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楽しむことに罪悪感があるらしい。

前回の続きである。おしゃれに限らず楽しむこと全般に罪悪感があることに気づき、その理由を少し考えてみた。

結論から言うと、時間とお金という限られたリソースを消費することが怖いのだ。勉強したり何かのセミナーに参加したり、というのはわかりやすく将来への投資だが、遊んだり好きなものを買ったりすることで手元に残るものはそれよりだいぶ曖昧だ。曖昧すぎて「こんなことをしている間にしなければならないことが他にあるのではないか?」「こんなことにお金を使えるほど自分には余裕があるのか?」とつい考えてしまうのだ。

やりかけのレポート。図書館で借りてきてそのままになっている本。何となく返信できていないLINE。申込〆切の迫ったインターンシップの案内。私の世界は、「やらなきゃいけないこと」「やった方がいいこと」であふれている。

就活。留学。旅行。資格試験。私の世界は、「いつか必要になるかもしれないこと」「いつかやりたくなるかもしれないこと」でもあふれていて、しかもそれらのいくつかには結構なお金がかかるので、思い立ってすぐ始められるものでもない。

たまにそれらに潰されて、ぐるぐるした考えはさらに1段階進む。

すなわち「こんなこともできないお前が何かを楽しむ資格なんてないんじゃないか?」になる。友人からの悩み相談に的外れな答えを返したときとか、頑張って勉強して、課題も全部出したのに大学の単位を落としたときとかは、まだ原因がはっきりしている。でも明確な理由もないのに、「あれもできてない」「この人を笑顔にできてない」「同い年のあの子がさらりとやってのける仕事が私にはできない」みたいに考え始めると止まらない。挙句の果てには、「小学校の頃にクラスで起きていたいじめを止めに入れなかった」とかまで思い出してしまう。もちろん今更いじけたところで過去は変えられないし、今となっては相手の連絡先も分からない。できるのは、例えば次に同じようなことがあったときに早く気づいて最善の行動が取れるような基盤を自分の内外につくっておくみたいなことで、何もせずうずくまることでは断じてない。

自分の責任だと思っている範囲が広すぎるのかもしれない。そりゃ私は昔から能力バランスが悪く、言い換えればいくつかの能力が平均を大きく上回り、別のところで大きく下回り、「頑張らなくてもできること」と「頑張ってもなかなかできないこと」の両方が周囲に比べて多かったので、「自分にしか出来ない役割」について考える機会も必然多かった。だからこそ「今の悪い状況は私のせいだ」なんて、傲慢にも考えてしまう。

そんな風にしてときどき、自己肯定感が底をつくことがある。そんなときは軽いお菓子を買うことすらできなくなる。米と味噌と野菜、卵と納豆と豆腐があれば結構QOLは上がる。コンビニ弁当より安上がりなのにこっちの方がQOLは高い気がする。

最近はそうでもなくなってきた。「他にやることがあるから楽しむ資格はない」と思っていたのが、「楽しいことがあると本来やるべきことのパフォーマンスも上がる」「楽しみのためだけにやっていたことで使う考え方が思いのほか本業にも生かせる」ことに気づいた。こうなるといじけている場合ではない。それに、元気なときでなくとも、落ち込んでいるときに一時的に逃げ込める場所があると、それでなんとか心を守ることができる。楽しみを避けていた頃は機械にでもなってしまったように、なんの感情も湧かないし周囲には冷たい人だと思われる、みたいなことがあった。ある程度自発的に楽しみを見つけていかないと、私は容易く人間味をなくす。

人と関わるときはなおさら、自分のやる気が上がるという以上に相手と話が合いやすくなることにも気づいた。「趣味はなんですか?」「休みの日は何してるんですか?」という質問にも、自分も相手もそれなりに盛り上がれそうな話題を選んで返すことができる。場合によっては共通点が見つかる。そうやって仲良くなった相手が自分を支えてくれることだってあるし、逆に自分も相手を助けられるようになるかもしれない。

ここまでつらつら書いてきたが「楽しみを何かの役に立たせよう」と無理に考えるとそれはそれで楽しくなくなるし、そもそも自分は「やるべきことをやるため」だけに生きているわけでもないので、まあもうちょっと好きなように生きてみたいなと思う。

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