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小説/女優の子 六


伊澤ちはる 二


私が上空1,0000メートルで落とした涙はまだ宙に浮いたままでいる。

雲塊の巨大な水溜りの中で私は溺れている。
水中で口から泡がぶくぶく溢れるように涙が湧いて止まらない。私はただの水になって、ただの水になった葉の隣で目を見開いて泡みたいな涙に溺れながら泣いている。耳許ではじける泡のノイズが声を遮るのが煩わしい。
なりたい。かたちをなくした私になりたい。水の中で泡と一緒に涙を吐き出したい。
友達でいたい。ずっといたい。私に恋しないで。見捨てないで。
“おいていかないで!”
叫ぼうとした瞬間、夢が醒めた。

葉の夢を見るのは何度目だろう。時々こうやって夢に見たりしてちはるが押し戻って来ようとする。
鏡の中の私は不機嫌そうだった。濡れた下まつ毛が死んだ幽霊蜘蛛の脚みたいに肌にひっついている。いつも思うけれど、私のまつ毛は私本体とは別の意思を持つ生き物みたいだ。まつ毛だけ、虫みたいだ。
のろのろと机まで行き、使い慣れたノートの続きを開いて鉛筆で新たに書き足す。いったん全て失った言葉は、こうしてまた少しずつ蓄積されていく。
これじゃあ、まるでただの、昔の続きだ。

「百合」
階下から私を呼ぶ声が聞こえる。あの声はおそらく菫だ。私は寝巻き着のまま降りて行った。
父はもう起きて居間で新聞を読んでいた。挨拶をすると、お早う、と穏やかに返された。父は昔の影もないほど、穏やかになった。そして母も。
父は高齢なので、もう働いていない。母も一年前のショックから全体的に虚弱になってしまったけれど、昼間は通いのお手伝いさんがいるのと朝晩は私と菫の介助があるから、生活するのに問題はない。司水の家は土地持ちであるから、暮らしのお金のことについては心配していない。
「百合」
お釜の火加減をお願い、とお勝手から私に声を掛けてきた菫は、もうさくさくと朝の準備を進めている様子だった。行ってみると、手際良く卵を焼いていた。
「ごめん」
とろい私と違って、菫は要領がいい。
「眠れた? 」
卵を注視したまま菫は問う。菫は私がずっと不眠がちなのに気が付いている。あんまり、と返した。

髪を洗う。水の中の私を経て、ようやくもとの私に戻る。

私の髪は傷みやすいから、慎重に扱う。水にくぐらせるときは特に。
透き通るような白い肌はよく『色の白いは七難隠す』と重宝がられるが、それと同じような効果が艶やかな黒髪にもあると私は思う。髪が美しいかそうでないかで、その人の印象は大きく変わる。だからあのは執拗なほどに固執したのだし。髪は弱くても、顔が美しいからほっとする。容姿が醜いと日常的に心が守られないから。
百合、百合と今日も呼ばれる。当然のことだ。私は百合なのだから。服も靴も鞄も髪型も住処もぜんぶ百合だ。
でも。
私はうまく置いて来れなかったらしい。あのとき、ふちに淀みが生じたのは私のせいだと思う。正しく機能している水場なら自然と澄むものだと説明されていたのに、そうではなかったから。
私の感情反応はことごとく遅効性だ。喜びも嬉しさも、怒りも傷付きもいつも遅れてやってくる。きっと豪雨のように降りかかる出来事をいっぺんに吸収できず、私の中で細かく濾過しているのだろう。鉱水のように濾過されて、今更落とし込まれた感情に振り回される。こうやって今朝方見た夢みたいに。困る。
「百合」
洗った髪を梳いていると、鏡越しに後ろの扉から菫が顔を覗かせているのが見えた。
「お誘いが来てるって」
「何の? 」
蝶や花やちやほや倶楽部」
ああ、と振り返る。
「断るの?」
「行く」
いつもは嫌厭するその集いを菫が渋らないのは珍しかった。菫が行くなら私も特に断る理由もないだろう。


季節の移ろいの長雨はもう終わって、すっかり春が定着していた。
玄関を出て見上げると、壁みたいな空だった。空を壁みたいと思ったのは初めてだった。
私の涙は濾過ろかされない。
あの日以降、雨はぴたりと降らない。ただ蒙古襞のない、剥き出しの涙丘るいきゅうがひりひりと騒ぐ。
沼から身を投げたとき、一斉に散らばった言葉たちに包まれたとき、私は地面の下どころかはるか上空にいるような感覚がした。あれはどうしてだろう。雲が出来るほどの上空なので、涙は途端に氷晶ひょうしょうとなった。あの涙がまだ宙に浮いたまま彷徨い続けているのだろうか。
ほとんどすべて、忘れていいのに。ただ愛された記憶だけ覚えていれば。

漱石が“I love you ”を『月が綺麗ですね』と訳したとするなら、私の訳は『あなたと水になりたい』になると思う。 
私は、

あなたと水になりたい。



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