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おしゃれに罪悪感がある。

一時期に比べればだいぶ和らいだものの、まだ純粋におしゃれを楽しむのは難しい。

化粧はスーツを着るときだけの必要最低限しか出来ず、コーディネートはどこかちぐはぐ。そもそも7年前からほとんど体格が変わっていないので服を買い換えるタイミングがわからず、気に入らないし古びているけど壊れてないから捨てられない服を未だに着ていたりする。明らかに1,2シーズンで着倒すことを前提としているであろうユニクロのカットソーが10年目に突入した時はさすがに捨てた方が良いだろうかなどと少し考えたが、まだ十分着られるし穴も空いていないのでインナーとして未だ現役である。

自分の容姿に自信がないからだろうか。否定はできない。客観的に見て整った容貌でないことは自覚している。でも自分の顔が嫌いなわけではない。意志の強そうな自分の目と眉が好きで、ふっと見入ってしまったりする。存外ナルシストなのかもしれない。それでも、自分をより魅力的に見せたいという努力をすることはどこか後ろめたく感じてしまう。

他の人がおしゃれしているのは純粋に素敵だな、と思う。もとがどんな外見でも自分をより魅力的に見せる方法を心得ていて、その姿勢が実際に魅力的な人は素直にかっこいい(もしくは綺麗、かわいい)な、ずっと見ていたいな、とすら思う。こいつ美人でもないくせに自意識過剰だな、とはつゆほども思わない。そもそも大学入学当初には化粧した女子たちの半分が同じ顔に見えていた私に人間の相対的美醜に関する繊細な審美眼は備わっていない。

なのに自分が着飾るとなれば、「こんな素敵な服、自分にはもったいない」だの「こんな髪飾りをつけて分不相応だと思われるのでは?」だの思ってしまう。実際に自分が他の人に対してそう思うことなどほとんどないにもかかわらず。全体的に顔立ちやスタイルの線が太く、かわいらしい飾りがあまり似合わないことも関係しているかもしれないが。

もうひとつ、人を怖がっているから、というのもある。自分の魅力を高めれば、好きな人、憧れの人(恋愛対象に限らず)の印象を良くする可能性はおそらく上がる。しかしそれは同時に嫌いな人、出来れば関わりたくない人を引き寄せる可能性も上がるということだ。そしてそういう人のほうが往々にしてしつこくて話が通じにくいというのもまた事実。こういう面倒くさい思考回路が原因なのかもしれないが、周囲の魅力的な人ほど上手くそのあたりをいなす自信がない。

「おしゃれは自分に時間を割いてくれる相手への礼儀だ」という意見を耳にする。「おしゃれは自己実現の手段だ」という人もいる。どちらにも一理ある。「外見なんぞ無視して中身で判断してくれ」と堂々と言えるほど立派な中身を持っているわけでもない。じゃあおしゃれすれば良いじゃないか。

なんかもっと根深い理由がありそうだぞ、と思ってもう少し考えてみたら、おしゃれだけでなく楽しいこと全般にほんのり罪悪感があることに気づいた。それはなぜだろうか。

1200字書いたので一旦ここで区切る。気が向いたら続きを書こう。

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