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雑感(生まれてくることについて)

生れて来た以上は、生きねばならぬ。あえて死を怖るるとは云わず、ただ生きねばならぬ。〔中略〕何の理窟も入らぬ、ただ生きたいから生きねばならぬのである。すべての人は生きねばならぬ。

『倫敦塔』, 夏目漱石

 私が『倫敦塔』を初めて読んだのはたぶん高校1年か2年のころだったが、それ以来上に引用した箇所が頭の隅から引っ付いて離れず、ある種の諦念を伴った実感として折に触れてじわじわとしみ出していた。
 的を射た美文だと思う。あまりに月並みな感想だとわかっているが、そう思ったのだから仕方ない。つまり、核心をついているのだ。

 私たちは決して生まれてくることを同意して生まれてきたわけではない。
 芥川龍之介の『河童』には、生まれてくる子供に対して(父親が電話をかけるように母親の生殖器に口をつけて)この世に生まれてくるかどうか同意をとる場面が描かれるのだが、もし生まれてくることについて子供に選択権があり、選択の意思もあるのならば、いったいどれだけの子供が生まれることを希望するのだろうかと考えることがある。この世のひどい状況を前もって知らされていたら、生まれないことを選択する人もいるだろう。
 ちなみに『河童』では、お腹の中の子供は生まれないことを選んで、助産師に中絶された。

 芥川の『河童』は大変に示唆に富んでいると思うが、とはいえ生まれてくることについて同意をとれる時点で、その子供には生まれてくることに対する逃れられない利害関心があるということは、見逃せない。これでいて自分を殺す選択をできるやつがいるとは考えられない。
 「生まれてくる」と一口に言っても、それには生きることへの利害関心を持つ存在者として存在し始めるという段階とお腹の中からオギャアと出てくる段階とがあると思う(つまり私は妊娠段階を過ぎた胎児には生きることへの利害関心があるという議論を前提にしているし、おそらくそれは正しいと信じている)のだが、今回のような疑問が起こるのは、「生まれてくる」という言葉がほとんど通常の場合後者の意味で解釈されてしまうからだろう。
 意思決定ができる時点で生きることへの利害関心を持つ存在者としては既に生まれてきてしまっている。
 これじゃあ、本当に公平な相談にはならない。結局のところ、原理的に子供に生まれてくることの同意はとれない。わかりにくい話だが、私が言いたいのはそういうことである。

 もうすでに生まれてきてしまった私たちは、生まれてくることへの公平な相談が全くなされず、また同意なくここにいる。
 自分の人生は完全に外から与えられたもので、いわば私たちは訳もわからぬままこの世に放り込まれている。投げ出されている。
 私が一番問題だと思うのは、両親のこんなにも無責任な選択の結果として、(誠に不合理なことながら)私たちが自分の人生に何らかの責任感を感じてしまっていることだ。本当は他人に迷惑をかけない範囲で文字通り好きにやればいいはずなのに、無理にでも人生の中で生まれてきたことの意味を探そうとする。大抵は意味は見つからないから、勝手に落胆する。生まれてきたことを嘆くこともあるだろう。

 だが、そもそも生まれてきたことそれ自体には、何の意味もない。ただ生まれて死ぬだけだ。本来的に、私たちは自分たちの存在の耐え難い軽さ(あるいは重さ)に苦悩する必要がない。軽いとか重いとかでなく、そもそもないのだ。
 せいぜい、訳も分からず与えられてしまった短い退屈を使いつぶすくらいがいいのだ。自分という存在に悩むのはナンセンスだし、そういう意味で私は人生における意味を追求することに興味がない。

 ところで、実存に苦しむ人間に限って子供を作りたがる。あれはやめた方がいいと思う。冷静に見れば思想が一貫していないじゃないか。
 実存に悩んだ結果、自分の分身を創り出して永遠に生きようとするのだろうが、それだっておかしな話だ。子供は自分じゃないのだから。他人だ。永遠には生きられない。
 第一、自分のわがままに他人の人生丸ごと利用するなんて、良心がある人間がすることでもないだろう。実存に悩むくらいには自分の人生に責任感を持っている(そんなものないのだが!)のに、なぜこうも無責任な選択ができてしまうのか。無責任を自覚するならまだいいが、自分に良心があると思うならやめた方がいい。

 もう9月も半ばなのにまだまだ暑い。

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