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誰かの宝物でいられたなら ②


(①はこちら↓)




Aさんは本来、とてもおおらかな気質の優しい人だ。

「何か私の性質で直した方がいいところがあったら教えてね、ちゃんと叱ってね」と言ったとしても、「いいのいいの、*ちゃんはそのままでいいの」と返すような人。それどころか毎回「*ちゃんは素敵、聡明、才能があって可愛くて純粋!」という具合に言葉の限りを尽くして褒めてくれる。これはもはや甘やかしと全肯定の権化である。こんなに甘やかされてるのって私と赤ちゃんくらいでは?と何年経ってもびっくりする。
Aさんは、基本的に私のことを信頼している。過去の実績とか私の性格とか、そういう具体的なことではなくてとにかく「存在としての私」を信頼しているという感じがする。うまく言えないけれど。
たとえば私が何かに挑戦しようか迷っていると「*ちゃんなら出来るよ!やってごらん」と背中を押してくれる。仮に出来なかったとしても、それを責めたりはしない。挑戦したことそのものを褒めてくれたり、別のやり方を提案してくれたりするので、私も結果がどうであろうとためらいなく話すことができるようになった。

前回の記事で、私は私の親友であるAさんを宝物のように扱いたいと思っている、お互いにそう出来たら嬉しいと書いた。そのためにはこまめなメンテナンスが必須であると。
何か不具合が見つかったら、問題の小さいうちに早々に解消してしまう。こまめなコミュニケーションを取る。価値観の違いを無視せずに折衷案を考える。現実的な考え方だと思う。
それは愛情の一種であるし、それが間違っているとは思わない。
けれど一方で、それだけ、、が愛情、それだけ、、が正解、というわけではなかったのだ。

少し前、知らずに私のやり方がAさんを長らく追い詰めていたと知れた出来事があった。そこで私は初めて無自覚の自分の問題点に気付かされたのだ。



思えば、Aさんはちょくちょく私に「*ちゃんは文章を書く人だから、発する言葉がピンポイントに刺さりすぎて痛いんだよね」と言ってくることがあった。
私はずっとAさんの言っていることがピンと来なかった。Aさんを特別に大切にしているつもりだったし、攻撃的なことや意地悪を言っているわけでもない。だから、それほど重く捉えてはいなかった。それでなかなか解決には至らず、この問題は次第に大きくなりながら何度か噴出することとなった。

あるとき「*ちゃんは僕を言葉でこてんぱんに言い負かそうとする。それって論破されてる気分になるし、正論で責められるから僕はぐうの音も出ないんだけど!」と言われた。
私はいわゆる“口が達者なタイプ”ではない。淀みなくお喋りが出来るのは、どちらかと言うとAさんの方だ。なので、そう評されたことは驚き以外の何物でもなかった。
「そうなの?」
「そうだよ」
正論で論破されてやり込められるのは確かにいい気分じゃない。そう思って謝ったけれど、どこを直せばいいのか正直心当たりがないのだった。Aさん本人や別の友達に訊いたりもしたけれど、何だかいまいち分からない。そうこうしているうちに、私側が「話し合いをしたい」と提案しても、Aさんは何らかの理由をつけてなかなか応じてくれないようになった。

前述した通り、私にとって話し合いというのはメンテナンスで、相手を最上級に大切にしていることの表れだった。それを怠ればいずれ傷んだり崩壊するのは時間の問題だ。だから、それをのらりくらりと躱し続けるAさんは、私との友情が壊れても別に構わないと思う程どうでもいいものになっているのだと感じ、とても傷ついた。お互い腫れ物に触るような扱いを続けた末、私の方が耐えられなくなり、大バトルになった。
何度も話し合いがしたいと声を掛けたこと。でも、その度にAさんに長らくストップされてしまって出来なかった悲しさ。待ち続けることのやるせなさ。そして結局こうしてギリギリの状態になってからメッセージを送るしかなくなってしまうこと。
話し合いのためにたくさん準備した。気持ちを整理して伝わりやすいようにまとめ、例えや質問も用意した。Aさんの言い分を聞いたらお互いに心地よいポイントを見定め、より平和にやっていけたらと思った。Aさんを大事にしたい気持ちから、労力を使ってそうしたのに。

“自分の気持ちを無碍にされ続けたら、そりゃ誰だってしんどくなります。優しさだって無限じゃないんですよ”

ところが、Aさんからは予想外にもこう返ってきた。

“あなたには、最大の敬意と愛情を持って接してきたつもりでした”

そんな訳あるかーい!である。

だとしたら、都合が悪いなら悪いで何かしらの連絡をすべきでしょう。相手の気持ちも慮らず、問題をそのまま放置したりはしないでしょう。ご近所さんにだって同僚にだってそういう対応は最低限するでしょうが。愛情と敬意ってそういうことでしょうが……と、私の悲しみと怒りは収まらないまま沸々と煮えていたのだが、Aさんはこう続けた。

“何度も話し合いしたいと思いました、フレンドリーに。でも、無理でした。当然*さんからの自分に対する不満は出るだろうと、でもそれを今自分は受け止められる状況じゃないと思ったからです”


“今職場で散々責められている状況なのに、さらに*さんにまで責められるとなったら耐えられません”


ここで、私は自分が見ているものとAさんが見ているものが異なっているのだと初めて気がついた。

Aさんにとって私の言う“話し合い”は、話し合いとは名ばかりの、“不満をぶつけられる場”だと感じていた? 不満を言おうと思っていた訳じゃなかった。でも、ずっとそう感じていたの?
そして私は極めつけのことを言われることになる。

“話し合いという名の議論はあまりしたくないです。今の*さんと話をしても、*さんの気持ちが分かることより、*さんが議論に打ち勝ったことに安心する人のように感じてしまうからです”



「議論かぁ……」

ヒエェ、と思った。キャッチボールをしていたのに急にトマトとかが返ってきた感じ。そんなこと考えた事もない、思いつきもしない。違うのにという濡れ衣感と同時に、でも私が実際にAさんにそう感じさせてしまっていたとあれば、言い訳なんか出来なかった。
Aさんが私に責められ続けてきたように感じていたのは事実だ。だとしたら、無自覚だとしても大事なAさんを傷付け嫌な思いをさせ続けてきたのは、私なのだ。

後日、お互いに忌憚なく自分の感じていることを言い合えて、お互いに謝って、なんとか事態は沈静化した。ただ、その時も私の言い方で「やっぱり分かっていない」とAさんに言わせてしまった。本当に分からなかったのだ。




繰り返したくなかった私は、自分の言い方のどんなところが議論調、論破調になるのか考えなければならなかった。
考えているうち、私のAさんを大事にしたいと色々準備していた“優しさのつもりだったもの”こそがAさんにとっての“責められ”に感じるのでは?という可能性に思い当たった。

前記事での『伝えたいことをピックアップして言い方を工夫する、なるべく根拠を提示する、疑問点を残さない』という作業を、私は毎回やっていた。なぜかというと、私は伝えるのが下手だから。相手を不用意な言葉で傷付けたくなかったから。
そして、最大の要因は、私の育った家庭、特に母とはそういうやり方で物事を伝えるのが通例だったから──とその時初めて思い当たった。

子どもの頃、私は母にそうされるのが辛かったのに。自分が欠陥人間だと繰り返し言われるようで、根本的にいつも信頼されていないようで悲しかったのに。でも、悲しいとか寂しいとかの感情を伝えても取り合ってくれないから、あれこれ理論で伝える方法を工夫するようになった。大事な人だから、真剣にそうしたんだ。

Aさんは「悲しいよ、寂しいよ」と言うだけで分かってくれるのに。でも、無意識に“きっと分かってもらえないから理詰めで説明しなきゃなんだ”の前提で伝えようと気を張っていた。

そうして実感として自分の中で飲み下せたら、心の底から“Aさんごめんなさい”という気持ちになった。確かにとても責めていたと思う。本当にごめんね。

フレンドリーに、とAさんは言った。フレンドリーに話し合いたかったと。
「自分の不機嫌について叱られた時はあの言い方はすごく分かりやすかった。でも、話し合いのときに論破みたいなことをされるのはやだよ」
ああ、多分私は“分析しよう”“きちんとしなきゃ”とか考え始めると、相手にプレッシャーを与える論破のような話し方になって、フレンドリーとはほど遠くなってしまうのかも知れない。

厳しく育てられたと思う。
厳しくというか、あまり信頼と肯定をされて育ってはこなかった。だから最初はAさんのひたすら肯定して包み込むスタイルに驚いたし、怖いとすら思った。なんでそんなに無根拠に私を信じたりするのかと思った。でも、「それが怖い」とべろべろ泣いていた私に「怖くなくなるまで子どもの*ちゃんをヨシヨシしてあげるから大丈夫だよ」と言ってくれたっけ。Aさんは本来、とてもおおらかな気質の優しい人なのだ。

私が身につけるべきものは、分かりやすい言葉の言い回しではない。だってそれは、「相手はきっと分かってはくれないんだ」という気持ちからくる先回り対策みたいなものだから。でも「ゆったりとした気持ちで相手を信じる寛容さを持たなきゃだめ!」と自分を追い込むのも違う。
結局ゆったりさを自然と持つには自分が安心と安全を感じることが一番で、Aさんはすでにそういう場所を作ってくれていたと思う。なのに、私がAさんにやっていたのは逆のことだったんだ。私のためだけじゃなく、Aさんを追いつめず心地良くいてもらうためにも自分が安心することは重要なのだと思った。


心配しなくたってAさんはすでに私を宝物のように扱ってくれているし、メンテナンスも出来ていたんだと思う。私の「このやり方だけが正解」という考え方が偏っていることも学んだ。目指しているものは同じでも、そこに行き着くためのやり方考え方はそれぞれ違って当然なのだ。
Aさんのやり方は、とにかく信じる、肯定する、安心させるというもの。気になる箇所を都度正されるより、信頼されて認められたほうが私はずっとのびのび成長できた。




衝突して、自分の問題点を理解して以来、私の不安感は激減した。だからAさんとの空気感もなんだか変わった。
Aさんは、*ちゃんは最近柔らかくなった!と褒めてくれる。柔軟になったから前よりもっと大好きになった!


Aさんが周りに愛される理由が分かる気がする。なんだか柔軟剤みたいな人なのだ。
Aさんと関わって背中を押される人たちを幾人も見てきた。そんな人と親友でいられるのが嬉しくて誇らしい。



第三部へ……続く……!!



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