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きこえない人を助ける、という救世主ポジション

ふと周りを見回してみると、世の中の様々な物やシステムは”耳が聞こえる”人が当事者であることが前提に発明されたり営まれています。「バリアフリー」とか「ユニバーサルデザイン」とか”多様性”に配慮したケースもありますが...

あなたの周りにろう者、もしくは聴覚障害者はいますか?クラスメイトでもいいし、職場の同僚でもいいです。画面越しにみる有名人でもOKです。彼らのことを考えたり、関わったりする中で、どのような声かけをしますか?

オーディズム的思想

ここ最近、目にするようになった(個人的感想)のオーディズムという概念を少しご紹介します。オーディズムは「聴こえることは聴こえないことよりも優れている」ことを基本とする考え方のことです。オーディズムの下には複数の理論や実践方法があります。(ここでは割愛します)
聴こえない人を差別しない!と考えている聴者ですら、(もしかしたらろう者も)オーディズムに支配されているかもしれません。
また、この世の中は「聴」か「ろう」かの二択ではなく、その間を行ったり来たりする人もいます。アイデンティティは場所と時間と気持ちで自由に動かせるものなのです。

心に植え付けられたオーディズム

どういう時にオーディズム的思想が表に現れるのでしょうか?
少し具体例を挙げてみます。

1.初めて補聴器をつけた赤ちゃんの動画に感動しちゃう
→”聴こえてよかったね”と思ってる

2.聴こえないクラスメイトにも分け隔てなく”普通に”接しちゃう
→普通って何?”聴こえない=普通じゃない”って思ってる

3.新生児スクリーニングテストの際に「テスト合格しました(=聴こえます)」と言っちゃう
→聴こえる=合格?聴こえない=不合格? 

言葉ではっきりと「聴こえない人を差別している」とは言ってないかもしれないけど、このような言動の根底にはオーディズムが関わっています。

きこえない人は助けを求めるべきなのか、きこえる人は彼らを助けるべきか


きこえない人は社会に助けを求める立場なのでしょうか。それとも、今の社会が彼らを困らせているのでしょうか。通訳やノートテイクは彼らを”助ける”ためのもの?そもそも「助ける」って何?

私たちみんなが救世主

Hancheyが2018年に発表した論文、”All of us phantasmic saviors”では、アメリカの高校生がNGOを通じて訪れたタンザニアでのボランティア活動を通じて、彼らの中に内在化された救世主的思想を指摘し脱構築する試みについて書いています。アメリカ人高校生たちは、ボランティア経験を通じて自分たちの白人性(Whiteness,この文脈ではタンザニア人に対して西洋人としての特権を持っているという意味)や構造的差別者としての視点を持っていることに気づくことを促されます。
この論文は目的は援助実践の再検討です。フィールドは違いますが、きこえない人を助けようとする白人(=特権を持つ聴者)と通じるものがあるような気がします。

ろう者当事者が社会に求めていることは「支援」なのか、もし支援なのだとするならばそれはどのような形で実現すべきなのか。特権者の独りよがりにはなっていないか。こう言ったことを考えていく必要があると思いました。

参考)Hanchey, J. N. (2018). All of us phantasmic saviors. Communication and Critical/Cultural Studies, 15(2), 144–160. https://doi.org/10.1080/14791420.2018.1454969


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