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落とし穴(第1話)
あらすじ
昨日、姉が自殺した。
いつも家の中で明るく振舞っていた姉。彼女の心の奥ではどのような闇が広がっていたのか。
姉は一通の遺書を残していた。そこに書かれていたこととは……。
昨日、姉が自殺した。
その日、私は起きると、小学三年生の時から私の仕事になっている新聞取りに外に出た。二月の初旬の朝は、まだ色濃く冬の匂いを残していた。
確実に冬は遠ざかっているのだけれど、まだまだ春も遠い。私はパジャマの上にちゃんちゃんこを羽織って、おきたばかりの眼を擦りながらタンタンと階段を下りた。
「今日は、明子も慶子も起きるのが遅いな」
居間では父が朝食を食べていた。私は、父のその言葉に、壁に掛かっている時計を仰ぎ見た。時計の細い針は、七時二十分を指している。
「慶子ならいいんですけど、明子は寝坊したら遅刻するんですけどね。起こしてきましょうかしら」
母が台所から、父のためにお茶を入れて、居間のテーブルに置く。
「おい、慶子、そんな所につったっていないで、新聞を取ってきてくれ」
「私が寝坊した時くらい、お父さんが取ってきてくれてもいいのに」
「何言っているんだ。新聞取りはお前の仕事だろ」
父はお茶を啜り、テレビの方を見ながら言った。私の顔は絶対に見ない。
「おい、早くしてくれよ」
私は父のその言葉に押し出されるようにして玄関に向かって、足にサンダルを引っ掛けた。
そんな何でもないいつもの朝だった。ただ、強いて変わった事と言えば、いつもは私よりも早く起きていて、「おはよう」と声をかけてくれた姉が居間にはいなかった事だけだった。それでも私は、今日は姉が起きてくるのが遅いな、と一瞬思っただけで、その思いはすぐにどこかへ消えてしまったのだ。
玄関のドアを少し開けた。
ドアを開けた途端、冬の朝独特の皮膚を切られるような寒さと、それでいて清純な空気が玄関の中に流れ込んでくる。私は顔をしかめて、急いで両手をパジャマのズボンのポケットに非難させた。そして、嫌がる体を無理やりドアの外に押し出す。
顔はうつむかせたまま、何気なく視線を上に上げた。毎朝見ている光景のはずだった。だけど、その日の朝はいつもの朝と何かが違っているような気がした。でも始めは、それが何なのか分からなかった。視界の左の方から一つずつ確認をしていく。私の家の赤い軽自動車。三、四年前から家にある車だけれど、最近私はその後部座席に乗っていない。私の家の白い物置。時々降る雨しか洗ってくれないから、ホコリで黒く汚れている。この家に私たちが引っ越してきた時から黙って建っている。確かこの中には、父のゴルフセットやら、私が小学生の頃に姉と一緒に遊んだバスケットボールやらが詰め込まれているはずだった。だけど最近は、姉と一緒に遊ぶなどということもいつの間にか無くなっていた。
私の視界の右端に、黒い影が見えた。だけど、寝起きの眼はうまく働いてくれなくてぼやけたままだった。確かそこには、枝を縦横無尽に広がらせた八重桜が植えられていたはずだけど。私はそう思いながら焦点をゆっくりと八重桜に合わせていく。
黒い影は人間の影だとすぐに分かった。
私に「ごめんなさい」と謝っているかのように頭は垂れている。肩まである髪がカーテンとなって隠していて顔はよく見えない。体の方は、黒い服を着ていた。黒いセーラー服だった。そしてそれは、私と姉の通う中学校の制服だった。
「お姉ちゃん?」
魔法使いが魔法で空中に浮かんでいるように、姉はゆらゆら浮かんでいた。
私にとって、何よりもそれが不思議だった。
「お姉ちゃんどうしたの? 何か言ってよ」
姉は何も言わなかった。ただ、時々吹く冷たい風に、体を揺するだけだった。
そのような姉に私はいつまでも呼び掛けていた。そうしていると、姉が頭をムックリと持ち上げて「慶ちゃん」と私に言葉をかけてくれると思ったし、逆に今それを止めてしまうと、姉は永遠に口を開いてくれないのだと思った。今がその大切な境目なのだと思った。
「お姉ちゃん!」
私の声は徐々に大きくなっていって、もうほとんど絶叫しているようになった。
「慶子。朝からうるさいな。どうしたんだ」
玄関から父が顔を出した。
私は姉の頭から眼を離して、父を振り返る。父は不機嫌そうな顔をして私の顔を見ている。まだ姉の姿には気付いていなかった。
「お姉ちゃんが……」
「明子がどうした」
「お姉ちゃんが」
私は眼を八重桜の方に戻して、右手の人差し指で姉を指した。その指はどうしようもないくらい震えていた。父もそれに誘われるように視線を動かしたようだった。
「お姉ちゃんが、空中にぶら下がってるよ」
「あっ」
私の頭のすぐ後ろで、息を飲む音がはっきりと聞こえてきた。
私は、こんな時にどのような表情を作ればいいのか分からなかった。だから、自然に顔が無表情になっていくのを感じた。こんな時、父はどのような表情をしているんだろう。私は、恐る恐る後ろを振り返った。
父は、姉の姿を眼が飛び出していきそうなほど凝視しながら、泣きだしそうな、それでいて笑っているような、不思議な顔をしていた。
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