬ方が肝要かと心得まする」
 と、胸を叩いて息を整えながら言った。
「それほどお怒り成されているのか」
「上様は、帆別銭自体ではなく、ご自身が下した命に謀って背いたことにお怒りになられている様子、このままでは手取川の時の様に事なきを得るとは考えにくいかと」
 秀吉は喉を鳴らすように唸った。
「それでも、このまま会わぬわけにはいくまい。それに、おぬしより儂の方がよう心得ておるわい」
 秀吉は取次にそう笑いながら言った。
 秀吉らは信長のいる広間の下座、それも襖に極めて近い位置に座ると、
「秀吉以下四名、まかり越してござりまする」
 と平伏した。信長の答えはない。ただ、畳を踏む足音だけが大きくなっていく。
「謀るか」
 信長は秀吉の肩口を蹴り飛ばした。秀吉の体が宙に浮き、大きな音を立てて壁に打ち付けられた。秀吉は逆さまになりながら信長の顔を見てみると、存外に表情はいつもと変わらない。
(だが、この時が一番怖い)
 信長は怒りの表情をあからさまに浮かべている時は実はそれほどでもないが、心底怒りに震えた時は逆に表情から感情が消え失せてしまうのである。秀吉は媚びることもせず、居直ることもせず、ただ
「この仕儀は、全てそれがしの一存によって起きた事。小一郎や与右衛門は是非とも許していただきとう存じまする」
「そのような事で済むと思っておるのか」
「それで済むわけではないことは重々承知しておりますれば、この安い腹でお助け願いたく」
 逆さまになりながら必死に訴えている秀吉の姿は何とも滑稽である。その姿に信長は苦笑した。ようやく落ち着きを取り戻したようで、
「座りなおせ」
 といって元の上座に戻った。そうなると、信長の気性から考えると感情は元に戻っているはずである。
「此度の一件、お前の腹一つでどうとでもなる。が、それをするのは因幡を落として、毛利を蹴散らしてからじゃ。それと、奈佐日本之介については、問責の使者を遣わして場合によっては成敗しておけ」
 信長の声は冷たい。
「しかし、それでもし但馬水軍が我らに背いたとなれば山陰の海は毛利にとられまする」
「因幡を落としてから、といった」
 信長は再び秀吉の肩口を蹴り上げた。だが、今度は先ほどは打って変ってじゃれあっているような感覚を受けた。秀吉は、
(機嫌は治った)
 と踏んだ。そしてすぐに、
「では、因幡を落としてまいりまする」
 と今度は甲高く声を張り上げた。少しおどけさせてみせるくらいが程よく、信長に伝わるはずである。案の定、信長は苦笑して
「早ういけ」
 とだけいうと、すぐに奥に引っ込んだのである。

 一方で、津居山城では家臣の間で紛糾していた。帆別銭の事で事態が全く違う事に気付いた奈佐の家臣たちは、
「あの藤堂与右衛門という男は騙りよ」
 といって日本之介に訴え出たのである。日本之介は何も言わず、ただじっと固まって動かず、周囲を聞きわけるように目を閉じている。
「大将」
 家臣たちが口々に日本之介に呼び掛ける。日本之介は目を閉じたまま、
「毛利に与するか」
 といった。家臣たちは応、と声をそろえたが、日本之介は断じない。
(毛利にも恨みはある)
 恨み、というのは日本之介はかつて尼子再興の為に山中鹿之助という男に力を貸していた事があった。単に貸していただけではなく、隠岐の島に向かう時にも便宜をはかったり、あるいはその為に毛利水軍とも戦い、その関係は非常に深かった。しかし、尼子再興はならず、結局毛利方によって謀殺されてしまったのである。いうなれば、盟友の仇でもある。
 しかし、鹿之助は織田方の力をつかって尼子再興を目指していて、毛利方に捕まったのは、織田が鹿之助ら再興軍のいる上月城に援軍を送らなかった為であり、その総大将は秀吉である。つまり、鹿之助は織田方に見殺しにされた上で毛利方に殺されたのである。
(その意味ではどちらに着くという意味はない)
 その間接直接の差はともかく、どちらを向いても仇なのである。その意味では織田方も毛利方も同じなのである。
「しかし、毛利方につけば、織田の様に謀られることはありますまい」
「それに、織田のような成り上がりと違って毛利は名家であり、そうそう負けることはあるまい」
 などと口々に言い合っていて、織田方の味方は一人もなかった。
(出自で戦が決まるならこれほど分かり易いものもなかろう)
 日本之介は君臣の間での感覚のずれをうんざりとしながら感じていた。とはいえ、約定を違えたのは間違いない事実であり、ただでさえ印象の悪い織田方がますます悪くなり、同時に毛利方への傾倒がひどくなっていくのはどうしようもない。ここで、強引に織田方につく、となれば家臣の離反は免れないであろう。
(毛利方につくしかないのか)
 日本之介は暗澹とした心持になっていた。
 与右衛門が津居山城に、今度は軍勢を率いて現れたのはそれから間もなくで、その軍勢も小勢であった。
「すわ、戦か」
 と奈佐の家臣は色めき立ち、気の早いものはすでに具足を身に着けて備えていた。日本之介も鎧下程度は身に着けているが、戦を起こす気配を見せようとしない。というのも、与右衛門自身が、
 ―― 奈佐日本之介殿と話がしたい。
 と交渉を求めているからである。
「軍勢を引き連れて何が話じゃ。大将を手討にしようと考えているのだろう」
 と家臣のうちの一人が与右衛門に向かって叫んだ。与右衛門は、
「この藤堂与右衛門、そこまで卑怯な男ではない。今一度、日本之介に取次を願いたい」
 与右衛門は馬上で呼ばわっている。奈佐の家臣の罵詈雑言を矢の雨の様に受けながら、毅然と馬上での姿勢を崩さない。日本之介の耳にこのやり取りは入ってきていて、
「会おう」
 と答えた。引き留める家臣を聞かず、日本之介は自ら城の大手門にまで出向き、門番に閂を外させて門を開かせた。与右衛門が軍勢を手で制している姿が見えてくる。
「入るのはおぬし一人だ。他は何人たりとも許さん」
 日本之介が言うと、与右衛門は頷いた。
「一旦、兵を退かせよ。もし、戻らぬときは攻めよ。……それでよいか」
「よかろう。そう易々と落ちはせぬが」

 具足姿の与右衛門は板敷の広間で日本之介と対峙した。
 周りに家臣を置かず、日本之介も一人で対峙している。
「奈佐殿」
 といいかけたのへ、日本之介は手で制した。
「藤堂殿よ、帆別銭を徴収して良いといったのはそちらであるぞ。だが」
 と日本之介はそれまで不機嫌そうに眉を寄せていたのを緩めて、
「織田信長殿からは了承をえておらなんだのであろう」
「それを分かっておられたのであれば、何故」
「我が知っていたとしても、それを奴らが知るわけではない。ましてや、それを止め立てする事は出来ん。それに、そもそも徴収を認めたのはおぬしらではないか」
 そう言われてしまうと、与右衛門は何も言えない。
「それゆえ、軍令に背いた我らを攻めに来たのか。だが、勘違いするな。そもそも我らは協力はするが、臣従したつもりはないのだぞ」
「どうしても、我らに馬前を共にすることはないと」
「我らは海の民だ。そもそも馬なんぞ持ち合わせておらんわ」
 日本之介はひとしきり笑うと、今度は顔を引き締めた。そして、
「今度は弓矢を使え。その方があとくされ無くて済む」
 といって、出ていくように手を大手門の方に向けて誘った。与右衛門は
「それでも合力を」
 と言えるわけがない。与右衛門は口惜しそうに津居山城を後にし、一旦は兵を退かせた。
 翌日から、与右衛門の軍勢は日本之介の津居山城を攻め立てることになった。軍勢は前の百から三千という大軍になった。一方で、津居山城の軍勢は凡そ二百ほどで、それも守城の経験が乏しい。一方で与右衛門は、後世「築城の名手」とされるほどに土木関係に明るい。
「孤峰で籠城をするとなると、必ず伝令をとばすことになるであろうから、まず周囲を水も漏らさぬほどに徹底して囲め。それと、奴らは水軍だ。夜を徹して篝火を焚け。そして船で後ろの本丸の峰までをぐるり、と囲むのだ」
 与右衛門は周囲の村々から船を調達し、さらに昼夜を問わず囲ってしまったため、兵糧攻めのようになった。
 元より孤城であり、また他に頼る援軍もないため、津居山城の兵糧はすぐに底をつき、兵たちも飢えに苦しみ始めた。
「大将、此処はお逃げくださりませ」
 日本之介に家臣たちがそう進言した。だが、逃げる場所がない。海も囲まれて陸地も人海となって阻んでいる。
「我らが血路を切り開きまする」
「それが出来るくらいならすでにしておるわ」
 日本之介は笑いかけたのをやめた。家臣の血走っている眼を見れば、それが生半な決意ではないことがすぐに分かったからである。
「いくら海が閉ざされようとも、我らの庭でござれば大将を逃がすくらいは出来まする」
「逃げて何とする」
「吉川様の鳥取城に入ってくだされ。さすれば織田方と渡り合えるかもしれませぬ」
 日本之介は津居山城の本丸に向かい、そこから山陰沖を一望できる天守台に登った。やはり、与右衛門の軍の船は幾層にわたって整然と並んであり、とてもではないが血路を切り開くのはどう見ても困難であると言わざるを得ない。
「それでも、我らは海の民でありますれば」
「無駄に死なせるわけにはいかん」
「しかしこのままではどのみち死にまするな、それでよろしゅうござるか。織田に謀られたままで」
 家臣の言葉に、日本之介は腹をくくった。
「ならば、夜まで待て」

 その夜はいつもに増して北からの寒気を帯びた風が吹いていた。日本海特有の波の荒さもあって、与右衛門の軍の船は乱暴なゆりかごの様に激しく揺れ、中の兵たちも足元が定まらず、警戒は必然的に緩んだ。
(いけるぞ)
 日本之介を乗せた船は水面を、まるで水黽が泳ぐように難なく包囲網をすり抜けていく。しかし次第に風が弱まり船が安定し始めると、与右衛門の軍は矢を射かけ始めた。そうなると、鉄の雨が頻りに落ちてくる。奈佐の軍は次々と船が沈められていくか、あるいは殿となって船に突撃するなどしてとにかく日本之介を逃がすために必死に散っていくのである。
 与右衛門はその報せを受けて、
「攻撃をやめよ」
 といった。初めは過信は聞き間違えたのか、と思いもう一度尋ねた。然し与右衛門は
「やめよ」
 といった。
「何故でござりまするか。これは信長様の命である、と」
「それでもだ。逃がしてやれ」
 与右衛門の表情が暗かったのは夜だけではなかった。
 日本之介は山陰沖を南に向かって進み、因幡千代川に到着すると其処から陸路に変えて鳥取城に向かった。
 城主である吉川経家は快く出迎えてくれた。
「助けに来てくれたのはうれしい限りじゃ。宴の一つでももようさねばならんが、そのような余裕はない」
 といって、現状を事細かに説明した。日本之介は、
「兵糧はどうなっておるのでしょうや」
「出雲から運び込まれる予定ではあるが、目途はついておりませぬ」
「ついていない、とは」
 経家が言うには、出雲と伯耆からそれぞれ兵糧が運び込まれる予定ではあるのだが、陸路はすでに封じられていて海から運ばれることになっている。
「しかし」
 と経家は困惑した表情で続ける。
「実は、その海からも運び込まれるのは困難になろうとしているのだ」
「そうか」
「だが、日本之介殿が来られた以上、海は万全といえる」
「そうとは言えませぬ。我らも但馬を追われて此処にきた身でござれば、言うなれば裸一つできたようなもの。だが」
 日本之介はにやり、と笑った。
「海はいつでも我らの庭。少々の活きのいい奴を貸していただければ、兵糧を運んでみせましょう。今度はいつ来るかお分かりか」
「今夜でござる」

 夜になり、水面は黒真珠を溶かしたようになっている。日本之介は夜目をきかせて辺りを見張った。沖合の方に小さい毛利の旗が見える。
「あれだ。船を出せ」
 船は十艘ほどで、この時点でいかに鳥取城の軍勢が少ないかがよくわかる。船はするすると沖合に出て、兵糧を積んでいる船を近づいた。船大将の男が
「何者であるか」
 と日本之介の船に向かって尋ねた。
「鳥取城主、吉川経家殿の使いで参った、但馬水軍の奈佐日本之介と申す。その兵糧を運び込みたい」
「お待ちあれ。奈佐日本之介といえば、織田方の武将ではないか」
「この間まではな。少ししくじって、今では毛利方についておる。もし不審に思うならば、我らの後ろにつけばよい」
 日本之介はそういって船首を返して、戻り始めた。船大将のそうなるとついて行くしかない。暫く船を操って千代川の河口にまで戻ると、今度は台車を用意していて、
「これに積んでもらいたい」
 といった。船大将は
「それがしも同行する」
「よかろう。だが、敵の中を突破するのだ、それ相応の覚悟はしておけよ」
 といって夜陰に紛れるために松明一つ焚かず、月明かりを唯一の光源として、地雷を除去するような慎重さでゆっくりと進み始めた。
 幸い、敵陣の中とはいえ軍勢はほぼ鳥取城に目を向けていた為、無事日本之介の守る丸山砦に入れることが出来た。船大将はその中に同朋を見つけたようで、漸く日本之介を信用し、
「今度は五日後にまた運び込む予定でござる。よろしく願いたい」
 と今度は丁重な態度で話した。しかし、日本之介は
「五日後は早すぎる」
 といった。何故か、と船大将が尋ねた。
「この事は恐らく露見まではしておらずとも、察知されているやもしれぬ。よしんばそうでなくとも、軽軽に進められるほど事態は楽観できぬ。十日後ではどうか」
「十日、ですか」
「それまで何とか持たせるよう、経家殿に掛け合う」
「……分かりました。それでは、十日後に」
 船大将の後ろ姿は人里に間違って降りた木鼠のように辺りを何度も見渡しながら降りて行った。

 鳥取城が俄に活気を取り戻し始めた事に最初に気付いたのは、参謀を勤めていた黒田官兵衛であった。
「殿、鳥取城の様子がおかしゅうござる」
「おかしいとは、なんじゃ」
「俄に活気を取り戻しておりまする」
 官兵衛は跛行しながら、秀吉を久松山が見える高台に上らせた。この時秀吉がいたのは鳥取城を一望できる本陣山に築いた北東の陣所である。後年太閤ヶ原と云われる場所である。
「確かに、少し元気があるようじゃの」
 秀吉は額に手をかざして城の方を見ている。やはり、城兵たちの動きが少々躍動しているように見受けられる。
「たしか、兵糧は止めておったはずだの」
「はっ、しかしこうなっているという事は、おそらくどこからか運び込まれているものかと」
「ならば、伯耆からか」
「いや、それはありえませぬ。それがしを初め、蜂須賀殿や杉原殿が陣を張っておりますれば、水も漏らさぬほどに密になっておりまする」
 秀吉は腕を組んだ。武将にしては薄い顎鬚を撫でている。
「ならば、海か」
「千代川を使って運び込まれているやもしれませぬ」
「継潤を呼べ」
 宮部継潤は元は浅井家の家臣であったが、秀吉の調略によって織田家臣となった男で、坊主上がりの特異な経歴を持った武将である。
「宮部継潤、参上仕りましてござる」
 継潤は坊主時代反り上げた青々しい頭を下げて膝をついた。
「おぬしは今から千代川に向かえ。そこで陣を張り、千代川をたえず見張れ。兵糧はそこから運び込まれているかもしれん。それと、怪しい者がおれば、身分を問わず捕まえよ。ただし、生け捕りにして殺すな」
「承知仕りました」
 継潤はそういうと立ち上がって、陣を千代川近くに張った。
 経家はすぐにこれを知ると、
(これで海からも断たれた)
 と直感した。空から兵糧が落ちてこぬ限り、すぐに干上がってしまう事は容易に想像できた。
「我慢比べになるな」
 我慢比べ、というにはあまりに不利な条件ではあるが、援軍に一縷の望みを託すしかなかった。
 日本之介は忸怩たる思いで千代川を眺めるしかない。すでに千代川の河口までが敵陣に落とされた今、僅かの兵糧でなんとかつなぐしかなくなってしまった。それも毛利軍がいつくるか、それ以前に来るかどうかすらもわからぬような危うい状況の中で、そこにしか希望を見いだせぬ事に、日本之介は苦笑するしかなかった。

 鳥取城の渇え殺し、と呼ばれる凄惨な籠城戦が始まったのは、天正八年五月頃からである。
 すでにこの時点で、日本之介から敵陣を切り抜けて運び込まれた兵糧は二十日分程度しかなく、それを小さく細切れにするように配した。ところが秀吉は鳥取城周辺の百姓や女子供までを乱取するなどして追い込んで、城内に逃げ込ませた。兵糧を早く尽きさせるための作戦である。
 当然すぐに兵糧は尽き、鳥取城は飢えに苦しみ始めた。
 しかし、鳥取城は一山が城になっている山城である。最初は三日に一度程度、山に下りて山菜などを取るようにして凌いでいたが、それも厳しいとみるや、今度はそれを五日に一回と伸ばすようにした。ところが秀吉軍は敢えてそこでまた追い立てるのである。そうなると、城の中に閉じこもるしかなくなってしまい、兵糧が尽きたところに千人以上の人間が狭苦しく閉じ込められたのである。
「秀吉という男は残忍な事をする」
 丸山砦の日本之介は唇をかんだ。口元から血が滴っている。
「しかし、城の中に閉じ込めてしまえば兵力が上がって逆に落ちにくくなるのではないか」
 と誰かは分からなかったが、そのような声が飛んだ。刹那、
「阿呆か」
 と怒鳴った。
 兵糧の無い所に千人も閉じ込めておけば瞬く間に尋常ならざる飢餓状態になる。そうなれば、人間は生きるために他者を殺し、またその肉を食らうであろう。そして喰らったものが今度は食われ、目を背けたくなるほどの共食いが始まるのである。恐らく最初に食われるのは役位たたぬ老人か赤子になるであろう。そして、その次は女になり最終的には男同士が食い食われることになるのだぞ、と日本之介は叫んだ。
 さすがに事態を理解した砦の城兵たちは一気に顔が青ざめた。と同時に、
(勝つためにそこまでするものかよ)
 と、秀吉に対して恐怖とも怨恨ともつかぬ、常軌を逸した「おそれ」を抱いたのである。
 日本之介の言う通り、すぐに飢餓状態の極限にまで達した鳥取城では共食いが始まった。
 まずはまだ肉の柔らかい赤子を母親から引きはがしてそれを食らい、骨までしゃぶりつくした後、今度は母親を殺して肉を食らい始めた。
 ―― 脳みそが栄養が高いらしい。
 という噂が立つと、今度はその脳みそ目当てに互いが刀や槍を振り回す、という阿鼻叫喚というには生温いほどの虐殺が始まった。まだ理性のある者は秀吉が見える太閤ヶ原に向かって、
「助けてくれ」
 と叫んでいるつもりなのであろうが、辛うじて口を餌を求める魚のように開け閉めをしている程度で、その声は秀吉には届いていまい。
 秀吉軍の鉄砲兵がその者を撃ち倒すと、すぐさまそこに人、というよりも餓鬼に近い悍ましい連中が、その者の肉を奪い取らんと次々と覆いかぶさっていくのである。さすがに、これを見た者が次々とえづいていた。
 日本之介は丸山砦から辺りを見下ろしてみる。やはり、鳥取城の惨劇はすでに知れ渡っているようで、足軽たちはまともに城を見ようとせず、目の前の現実から逃避している。一方で、太閤ヶ原からは何も指示が飛んでいないようで、小さく見える秀吉の姿が、まるで阿国歌舞伎をみている観客の様にのけぞっているように見えた。
 日本之介は自分が無力であることをこれほどまざまざと見せつけられたことはない。喩え米一俵でも送ることが出来れば、と何度も繰り返して考える。然し海の経路は封鎖され、安芸からの援軍も来ることが出来ない。どうにも八方塞がりであった。

 同じように考えていた男がいる。与右衛門であった。立場は違うが、この鳥取城の攻め方は確かに兵力を損失しないという点では理想的な作戦ではあるが、それ以外では人道に悖り、鬼畜にすら劣る作戦ではないか。与右衛門は、憂鬱であった。
 与右衛門は長秀の本陣に向かった。長秀の本陣は太閤ヶ原よりやや北にある。長秀はこの時、陣中で書状をしたためていた。
「長秀様。与右衛門でござりまする」
「入れ」
 与右衛門は具足姿のままであるが、長秀は具足下着に小袴といういでたちで、脇に具足を人型に掛けておいてあった。
「長秀様、このままにされるおつもりでしょうや」
「兄者と官兵衛が動かぬ限り、このままにするしかあるまい。それが兵糧攻めであることは承知しておろう」
「されど、今、城内で起こっている事は人の範疇をはるかに超えておりまする。いくら兵糧攻めとはいえ、これは戦ではあり申さぬ」
「わかっておる。それがために、書状を書いておるのだ」
 長秀は書き終えた書状を与右衛門に見せた。城主である経家、森下道与、奈佐日本之介の首を差し出せば城兵や民は救う、とあった。
 森下道与という男は、鳥取城主であった山名豊国が、織田方に寝返ろうとしたとき頑強に抵抗し、豊国を城から追い出して経家を迎え入れるように画策した主犯格の男である。
「この経家と道与は理解できまするが、日本之介殿の助命は出来ませぬか」
「兄者と話した結果だ」
「それはあまりに無体でござる。そもそも、日本之介殿を謀ったのはそれがしでござる。それに免じて、どうか助命を」
「その事はすでに終わった事だ。兄者が日本之介の命を求めたのは、織田方についた者がそれに背いたことにあるのだ」
「しかし、それは」
 と与右衛門がいいかけるのへ、
「喩えどのような経緯があったとしても、我らから離反したものを許すわけにはいかぬし、よしんば我らが許したとしても御館様が許すまい。……理不尽ではある。だが、この戦で一番理不尽に死なねばならぬのは、とうの吉川殿自身ではないか」
「しかし、経家殿は毛利方の武将でござりますれば」
「だが、毛利方の武将であるだけで、この城とは縁も所縁もない。さらに言えば、豊国殿を追いだしさえしなければこのような戦はせずに済んだ。そうなれば、経家殿も、同じ死ぬのでも随分と様が違っていたであろうに」
 長秀は経家という男がどのようであるか、この戦を通じてしか知らない。だが、それでも殺すには惜しい人物であることは理解していた。
「ならば、せめてその使いをそれがしにお命じ下さいませ」
 与右衛門にとってみれば、せめてこの程度はせねば、何らかの悔いを残すかもしれぬ、と思った。

 与右衛門は丸山砦に向かった。
 すでに丸山砦の士気はこれ以上なく下がっていて、与右衛門の姿を見て抵抗しようというものが現れなかったほどである。
「奈佐日本之介殿はここにおわしますや。それがし、羽柴小一郎長秀が家臣、藤堂与右衛門と申す。是非お取次ぎを願いたい」
 与右衛門が呼ばわると、
「それには及ばぬ」
 という声が聞こえた。日本之介の声であった。聊かやつれて、目は落ちくぼんで血走っていたが、鳥取城の軍勢の様に理性はまだ失ってはいなかった。
 砦の一室で二人きりで対面した。
 日本之介はかつての立派な体格は面影もなく、顎と鰓の骨が突き出た様になっている。肌の色は精悍な黒色ではなく、明らかに栄養の行き届いていない、どす黒い肌の色になっていた。
「秀吉という男は怖い」
 日本之介の声は細い。津居山城であった時はまるで別人のようで、与右衛門は兵糧攻めのこわさを改めて知った。
「あの男は、怪物になる」
 将来の事を見越しての事ではなかったであろうが、日本之介は心の底から震えているようであった。
「開城を促しに来たか」
「左様でござる。これ以上の籠城はただ徒に死人を増やすだけでござる。城兵と民百姓の命をこれ以上捨てぬためにも、是非とも」
 与右衛門は頭を下げた。降伏を促す使者の態度ではない。
「条件は、何だ」
「城主の吉川経家殿、因幡山名家家老森下道与殿と、貴殿の切腹でござる」
 といって、長秀の書状を出した。日本之介はそれを受け取り、
「情けをかけられるいわれはない」
 といった。与右衛門の表情が氷雨の落ちる曇天のような表情を見つけたようである。
「元をただせば、それがしが奈佐殿を謀ったが為にこのような仕儀になり申した」
「帆別銭を認めなければ我らは毛利につかざるを得なかったであろう。つまり、どのみちこうなることは分かっていた事なのだ」
 日本之介はそういって少しふらつきながら立ち上がった。
「藤堂殿、もし貴殿がそう考えていてくれるのであれば、少し手助けをしてほしい」
「何なりと申されよ」
「我は城に向かうまでの力がすでにない。我を鳥取城にまで連れて行ってもらいたい」
 といった。与右衛門は分かり申した、万全を期して送り届けましょう、といった。
 その前に、与右衛門は日本之介に久方ぶりの馳走を設けた。といっても、すでに数ヶ月以上雨露のみで過ごしているだけに、重湯程度のものでしかなかった。それでも、ゆっくりと全身にしみわたらせるようにして茶碗一杯を平らげた。
「おかわりはどうされる」
「結構」
 与右衛門の勧めに日本之介はにっこりと笑みを浮かべて断った。
 日本之介の体力は少々戻ったようで、ほんの少しだけ肌に生気が戻っている。
 与右衛門が日本之介の付き添いとなって鳥取城に入ったのは十月初めの事である。
 吉川経家は日本之介から書状を受け取った。そして読み終えると手を震わせながら破り捨てた。
「吉川殿」
 与右衛門は経家の意外な行動に驚いた。経家は与右衛門に向き直ると、
「藤堂与右衛門とやら、ご苦労でござった。この条件、承知したと伝えてもらいたい。が、この条件はそれがしから出した、という事にしてもらいたい」
「何故でござるか」
「織田方の命によって開ける訳にはいかぬ。然し自ら開けるとなれば、主家にも申し訳が立つ。それが、せめてもの、城を守りきれなんだそれがしの贖罪でござる」
「それは違いまする。我々攻め手によって城を開けるのは、何ら恥じ入ることではござりませぬ」
 経家は細くなった首を軸にして、こけた頬を少し膨らますように力ない笑みを浮かべて頭を振った。
「それがしが乞われてこの城に来た以上、意地でも守り通して逆に羽柴軍を因幡から追い落とすつもりでござった。されど、事ここに至ってこのような仕儀になった以上、その敗戦の罪を背負って冥土に行くつもりである。それと」
「それと?」
「これが、せめてもの意地というやつよ」
 これが、経家の最期の笑い声になった。

 三将の切腹を認められたのはそれから程なくの事で、三将の首実検を行ったところで鳥取城は漸く開城した。十月二十五日のことで、鳥取城を包囲してから四か月がたっていた。
 鳥取城内にはいった羽柴軍は、城内の凄惨さと腐敗臭に、誰もが腹の物を吐き出さずにはいられなかった。生き残った僅かな者を運び出して食事を与えると、急激に物体を入れたために半数が頓死してしまうほどの有様であったという。
 与右衛門は日本之介の首桶を眺めている。その表情は、憂鬱であった。

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