①宗教改革×イノベーション②免罪符×生命保険③マルティン・ルター×キリスト教の3本建て。
こんばんは。
家族3人、生活保護でオマンマを食わせてもらっているナマポニーです。
前回は、キルケゴールの「キリスト教の修練」に関する記事を読んで頂き、ありがとうございました。
さて、今回はマルティン・ルターの宗教改革に関する3つの文書である
・キリスト教界の改善について
・教会のバビロン捕囚について
・キリスト者の自由について
通称、「宗教改革三大文書」を読んでみて得られた気づきや、学びについてシェアさせていただきます。
-概要-
さて、早速マルティン・ルターについてご紹介しましょう。
私たちが学生の頃、「1520年、ルターの宗教改革!」と歴史の授業で、覚えたこともあるかと思います。
そんな、学校で取り上げられるほど重要な事柄である「宗教改革」ですが、いったいどんなものだったのでしょうか。
それは、
聖書に基づく、キリスト教の改善
です。
ん?そもそもキリスト教って聖書がもとになってんじゃねえの?と思われるかもしれませんが、実はそうではなかったという点を、ルターが指摘しています。
プロフィール:マルティン・ルター
ルターは1483年に生まれで、もともとは官僚になろうと、大学で法律を勉強していました。
しかし、のちに宗教的回心を経験したことで、修道士となり、その後司祭となりました。
そして、1512年にヴィッテンベルク大学の聖書の教授となったのです。
さて、ここでルターが活躍した16世紀、今から500年前の時代背景について想像してみましょう。
中世ヨーロッパでは、下水の設備も整っておらず、窓から糞尿をぶん投げていたそうです。
また、医療に関しても、間違いなく現在の発展途上国以上にひどかったに違いありません。
実際に、当時のイングランドでは平均寿命が24歳ほどであったと言います。つまり、一度病気にかかれば、結構な割合で死んでしまいました。
そんな、死と隣り合わせの時代に、人々の間でもっぱら話のタネになっていたのが「死後の世界について」です。
それは、キリスト教でいうところの死後の世界であり、「天国に行けるのか?地獄に行くのか?」という話に必然的になるでしょう。
そして、天国行か地獄行かを運命づけるものが、教会との関係性でありました。
そんな時、キリスト教界のトップの座に君臨していたのが、ジョヴァンニ・デ・メディチ、ローマ教皇であるレオ10世です。
メディチ家は、ルネサンス期のフィレンツェで銀行家・政治家として台頭し、フィレンツェの実質的な支配者でした。
また、後にトスカーナ大公国の君主となった一族です。
要は、どえらいビジネスマンであり、金持ちってことですね。
そんなローマ教皇レオ10世が、「サンピエトロ寺院の修復の為」という名目で売り出したのが、贖宥状(免罪符)なのです。
さあ、もう、すでにここから金の匂いがプンプンしてきましたね。
7つの悔い改めのサクラメントについて
では、贖宥状について説明する前に、悔い改めのサクラメント(秘跡)についてお話させてください。
サクラメント(秘跡)とは、ようは「人々を安心させるための制度」です。
聖書は、
・噓をつくな
・人を殺すな
・父と母を敬え
・姦淫するな
という教えが書かれていますが、そんな具体的なことだけでなくて、単純に
神を敬い、人に仕えよ
と書かれています。
しかし、悲しいかな...
そんな当たり前なことすら満足にできないのが、我々ニンゲンです。
また、キリスト教には「洗礼」という、キリスト教信者となるための儀式があります。
ですが、もちろんキリスト教信者といっても、ただの人間です。
なので、信者となった後も、どんどんどんどんどんどん罪を犯してしまいます。
そんな、洗礼を受けた後に犯した罪に対して赦しを与える行為が、「悔い改めのサクラメント(秘跡)」なのです。
具体的には、
・堅信(按手と聖香油で、聖霊とその贈物を受けさせ、完全なキリスト教信者とする)
・洗礼(水の中にドボン)
・ゆるし(告解することによる、神との和解)
・聖体(パンとぶどう酒、食う)
・叙階(助祭・司祭・司教などの聖職位を授けること)
・結婚(結婚式での、神への誓約)
・病者の塗油(臨終の床にある病人へのゆるし)
以上、7つのサクラメントというものがあるのですが、贖宥状(免罪符)に関するものが、「ゆるし」になります。
ゆるしを順序付けて説明すると、
1.自らの犯した罪を司祭の前で告白する。
2.司祭は告白された罪に対して、「私はあなたの罪を赦す」と宣言する。
3.それだけではなく、犯した罪を赦すための代価が要求され、それを実行し償わなけれなければならない。
例えば、映画のワンシーンで、悪者のマフィアのボスが涙ながらに人を殺した罪を司祭に告白し、「あなたの罪は許されます~」という場面をよく見るのではないでしょうか?(ゴッドファーザー)
それは、ここでいうところの1、2になります。
ですが、実際はゆるしのプロセスとしてあまり知られていない、3つ目の「代価の要求と実行」という行為も行わなければなりません。
これは、罪を犯したことに対する罰であり、司祭は神に代わって適切な罰を信者に科すのです。
罰とは、具体的には、徹夜で神の前に悔い改めの祈りをする、断食する、定められた時間に教会を訪ねて祈るなど、ケースバイケースで決められます。
こうして人々は、罰を受けることでその罪を償いました。
また、人々にとってゆるしとは、かなり分かりやすくウケが良かった天国行きの条件であったのです。
贖宥状(免罪符)のシステムの発動!
そんな「ゆるし」ですが、教会では年に一度で良いと教えられていました。
ですが、人々は「いや、年に一度のゆるしを行ってもらう前に俺が死んじまったら天国にいけねえじゃねえか!?どうしたらえのお?!もっと赦してえ!」という不安に駆られたのです。
そこで、教会はゆるしのシステムをアップデートします。
それが、
聖職者による償いの代行
です。
これは、司祭や修道士が上記3番目の、罪の償いの代行を意味します。
つまり、本来ならば信者が自分で行うはずであった、罪を償うために徹夜で祈ったり断食したりするという行為を、「聖職者が信者ために代行する」ということです。
そして、この聖職者による罪の代行が行われたことの証明書が「贖宥状(免罪符)」だったのです。
最初は、聖職者も心から信者の為を思って、罪の償いを行いました。
ですが、贖宥状に人が群がっていたのを横目に見ていたローマ教皇レオ10世は、「なんか贖宥状って大人気だなあ…ん?これってめちゃめちゃ金になるんじゃね!?」と、贖宥状の曖昧なシステムの穴を突き、罪そのものではなく、「罪を償うための罰を代行してもらえる権利」を販売する事にしたのです。
要は、「自分が犯した罪を代わりに償ってくれたチケット」と言えるでしょう。
そして、人々は贖宥状と言う名の「安心」をこぞって買い漁ることになったのです。
贖宥状(免罪符)は生命保険!?
私がこの贖宥状について読んでいて、気付いたことがあります。
それは、
不安を煽るというのは、金になる
ということです。
贖宥状は、サンピエトロ寺院の修繕のためという名目でしたが、結果的にこんな壮大で権威の塊のような建造物を維持することができています。
さて、一方の現代ですが、この不安を煽って巨大な建造物をオッ建てているビジネス、と聞いて何かピンときませんか?
ズバリ、生命保険の会社ですね。
写真を見てもらえば一目瞭然です。
要は、不安を煽るビジネスは、形を変えて現在でもガンガン転用されている、ということに違いありません。
また、宗教の場合は「天国に行けないよ」と脅すのですが、生命保険の場合は「死んだあと、残った家族のこと考えてみ??」と脅すという手法になります。
贖宥状の場合は、神の名を利用して自らの私腹を肥やすという、かなりあくどい商売ですが、生命保険は、家族という人質をとっているので、これもカナリのあくどさですね。
う~ん...
ちなみに、ルターは贖宥状について
愛は愛の行いによって増し加えられ、人はよい者となる。しかし、贖宥によっては、人はよい者とならず、むしろ罰から〔無責任な仕方で〕解放されてしまうだけである
と批判しています。
要は、「金を払ったからと言って安心するのは、無責任だ」と述べているわけですね。
生命保険の場合は、生命保険会社が確実に儲かるよう設計されています。
ですが、実際には例え自分が亡くなった後でも、公的な遺族年金や生活保護といった福祉があるのです。
ですが、悲しいことに人は不安を煽られることに弱く、結局、生命保険に加入してしまうんですよね。
実際に、私の知人のリアルガチ貧困層の吉田という者がいるのですが、家族もおらず、毎月お金がカツカツであるにも関わらず、せっせと生命保険の費用を支払っています。
そして、私が「そんなもん意味ないから解約した方がいい」と言っても、生命保険が必要だと妄信しているので、未だに生命保険会社に貢いでいる始末です。
やはり、知性というものが必要だなあ、と感じさせられる昨今でありますし、今後は、不安を煽るような情報に触れた時は、引き込まれないように注意しなければなりません。
宗教改革:ルター×活版印刷技術のイノベーション
さて、このようにあからさまに金儲けに走っていたローマ教皇でしたが、なぜルターだけが歴史の教科書に載るほど注目されているのでしょうか?
それは、
グーテンベルクの印刷技術の改良という「情報革命」
によるものが大きいのです。
それまでは、印刷技術が乏しく、聖書は高価であり誰でも読めるものではありませんでした。
なんなら、聖書を一度も読んだことがないキリスト教徒もいたくらいです。
実際に、ルター以前にもローマの教会に対する批判は行われていましたが、それが知識人や大衆に届くことはありませんでした。
しかし、ルターはグーテンベルクの印刷技術の改良、つまり「情報革命というイノベーション」の波に乗って、宗教改革へと至らしめたのです。
ちなみに、当年のドイツの全出版物が約200冊であり、そのうち133冊がルターの著作であったということから、彼の出版業界への貢献度が伺えます。
また、ルターによる宗教改革が行われた理由はこれだけではありません。
それは、
ルターによる聖書のドイツ語訳
です。
もともと、聖書はヘブライ語とギリシア語で書かれていましたが、当時、ルターが読んでいた聖書はラテン語で書かれ、ミサなどの儀式も全てラテン語で行われていました。
しかし、ルターは知識人しか読めなかった聖書を、一般人も聖書を読めるようにドイツ語に翻訳したのです。
これまで、聖書を読みその内容を解釈するのは司祭の仕事であり、また、決定するのは教皇ただ一人だったのです。
しかし、ルターのドイツ語翻訳と印刷技術の改良によって、キリスト教徒各人が聖書を読み、解釈することが可能となりました。
また、当時、神学者と呼ばれる人は聖書に重点を置かず、「神学命題集」という聖書の解釈や注釈が書かれた神学の教科書を聖書より重視する者もあったのです。
なぜなら、神学の学生が講師になる試験では、神学命題集からその問題が出されていたからです。
そのため、ルターは
多くの人が教父の書物(神学命題集)で止まってしまっていて、なかなか聖書そのものへと進み行かないのです。これでは標識ばかり確認していて、なかなか道を歩き出さない人のようなものです。
と述べています。
そんな、聖書をないがしろにしていた当時の神学者や学生、キリスト教徒、ローマ教皇に対して、ルターは聖書に立ち返るようにと訴えたのです。
ローマ教皇の情報商材集まとめ
さて、ルターは教会法という「ローマ教皇の独断と偏見による、キリストに対する解釈とルール」を痛烈に批判してきました。
そして、「キリスト教は聖書によるものでなければならないし、聖書の解釈を捻じ曲げてはならない!!」と説いたのです。
ここでは、ローマ教皇がいったいどんな教会法(独自のルール)を作ったのかを、簡単にご紹介していきます。
〇空位聖職禄管理、修道院維持命令
空位になった聖職禄(ポスト)を、実際の業務を行うことなしに、第三者に委ね、そこから得られる利益を得ること。
例えば、教会のあるポストが空いた場合、修道士を装った商売人にそのポストに与え、教会内で聖画や聖像を巡礼者に売りつけ、その利益の何割かを教皇が徴収していました。
〇バター食用許可証
謝肉祭から復活祭の間にバターやチーズなど乳製品の禁止品を購入できる証明書
〇ミサ証明書、懺悔証明書
集団でミサに参加した場合、一緒に出られなかった仲間を想起しつつ懺悔した場合、出席していない仲間にも、その効力を与えることができる証明書。
〇小勅書
贖宥のための罰の中で比較的軽いものについては免除する証明書。
〇兄弟団
中世の諸都市に誕生した信徒集団。加盟する事で、救済上の特権が与えられる。現世利益も与えられると考えた。
以上になります。
そもそも、なんでバター買うのに教皇のゆるしが必要なのか?金を払えば罪を免除できるのか?キリスト教に現世利益ってそもそもおかしくないか?と、ツッコミどころ満載だったのではないでしょうか。
さすがメディチ家出身のローマ教皇ということで、商才が際立っていますね。
そして、ルターは、このようなビジネス化したローマ主義者に対して、以下のように述べています。
ローマ主義者たちは、私たちを教会法で拘束し、自由を奪い、私たちがそれらを改めてお金で買い戻さなければならないようにしている
また、今日のローマ主義者たちは、福音と祈りを蔑ろにして、むしろ食卓の事柄に関わりたがり、この世の財貨に仕えることばかりしています。
実際に、
「あなたがたは地上に富を積んではならない。そこでは、虫が食ったり、さび付いたりするし、また、盗人が忍び込んで盗み出したりする。 富は、天に積みなさい。
「だれも、二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない。」
マタイによる福音書 6:24
と、お金と信仰というものが両立することは不可能だと、はっきり聖書にも書かれています。
しかし、哀しいかな…
ローマ主義者を筆頭に、我々人間は意地でもお金を手放したくありませんし、その事実を受け入れたくありません。
ですので、聖書を湾曲して自分の都合のいいように解釈し、さも「自分の欲望のためではありません。聖書がこう言っているのだから、私は金持ちになる資格があるのです!」とほざく輩がいるのも事実ですし、今でもそれは変わりませんね。
これは、キリストの権威を、「他人を救いに導くため」ではなく「自分の利益のため」に使っていることに他なりません。
私たちは、このような偽の聖職者やキリスト教徒を見過ごしてよいのでしょうか?
その点について、ルターはこのように述べています。
私たちが彼らのこのような傲慢さを見て見ぬふりをすることで、当然のことながら私たち自身も神の怒りを受けます。教皇がこのような愚かな行為をし続けているというだけで、もう十分です。しかし、私たちがそれを容認しているのは、もっと愚かなことなのです。
では、私たちがすべきことは何でしょうか?
まずは、自分自身のキリストに対するこれまでの非や誤りについて、認めることから始めなければなりません。
私は、キリスト教徒になってから7年ほど経ちますが、キリスト教徒と称する者たちの話を聞いて、どこかに違和感を感じながらも、それを明確に示すための叡智もなく、ただのキリスト教を語るサルでした。
なぜなら、聖書を読んでいるようで読んでいなかったのであり、ただページをめくっていただけで理解した気になっていただけだからです。
ですので、偽のキリスト教徒を批判する前に、自らの不誠実を悔い改め、謙虚になって、卑しい者であるという態度を身に付けることが先決なのだと、深く反省しています。
-歴史的背景まとめ-
さて、ローマ教皇レオ10世のとんでも金儲け術についてご覧いただきましたが、ここからは、ローマ主義者に対するルターの批判内容について見ていきましょう。
まずは、その歴史的背景について説明します。
当時、神聖ローマ帝国という現在のドイツ、フランス、北イタリアに領土を拡げたカール大帝は、ローマ皇帝として君臨していました。
また、神聖ローマ帝国は、7人の選帝侯から選挙王制としての形式をとり、皇帝予定者であるドイツ人の王を「ローマ王」として選出していたのです。
これは、ゲームオブスローンズのラニスター家、スターク家、ターガエリエン家etc...といった有力な各地の王から、代表として七王国の王が選出されるという話と似ています。
そのローマ王が選出される際には、ローマ教皇によって戴冠されるという伝統が確立されていました。
これは、日本でいうところの「天皇が征夷大将軍を任命する」ようなものです。
しかし、実際にはローマ皇帝の権力はかなり制限されており、各地の選帝侯が裁判権や貨幣鋳造権などの自治権が与えられていたので、ローマ皇帝の支配力は実質的に中欧ドイツのみに縮小されていました。
そんな、帝国としての機能が弱体化していた神聖ローマ帝国は、王朝の正当性を保持するために、ローマ教皇の顔色をいつもうかがわければなりませんでした。
つまり、実質的にはローマ教皇が神聖ローマ帝国の宗教的、政治的な絶大的権力を持っていたのです。
そんなわけで、ドイツ国内でローマ教皇の手下として働いている司祭や司教、修道士たちに反感をもつことは当然のことでした。
そして、そのような時に現れたのが、マルティン・ルターなのです。
以上が、歴史的背景になります。
ルターのローマ主義者に対するディスり。
このように、ルターはローマ教皇が、宗教的、政治的権力となってしまったことを悲しんでいました。
そもそも、ローマ教皇の存在意義として、
教皇は高く上げられたキリストの代理人なのではなく、十字架につけられたキリストの代理人である
とルターは述べています。
聖書には、イエス・キリストは十字架にかけられ、私たちの罪のために死なれましたが、復活し約40日後に天に昇られた、と書かれています。
そのため、現状としてキリストは地上にいない事になります。
つまり、私達を引き上げてくれるものとして、今、キリストは天に存在しているのです。
ですので、ローマ教皇は、キリストが行ったように地上で最も卑い者として人々を支え、後ろから押し上げるものとしてその役割を全うすべきなのだ、とルターは述べています。
悲しい事に、ローマ教皇は卑いものとして押し上げるのではなく、自らが天にいるキリスト、つまり、高き者としてその権威を利用しているのが実情なのではないでしょうか。
ただし、キリストこそ「この世の権威」というものを最も憎んでいたにもかかわらずです。
また、それはローマ教皇だけの責任ではなく、ローマ教皇を偶像にしてしまった「ローマ主義者たち」の責任でもあります。
ルターは、ローマ教皇の取り巻き連中であるローマ主義者に対して、
教皇の取り巻き連中は〔『ルカによる福音書』一〇・一六にある〕「あなたに聞く者は、私に聞くのである」というキリストの言葉を曲解し、故意に誤解して、そのような不信仰な横暴を手助けしようとしています。
これは、まさにイエスの時代の群衆である賞賛者と全く同じです。
イエスは、自らのことをユダヤの王と名乗りました。
それを聞き、イエスの奇跡を目の当たりにした群衆は、イエスに従って賞賛し、そのおこぼれを頂戴しようと祭り上げました。
しかし、イエスの真意は、王様として君臨するというちっぽけなものではなく、そんな淡い期待を抱いていた群衆を、神との約束を果たすために自らの意思で失望させたのです。
さて、一方のローマ教皇はいかがでしょうか?
先日、日本にもローマ教皇は来られました。
その時の映像がこちらになります。
もう、日本の神である天皇ばりに、群衆に祭り上げられています。
このようなローマ教皇の姿に対し、
実に不遜な行為だと思われるのは、教皇がラバに乗ること、あるいは馬車に乗ることに満足できずに、自らは健康であるにもかかわらず、まるで偶像そのもののように、華やかな姿で自らを人間に運ばせることです。
と、ルターは揶揄しています。
結果的に、ローマ主義者たちは教皇を偶像にして、神を教皇ほどには恐れなくなり、神の名を崇めなくってしまいました。
そして、ローマ主義者である聖職者は、「司祭の叙階」というサクラメントを作り上げ、自ら聖別されるために、油を注がれ、剃髪し、式服をまとうことに権威を見出したのです。
それによって、聖職者は
牧者ではなくオオカミになった
とルターは嘆いており、『ペトロの手紙二』第二章〔第一節以下〕でも、次のように述べています。
「貪欲のために甘い言葉であなたがたを欺き、利益を貪るために偽教師が現れるだろう」。
と、人々に警告しているのです。
最終的に、ルターは教皇庁から破門脅迫の大教勅を受け破門となり、帝国追放の命を受けました。
ただし、ルターはこのような結果になることを覚悟していたに違いなく、自分がクソまみれになっても戦うという意思を以下のように表しています。
私がもし糞尿と戦うなら、勝っても負けても私は結局汚れてしまう、ということはよく分かっている。
ルターがやりたかったこと-キリスト者として生きるには?-
では、ルターが真に行いたかったことは何でしょうか?
それは、シンプルに
聖書に立ち返り、キリスト教を改善すること
です。
初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。 万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。 言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。
ヨハネによる福音書 1:1-5
と聖書にも書かれていますが、ルターは以下のように要約しています。
神の言葉がすべてに先立っているのです。そのことに信仰が続き、愛が続き、そして愛があらゆるよき業を生み出すのです。
この言葉こそ、キリスト教を端的に言い表す最適なものではないでしょうか。
つまり、
「救いの始まり = 信仰 = 約束された神の言葉への信仰」
なのです。
また、私たちは、「行動」を重視する事がよくあります。
例えば、
・ああ、今日もまた何もできなかった...
・人の役に立ちたいけど、スキルも何もねえし、ホント自分クズだ...
と苦悩することが、人生でも多々あるのではないでしょうか。
しかし、ルターは言います。
キリスト者が義とされるには、信仰のみで十分なのである。どんな行いも必要ではない。キリスト者は、どんな行いも必要としないことで、あらゆる戒めや律法から解放され、それゆえ自由なのである。
ここでいう「義」とは、神との関係の正しさのことです。
よって、真のキリスト教徒とは、どんな行動も必要とせず、ただ神の言葉を信じることのみが必要であると説いています。
正直、信じるだけで救われるって、そんな棚からぼた餅みたいなことあっていいのかよ...と疑りかかってしまうかもしれません。
しかし、神様は、「金を払えば救ってあげるよ、フォローしてリツイートすれば救ってあげるよ」といったケチなまがい物ではないのです。
逆に、そんなものであったなら、まず間違いなく偽物であると言わざる負えないでしょう。
ただし、信じるという事は簡単な事ではありませんよね。
そんな私も、キリスト教徒として7年間生きてきましたが、夫婦喧嘩の度に「もうキリスト教なんて信じねえ!アホくせえ。もうおしまい!」と捨て去ろうとしたことが多々あります。
それは、私が、当時キリストを裏切った使徒だったり、キリストから離れ去った群衆だったりと全く同じ、信仰が薄いものであるからです。
そんな私が、仕事で働けど働けど満たされず、家庭もうまくいってはいなかったのは当然です。
なぜなら、私は「豊かさというものが金である」と信じていたからに他なりません。
しかし、ルターは豊かさついてこう述べています。
キリストへの信仰によって、聖霊を通して与えられる愛が人間の魂を広げ、豊かにされる。
つまり、金をかき集めることが豊かさなのではなく、キリストへの信仰こそが豊かさなのです。
実際に、私は生活保護を受給しており、日本の中でも最底辺、最低限度の生活をしています。
しかし、生活保護で時間が与えられ、聖書やマルティン・ルター、キルケゴールといった本を読み、キリストに対する理解を根底から覆され、信仰の大切さと豊かさを感じることができるようになりました。
要は、金への信仰を捨て、キリストへの信仰を選んだことの結果であると言えるかもしれません。
また、キリスト教で大切な概念である「隣人愛」について、
信仰から神への愛と喜びが生まれ出る。そして、この愛から、報いを求めずに隣人に奉仕する自由な、自発的な、喜びの生活が生まれ出る。
とルターは述べています。
私たちは、他人に対してできるようなことは何もなく(何かできると勘違いしている者もいるが)、自分の無価値ぶりや役立たずぶりに、日々絶望しているのではないでしょうか。
しかし、そんな私に何の代価も求めず、純粋な憐みによって、キリストを通して救いと豊かさで満たしてくださったのです。
つまり、必要な物以上を私たちにタダで与えて下さったからこそ、隣人に対して見返りを求めることなしに奉仕する事は、至って自然な事になります。
ルターは、キリスト者と隣人愛について簡潔に、
キリスト者はキリストにおいて信仰に生きる。また、キリスト者は隣人において愛に生きる。
と、締めくくりました。
まとめ
ルターが登場する以前は、聖書を読み、その内容を解釈するのは司祭の仕事であり、正しい読み方を決定するのは教皇ひとりだけでした。
しかし、私達各自が、司祭のように聖書を読み解釈してもよい、とルターは主張したのです。
なぜなら、キリスト者として司祭や司教、教皇に身分的な違いはなく、それぞれ違った「職務」を神から与えられているだけであり、私たちは誰でも「洗礼によって祭司として聖別されている」と説きました。
聖書には、
わたしたちも数は多いが、キリストに結ばれて一つの体を形づくっており、各自は互いに部分なのです。
ローマの信徒への手紙 12:5
と、書いている通りです。
だからこそ、ただ牧師や聖職者のいう事だけをうんうん頷きながら、右から左に聞き流すだけではなく、聖書をしっかりと読み信仰を厚くしなければならないと、私は深く反省しました。
また、私たちの社会では、金やモノといった物質や欲望にまみれた人々が、私たちの動物性を刺激し、欺きます。
さらに厄介な事に、キリストを名乗る者たちがあの手この手、手を変え品を変え、私たちを欺くのです。
それを防ぐためにも、ただ聖書のみによって信仰し、叡智を与えられなければなりません。
最後になりますが、本当に、辛いことが多いこの世の中ですが、この瞬間を共に過ごし、生きていることに感謝し、祈ります。
以上、今回も最後までお読みいただきありがとうございました。
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