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論理的であることについて

 人生そのものに意味はないと過去の記事で書いたが、それについて少し。該当記事は下記。

 記事においては、人生そのものに意味はないとした理由に「私たちは誰一人として、生まれたくて生まれたわけじゃない。したがって人生そのものにに何らかの意味はないし、別に責任感を感じる必要はない」といった内容を挙げていた。
 こうして振り返ると、私は大した論拠があって主張しているわけではないようだ。
 まあここはnoteであって、哲学論文を書くところではないから、別に良いっちゃ良いんだが、うまいこと筋が通る主張として再構成できないものか、試したい気持ちもある。

頭を捻ること10チクタク(地球人の時間にして3日)

 うーん。「私たちは生まれたくて生まれてきていない」という前提的事実から、「私たちの人生に意味はない」に繋げるには何が足りないんだろう。どうもうまくいかない。
 よく考えてもわからないってことは、この2つの主張に論理的な関連性はないのだろうな。間違っても「〇〇だから⬜︎⬜︎」という関係ではなく、せいぜい「〇〇だし、⬜︎⬜︎」くらいのものだ。
 考えに考え抜いて書いたものではないにせよ、仮にも人様にお出しする文章のレベルが、その程度のものであるというのは、論理的記述者としての私の実力が未熟であることに他ならない。誠に不徳の致すところである。

 基本的に私は何か説明したいときや誰かを説得したいときには、その説明や説得が論理的であった方がいいと思う。
 もし自分が世界最強の武力を持っていたり、誰をも心酔させる圧倒的な魅力でもない限り、理路整然としていない話に納得してくれるとは思えないからだ。
 これは私の自信のなさの現れなのかもしれないが、実際、論理的であるというのは、世界最強でもカリスマがあるわけでもない多くの弱者が手に入れることができる、最大の武器であるように思われるのだ。

 ただ、論理的であるというのは無論、無敵の武器ではない。しかも、論理的であることの一番の問題点は、論理的であるということそれ自体を原因としている。
 たとえば、全く論理的でない人の言うことに対して私たちが何を言い返せるかを考えてみてほしい。そういった人はある種の「無敵の人」なのであり、あらゆる論理的なコミュニケーションが無効化されることだろう。一方で、論理的な人が言うことに対しては、論理的に言い返すことができる。
 つまり、論理的であるというのは、弱点を晒しながら斬りつける諸刃の剣なのだ。論理が効きやすい相手にはそこそこ火力を出せるが、剣そのものを叩き折られることもある。あるいは論理とは、建築であるのかもしれない。構造が丸見えであればあるほど、弱点がわかりやすく破壊しやすい。

 私は他人に反論されるのが嫌いである。ただでさえ自信がないのに、さらに落ち込むことになるからだ。
 もしも反論されるリスクを減らしたいなら、壁や装飾で建築の構造をわかりにくくするのが良いだろう。つまり、レトリックを多用するのだ。そうすれば、哀れな私の自尊心砕く方法がバレないかもしれない。
 もしくは論理的であることをやめるか。でも弱者たる私にその選択は酷だ。

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