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このサイズで生きている




公園で昼食を摂っていると、いつの間に這い上がって来たのか、小さな蜘蛛が私の黒いバッグの上を彷徨っているのがふと目についた。

鮮やかなライムグリーン。

芥子けし粒ほどの大きさなのに体のつくりは手抜きなく、極めて精緻だ。
顔を近づけてよく観察してみると、細い脚、更に細い触覚、その接合部とあまりに繊細で見入ってしまう。
おもちゃより華奢なこの体はちゃんと本格機能して、風が吹いても簡単には飛ばされない。この体をなめらかに動かして毎日生きている。感嘆するばかりである。

──きれいだな。

きれいだしかわいいし見事で愛おしい。
そう思っている私は無意識にその蜘蛛に対して優越を抱いている。自分の意思ひとつで、力加減ひとつでこの存在をどうにでも出来るという心の余裕が私に蜘蛛をきれいだと思わせているのである。私がいつでもその気になれば、蜘蛛は呆気なく死ぬ。この命がどうなるかは私の優しさとモラルにかかっている──と言い換えてもいい。
もし、これが人のてのひらくらいの大きさであったら。
私はこのベンチに座って昼食を食べようとは思わないだろう。
さらに飛躍して私と蜘蛛の比率がそっくり逆転したら、きっと生きることもままならないからきれいだなんて思う余裕はない。今の境遇と全く逆に、蜘蛛に捕食されたり無造作に踏みつけられることに怯える日々となるだろう。相手が強者だからだ。

世界というのはある部分では単純で、結局物理的にサイズの大きい存在が強かったり、声の大きな意見が正義だとして世の中が進んだりする。
人間にガリヴァー旅行記の世界のような、あんなサイズ比がなくて良かったと思う。あれじゃあ人間同士であってもとても対等で平和な関係性でいられない。




子供向けでないタイプの『ガリヴァー旅行記』を何年か前に読んだことがある。
ガリヴァーが小人リリパット王国で巻き起こすあれこれに就いては絵本にもなっているから有名だけれど、そのあと続く巨人国ブロブディンナグ空中浮遊島ラピュータ馬人国フウイヌム等での体験記はそれまで他人から聞くのみであったので新鮮な面白さがあった。

小人国リリパット巨人国ブロブディンナグでガリヴァーが体験した出来事を読むにつけ、ひしひしと思うところがあった。大きさだ。
大きさって不思議だ。ただサイズが違うだけで優劣が生じてしまう不思議。
身長17センチの賢王に身長170センチの愚民は軽々とまさってしまう。その力でねじ伏せてしまう。生まれも立場も豊かさも教養も威厳も、いともあっさり乗り越えて。
互いの国家間で結ぶ平和協定なんて、きっとなんの意味もない。

ガリヴァーは小人国リリパットにおいては強者だった。リリパット国民よりサイズが大きかったからだ。努めて紳士的に振る舞うようにはしていたものの、とっさの事態には力技で対処してしまう。一方巨人国ブロブディンナグにおいて彼のサイズの小ささは彼を弱者にした。大事にされてはいたものの、ペットかおもちゃのような扱いを受けた。ちょうどライムグリーンの蜘蛛を扱った私のように。

小さな子どもは庇護欲を掻き立てるような可愛さがあるし、大抵の場合は保護者に守られている。でもやはり、攻撃の対象にされてしまう場合はひとたまりもない。
だとしたら何の思い入れのない、もしくは過去確執のあるよその民族がリリパット国民ほどの大きさしかなかったら、その国民はとっくに滅びている可能性が高いだろう。
どちらも人間。頭脳も尊厳も生存も同じ。それなのに、ただ大きさが違うだけで。




そうして考えはぐるぐる巡って、結局「不思議だな」で落ち着く。私の思考はその程度だ。この地球上の生き物のサイズ感の、サイズのチョイスの、そうして今こうして出来ているパワーバランスの、そういうもの諸々。


お弁当の中のグリーンピースをしばし眺めて、これがこの大きさで良かったなと思う。アボカドくらいの大きさだったら、多分私、グリーンピースが好きじゃなかった。グリーンピースくらいのアボカドもきっとおなじ。







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