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困窮層DE京大出身の僕の今昔物語 まざりあうジェンガ 彼女の1ピース「異人、変人、イギリス人」
つーっと目の横から何かかすったあたりから、頬に生暖かいものが垂れた。
見上げれば、意地の悪い顔をした同い年から2、3歳上の少年達が私に向かって割れた茶色の瓶の破片をちょうど命中させていたところだった。
「●▽※◇■~~!」
何を言っているか分からないけれど、思いっきり故意で怪我をさせられたことくらいは分かる。
「こぉらぁぁぁぁぁぁぁぁ~そこのアホ美形まてぇぇぇぇぇぇぇ」
最初は、びっくりはするし、痛いし、意味が分からないしでしくしく泣いていたが、泣いてようが叫ぼうが誰も声をかけてくれるわけもなく、何度も何度もこんなことが繰り返されると、さすがに7歳の頭でもはっきり分かる。
私は、日本人、もっと平たく言うとアジア人、黄色人種ということでこの地域の人たちに露骨に差別されていた。
悔しくて、仕返しをしてやろうと割れた瓶のカケラを右手に持って追いかけながら投げていると、毎度毎度タイミングが良いのか悪いのか、大人や彼らの兄姉が登場し、誰も私の怪我のことは華麗にスルーされた。
私は毎回、血を流しながらいつもいつも叱られていた。
言葉は分からなくても、怒鳴られていることは分かる。
むっきぃぃぃぃと、地団駄踏みまくっている私は、二週間くらい前にこのロンドンから車で4、50分かかる程度の街に両親と引っ越してきた。
転勤族ではない、父が「死ぬ前に、お父さんは本物の紳士になりたいから協力してくれ」とかなんとか言われて、適当に返事をした結果だった。
適当な返事の恐ろしさは、7歳当時の体にしっかり刻み込まれた。
小学校の入学式からたった数ヵ月で、ロンドンは物価も地価も高くてとうてい住めないね、ということで日本人どころかアジア人が両親と私だけというなんともコンパクトな街にやってきてしまった。
絵本に出てくるような真っ白なかわいい木の扉を開けると、母が変なボウルで酢飯を作っていた。
「お・か・え・り!マイスィートハッピードッタ!」
明るいを通りこした年がら年中舞い上がっている声かけに、真実を打ち明けることはできなかった。
「ただいま、お母さん」と言うと「聞いて~やっぱりしゃぶしゃぶ用の薄い肉売ってへんかったわぁ」と少々すねながら、やたらと大きくて太いネギのようなものを切ったいた。
家の中で、当然日本語で話す親子の会話、そう母も私も英語がぜーんぜん話せなかった。
正直、父の当時の英語力も怪しい、ずっとサンキューサンキューしか聞いたことがない。
あぁ…アホとかクソガキとか、どっかいけとかってこっちの言葉でなんて言うんやろ…。
おデブな英和辞書を両親がスーツケースに入れて持ってきていたが、残念ながらそんな言葉はのっていなかった。
両親が私に教えたのは、「アイアムジャパニーズ」で、終了。
これさえ言えればオッケーオッケーと、のんきに笑っていた両親を責めることはできない。
彼らの口から、こっちの人間に「ハロー、サンキュー」と変な娘への名前以外、話していることを2週間たった今でも聞いたことがない。
試しに「アホってなんて言うんかなぁ?」と聞いてみても、父は「そんな言葉ないやろぉ、はっはっは」で終わってしまう。
そんな父はこの街から更に車で30分程度走らせた、貴族と呼ばれる人たちのお屋敷で働いていた。
あんなにサンキューしか言えない父が何をしているのかと疑問だったけれど、その家の孫娘に日本語を教える家庭教師として雇われていた。
父の大学時のお世話になったとか言う教授に紹介してもらった職場らしいで、日本語と挨拶だけで乗りきれると自慢になるのか怪しい自慢していた。
仮にも大学を卒業しているのだから、ある程度の英語は分かるはずだろうと高卒の母は思っていたらしい。
ところが「そんな10年以上前のこと覚えてるかいな☆」と変な決めポーズでかわされてしまった。
それならせめて、そのお屋敷がある街に住めればよかったのにと、ブーブー文句を言ったら「日本人が住むことは反対されたから無理やなぁ」と豪快に父は笑った。
いやいやいや。
その時点でおかしいと思わないのだろうか。
両親は、白人と呼ばれる人たちが私たちを差別することを受け入れていた。
店に行って挨拶をしても嫌な顔をされるか、無視されようが、傷んだ野菜をわざわざ選んで渡されようが受け入れている。
おかしいと思う私が変なのだろうか。
優しくして欲しいなんて望まない、日本の家の向かいの近所のおばちゃんみたいにニコニコ「いってらっしゃい」とか「おかえり」とかを言って欲しいわけではない。
傷害事件に発展しそうな触れ合いをどうにかやめて欲しいだけなのだけど、それは難しいらしい。
「■△◎▼※▲~※※!」
また、変な言葉で叫びながら石を投げられる。
運動神経の悪い私の逃げる先を読まれているのか、逃げた先に先読みされて直径10センチくらいの大きな石が私の右腕にミラクルヒットした時、ビリビリと骨が響きあい、強烈な痛みでその場にしゃがみこんだ。
しかも変な方向に腕が曲がっている気がする。
ついでに石の尖った部分が、日本から持ってきた入学式で着せてもらった人生初の一張羅、ピンク地に白い桜のレースがついたジャケットを貫いて、皮膚とついでに肉もややえぐりとってどばっと血が出た。
「血は…血は苦手やねん」
そう泣きながら、くらりと倒れこんで目が覚めると、すっかり夕方も終わって立派な夜になっていた。
倒れた場所、まさかの一緒で思いっきり倒れたからおでこと頬も流血している。
しかも、なんとか起きれたのは雨があまりに冷たかったから。
つまりそのまま雨の中、放置されて今にいたっているらしい。
ふと、思い出す。
リーダー的な少年は、モナコ公国のアンドレア王子並みの美形だった。
おかしい、絵本の通りなら美形な人は、いい人なんじゃないの?
王子顔で暴力男って、そんなのアリ?顔と内面は関係ないことに当時の私が気づくはずもない。
初めて、彼の顔を見たときは子供の発想らしく、絵本から飛び出してきたと思っていた。
いやいやいや、美形じゃなくても普通、ここ大人の人呼ぶところでしょうよ?
ほとんど街灯もない道を、さらさらと降る雨に降られて帰宅した。
家に帰ると、先に帰っていた父に怒られ、母には怪我と服の心配はされたけれど「濡れてるからシャワー早く浴びといで」の一言で終わった。
一応、病院へ…という話になったが、あっちでは家に医者がくるのが一般的だったようで夜の10時くらいにおじいちゃんみたいな医者がやってきた。
腕の痛みから熱まで出てきた私は、眠いのか意識が朦朧としていた。
ぼーっとしていると、英和辞典とにらめっこしていた両親が「えぇぇええぇーーーーーっ!」と声をあげた。
医師の診察。
ーfractureー
意味。
ー骨折ー
私の右腕は、立派に骨折していた。
毒親と呼ばれる存在に悩んでいる人も、貧困に苦しんでいる人も、困窮を恐れる人も、犯罪者になってしまいそうで不安な人も、そんな人に興味がある人にも役立ってくれると嬉しいです。