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宗教の自由、二世の問題。




私は物心つく前から

ある宗教の二世信者として育ちました。




名前は伏せますが、布教活動に熱心な組織なので、一度は名前を聞いたことがあるかもしれません。



前置きとして。
この文章は特定の宗教や、信者を非難するものではありません。

二世信者として育ち、自分の意志で宗教から離れた私の目線から、同じような苦しみを抱えている人達へ、この経験が少しでも力になるように。

人によって置かれている状況は様々だと思います。
なので大きな問題の中のほんの一欠片だと捉えて頂けると幸いです。
閲覧は自己責任でお願いします。




昨年、元首相の銃殺がニュースとなり、宗教の二世問題が大きな関心を集めるようになりました。

私も、事件にショックを受けました。
そして『多くの人たちが同じ二世問題で苦しんでいる』ということを知り『もしかして自分のいた宗教はやばいんじゃないか?』と、自分の生きてきた環境に不安を抱きました。


あの事件から、頻繁にネット記事でも二世問題を見かけるようになりました。
私も子供時代、記事で取り上げられているような、生活上の制約や体罰が日常的にありました。

記事を読むたび、当時の記憶が呼び起こされます。
でも、読まずにはいられません。
多くの元二世信者は、自分の経験が複雑な問題だと知っていて、隠している事が大半だと思います。
私もそうでした。
なのでこれまで、自分以外の元二世信者の話を聞く機会は、全くと言って良いほどありませんでした。

『自分の感覚は間違っていなかった』と他人の経験を読むだけで安堵し、同時に宗教への怒りが湧いていくのです。
情報が少ない中で、味方を見つけたような気持ちでした。
ただ私は、ネット記事に書かれている事は、過激な表現が多いと思いました。

問題なのは、これまで世間に認知すらされていなかった元二世信者達が『自分はこんなにもひどい事をされてきたのだ!』と過剰に思い込むことです。

少なくとも私はそう思いました。

ネット記事で書かれている事は、その多くが二世信者を『被害者』。宗教団体や、宗教家族を『加害者』として描いている印象があります。
記事として書く上では、大仰な物言いをし、ネタとして取り扱う方がウケがいい気持ちはわかります。
ただ、元々情報の乏しい元二世信者の中には、記事に描かれた過剰な物言いを鵜呑みにし、苦しみの原因の全てを、宗教や家族に求める人もいるのではないでしょうか。

勿論、昨年大事件を起こした人の様に、生活も困窮し、心身ともに被害にあっている人もいるでしょう。
ですが元二世信者の中には、宗教や家族とかかわった全てを否定したいと考えている人だけではないと思うんです。

私は家族を愛しています。

そして家族にも愛されていると思っています。
宗教の教えには『NO』といっても、家族を恨んだり、憎みたくはありません。

過剰なまでに『被害者』『加害者』と隔てて、被害者意識を煽る必要はあるのでしょうか?
『私はひどいことをされてきた!』と非難する事で、他の物が見えなくなっていないでしょうか?

宗教と家族の関係があまりに密接なために、それを切り離して考える事は難しい。
『教え』は少なからず、子供時代の刷り込みにより今の自分を築く基盤、そして善悪の判断基準になっています。


私の家族は、今でも私以外全員その宗教の信者です。
その活動を否定する気はありません。
むしろ家族の心の支え、生きる活動力として、必要不可欠なものだと思います。


それは家族の『宗教の自由』です。
そして同時に私が信仰しないことの自由でもある。
その自由だけは、家族にも、きっと神様にも否定してはいけないものだと思っています。

私は物心つく前から、宗教の教義の下で生きてきました。でも今の私が選択する未来は、誰にも決められていないし、誰にも決められてはいけないものです。

宗教の輪の中にいる時は、私も『教え』に縛られていました。
生活の基盤に『教え』があり、自分の思想を主張することは、神の意思に背く行為だったからです。

自分の意思でそこから離れようと考える度に、罪悪感で押しつぶされそうになりました。
そして、その罪悪感から逃れるように、子供の私に『教え』を植え付けた両親を憎みたくなった。

親が子供に教義を学ばせる事は、その宗教の教えでした。
だけど両親はきっと、子供の幸せを願うからこそ、私達に教義を学ばせていたのだと思う。

『自分が良いと思ったものを子供にも教えたい』
あるいは『自分が嫌だった事から子供を遠ざけたい』と思うのは、親として当然の感情ですよね。

宗教ほど仰々しくなくても、どこの家庭でも多かれ少なかれあるものだと思います。
そう思うと私の体験は、何も物凄く特別なことではないのかもしれません。

ただ教えを受けて育った子供の身としては『どうして善悪の判断もつく前からそんな事を!』と怒りを覚えます。

体に染みついた教義と現在の感情、自分の思想の間で八つ裂きにされるような気分です。
教科書を逆さまで読むのが普通だと、大人になってから勉強し直すよう。

成長した二世信者が宗教から離れる前、多くが家族と縁を切ったり、大きな喧嘩をすると聞いた事があります。

私は『自分はこれ以上宗教に加担しないけれど、家族の活動は妨げない』と決めていたので、両親や家族に感情をぶつけることはありませんでしたが、その気持ちも痛いほどわかります。


我が家は三人兄弟で、姉と兄は宗教の教えを大人になった今でも、受け入れています。
姉はかつて親から受けた『教育』を、娘に引き継いでいます。
叔母の身分としては、複雑な気持ちです。
姪を可愛いと思えば思うほど、かつて自分が受けて苦しんだ『教育』を受ける姿を、見なくてはなりません。

善悪の判断もついていない子供が、教義の言葉を口にし、周囲の大人はそれを褒める。
子供は意味も分からないまま、親に褒めて欲しくて必死に宗教活動に参加します。

『この子も大きくなって、自分の思想と教えの間にギャップが出来た時に葛藤するのだろう』

そう思うと、自然と距離を取ってしまうんです。 感情移入しないように。
悲しいです、本当は姪を可愛がりたい。
でも可愛くなればなるほど、姉のやり方を見るのが辛い。
でも姉にとっては、親から受け継いだ『教え』。
自分の助けになったものを、子供に引き継ぎたいと思う気持ちは、これまた痛い程よくわかるのです。

この問題は一生ついて回るものだし、完全に割り切れやしないのだと思います。
幾ら理性的に捉えようとしても、感情が暴れる。
だからこそ何度も言葉にして、感情的になりそうな自分を制御しているのかもしれません。


『私自身は宗教に加担しない』
『家族と宗教は割り切って考え、家族の活動は否定しない』
『過去に受けた教育と、今の自分の思想は別物である』

本当に個人的な願望を言うのなら、せめて子供にも選択させてあげて欲しい。
まぁそれが出来ないのが『宗教』だと思うので、本当に、ただの願望です。


幸い私の場合『これ以上、活動には参加しない』と宣言した後、家族が宗教活動をしつこく求める事はありませんでした。
私が参加しなくなってからも、家族としての関係を保てています。

ただ、私が宗教と別離するに至った決定的な違いは『同性愛の否定』でした。
その宗教では、いかなる理由であれ同性愛は禁止され、悪だといわれています。
ですが私が好きになった人は、同性でした。

それは普通の恋愛感情と、何も違いはありません。
同性を愛しいと思う自分に、今は引け目もありません。

家族愛、隣人愛を『教え』として掲げていながら、愛の形を否定する教義に、以前から抱いていた疑念が、決定的に自分の考えとは違うことがわかりました。

いつか私が一緒に生きたいと思うパートナーが出来ても、家族への理解は望めません。
それも日本ではまだ良くある事だと思います。
それでも心寂しく、時々苦しくてたまらなくなります。

ただ今は。
自分の決断も、家族の活動も否定したくない。
きっと家族とはそれほど厄介で、愛おしい存在だと私は思うのです。


『信仰の自由』とは。
自分の望む活動を行う自由であると共に。
望まない活動に参加しない自由でもあります。
それは誰にでも、平等にあるべき権利です。

自分の中の基盤である『教え』に背く苦しさ。
痛いほどよくわかります。

でも、激しい感情に飲み込まれるのではなく。
一度、立ち止まって振り返ってみませんか?

きっと愛情が厄介な敵になると思います。
家族ってどれほど憎んでも、中々嫌いにはなれないものです。だから強い言葉で否定したくなる。

でもよくよく見てみると。
『信仰に至った』家族の思いがあります。
そして『何故それを否定したいのか』
自分にも理由があります。

難しい事ですが、それはどちらも同じ重さ。

私もまだまだ家族との関わり方。
今後の身の振り方について、悩んでばかりいます。

それでも、少しでも息の吸いやすいほうへ向かいたい。
カウンセリングを活用しながら、昔の自分の苦しみと向き合い、これからの自分を見つめて生きています。

私が望む事はただ一つ。
あのような痛ましい事件が起こる前に。

今も尚、自分の思いと家族の信仰の渦中で苦しんでいる人達の心に、安らぎが訪れますように。

強い否定は一時的に、自己の肯定になるかもしれませんが、長期的に見ればしこりを残すことになると思います。

どうかそうなる前に、悔いなく家族と向き合えますように。

私も、戦い続けます。


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