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歯医者

 私の実家はドがつくほどではないにしろ、そこそこの田舎にあった。周りは田んぼに囲まれていたし、無人精米所もあった。
 しかしそれも私が大学進学で家を離れてから数年で様変わりした。
 かつて家の裏にあった田んぼは歯科医院になったのだ。それから何年かして、気づけばその歯科医院の隣りに3階建ての立派な家が建った。
 田舎とはいえ子供はそれなりに住んでいたから客には困らなかったのだろう、歯科医院は大いに繁盛し、ついには仕事場の真横に一軒家を建てたようであった。
 私が生活していた部屋は2階にあって、大きな窓が家の裏側に面していた。数年前はそこから大きな公園を見渡せた。しかし、いま窓から見えるのは歯医者自慢のマイホームの壁である。
 家の裏側に面した窓は、暗くなると遠くに微かなレストランやら何やらの灯りが見え、私は時折寝られない夜などになんとなくそれを眺めていた。赤やら黄色やら青やらに輝く光をぼんやりと眺めるうちに、不安は薄らいでいくようだった。そのときの記憶は今でも思い浮かべることがある。心の風景である。
 しかし、昼も夜も変わらず窓に見えるのがのっぺりとした壁になってしまったいまは、数少ない帰省のたびに、私は謎のいたたまれ無さに耐え切れなくなってカーテンを閉めてしまう。私にとって心の風景だったものは、本当の意味で心象風景になってしまった。現実ではもはやあり得ない。
 歯医者に恨みはない。恨みはないが、もし顔を合わせる時があれば文句の一つでも言ってやりたい。

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