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小説/女優の子 十九

伊澤ちはる 六

この世で最も透明なものは、涙だと思う。



雨はまだ蕭々しょうしょうと降り続けている。

いつものようにようと歩いている。葉は穏やかに淡々と、水のような自然さで私に寄り添ってくれる。私は安心しきっていた。ノートに言の葉を書き留めることが救いだったのと同じに、葉の存在そのものが私の救いだった。葉の前なら、私は自分に泣くことも怒ることも禁じないでいられた。

今だから分かるけれど、私は無意識に葉に“お母さん”を求めていたのだと思う。私の所属していた家族は外枠しかなくて、ほとんど機能していなかったから。
母親のような安心感。母親ような不変性。私は自分が求めていたものが何であるのかすら気づきもしなかった。葉に恋愛感情を抱かなかったのは、そのためだったのだろう。
私の傘は水色みたいなグリーン、葉はこのくらい平気と傘もささずにいる。私も葉のように雨さえ受け止められる寛容性を持てたなら、どんなに良かったかと思う。
「あのね、」
立ち止まって言葉を発した瞬間、私の目から涙がぼろぼろ溢れた。
「ごめんね」
ふっと出たのはこどもみたいな謝罪だった。葉は心底驚いた顔をした。涙は流れるというより湧いて出て、私のつまらない意地や執着を溶かし流してゆく。水の浄化力は驚くべきものだ。物理的な汚れも溶かして落とすけれど、たぶん、人の感情や記憶までをも溶かしだす性質を持っている。そして、それはとても透明で心地良いものだ。
「前に、“私にはホームなんてない”って言ったでしょ。“だからホームシックにならない”って。あれ、違ったよ」
葉は言葉少ない相槌を打って、続く言葉を待っている。
「私のホームは、葉だったよ」
あなたがいたから私は輝いていられた。好きとか恋とかを飛び越えて、いつ帰っても受け容れられる、あなたが私の本拠地だった。嫌いなわけがないじゃない。
「僕は」
葉は自分のことを僕という。それが優しくて大好きだった。
「ちはるのホームになりたいと思ってたよ。だから、良かった」
いつもと変わらない照れたような笑い方を葉がするから、甘えたいような、泣きたいような気持ちになる。百合半分、ちはる半分で過ごした一年はきっと私なりのホームシックだったのだろう。
「ごめんね」
「なんであやまるの」
「ごめんね」
涙が加速し、透明も加速する。確かに私の伊澤の血は司水由来なのだと実感する。
「ずっとホームでいてくれる? 」
「ホームでいるよ」
「駄目な私でも見捨てないでくれる? 」
「見捨てないよ」
雨が霧雨となり、霧雨が濃霧となり、どんどんその密度が増して私と水との境目がなくなっていく。葉の声は聞こえるというより、感じ取るものとなっていく。

──ちはるは自分をありふれた存在だと言っていたけれど、僕はそう思ったことはなかった。ちはるはかわいい女の子だったし、考え方も独特で魅力的だった。僕にとってもちはるはホームだった。いつも浄化されたように、気持ちを軽くしてもらっていたよ。

その言葉で私はすっかり救われた心地がした。
水になりたいと思っていた。水には男も女もないから。かたちをなくした私になりたい。泡と一緒に涙を吐き出したい。
私の手放しきれなかった葉は淵に澱みを作って世界に揺らぎをもたらすきっかけになってしまったけれど、手放さなかったからこそこうして決着をつけられた。なによりも大切な存在と、きちんと向き合うことができた。

──前の世界の大事なもの、置いていけますか。

置いていくんじゃない。ほどいていくんだよ。

「もう誰かの人生の女優になるのは嫌だもの」

その瞬間、一気に上昇した。高みから楕円型の単語帳みたいに繋がり連なったロゼットの世界が一気に見渡せる。ちょうど単語帳のパンチ穴にあたる位置に、ぴったり嵌るような繊月せんげつ(二日月)が見えた。

私が入れ替わりきれなかった百合。それに自己犠牲的な菫に、特別感のある椿。森沢のおばさま──都さんにも浄めるべき澱みはあって、澪の浄化はもう済んでいるようだった。
身体が軽い。ここから緩やかに落下して、やがて白い林に着地するだろう。





“おお 愛しき木陰 私の優しいプラタナスの葉の翳り
光は踊り、陰は誘う 
私はそのもとで安らかに眠るだろう
平安は二度と脅かされることはないだろう
たとえ嵐が襲い来ようとも 閃くいかづちさえも 
決してこの場所までは届くまい”




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