演歌をめぐるアレソレ

 また、知ったような適当な話である。

 台湾の知り合いが「北酒場」や「浪花節だよ人生は」が好きなんだそうだ。日本が(相対的に)凄かった時代の曲というのもあるようなのだが、これらの曲は歌詞は完全に演歌なのにも関わらず、メロディーはポップスなのである。

 この事を感じさせるエピソードがある。
 別の会社に行った私の先輩の上司が、二次会のカラオケで若手がアン・ルイスで盛り上がるのをうらやましがり、「俺にもドンチューノーって言え!」と宣ったのだ。
 とっさにその先輩は「『浪花節だよ人生は』歌って下さい、入れますから」と発言。

 そしてイントロで入れた後、

飲めと言われて素直に飲んだ
(ドンチューノー!)
肩を抱かれてその気になった
(ドンチューノー!)

 メロディーまで演歌だとこれは不可能な事なのである。

 そもそも演歌って何だ?

 ブルースの女王、淡谷のり子は「歌はこころ」と言うのと同時に、演歌が嫌いで、「着ては貰えぬセーターを寒さこらえてなぜ編むの」とも言った。
 淡谷さんは多分「なんかちょっと暗い歌は演歌と呼ぶ風潮」を怖がったんじゃなかろうかと、私は勝手に思っている。
 歌詞が怖いから嫌がったんじゃないかって言った人がいたが、中島みゆきの「ファイト!」あたりもかなり怖いぜ。

 私自身は「演歌」という言葉は、大川栄策や小林幸子が出てきた時に初めて聞いたものだ。

 森昌子「せんせい」、野口五郎「私鉄沿線」、狩人「あずさ2号」、このあたりは出た頃は全く演歌じゃないという認識だった。

 その後「演歌」と呼ばれるものの原型は、殿様キングス「なみだの操」やぴんからトリオ「女のみち」だったのだろう。
 ただ、どちらのグループもコミックソングやお笑いの世界から入った人達である。
 今聴くとセクハラやDVを(意図は無いのだろうが)感じさせる歌詞だが、これって「よくある、女が苦労する歌謡曲のパロディ」だったのかもしれない。

 また、「演歌歌手」とされる人の曲が「演歌」とは限らない。森進一の代表曲の一つ「襟裳岬」はフォークソングだ。演歌の大御所と呼ばれる北島三郎の「函館の女」だって、実は演歌かどうか怪しい。
 紅白歌合戦によく出ていた水前寺清子の「三百六十五歩のマーチ」や「ありがとうの歌」も演歌っぽい感じはしない。

 春日八郎の大ヒット曲「お富さん」はどこのジャンルに入れて良いのか分からない曲である。リバイバルのタイミングで聴いたが、言葉の意味は全く分からないが、すげえ楽しそうに感じた。

 その辺まで演歌に含めてしまうと、アニメ主題歌も結構演歌っぽいという事になる。

 演歌は、多分その「様式」が若者に嫌われたんじゃないかと思う。ただ、そこに「演歌の代わりに聴かれた曲」というのもあるとも思う。

 先に書いた中島みゆきの「ファイト!」もそうだろうし、五輪真弓の「恋人よ」も、あと「大阪で生まれた女」もそんな感じがする。

 浜田省吾の「MONEY」では親代わりに育ててくれた兄は町を捨て、彼女は金持ちに取られた男が、人気の高級車に乗り、高層住宅に住み、高級な酒をスパイ映画さながらの状況で飲むバブリーな夢を見る様子が描かれる。
 今からすれば時代を感じるが、この当時、この曲の様式が若者のある層に受け入れられたのだ。演歌よりも。


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