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#3 吃音コミュニティにおける峡谷 10. Coming together in collaboration: Elephants, canyons and umbrellas in the stammering community

こんにちは。
ものくろです。

今回は、前回「10. Coming together in collaboration: Elephants, canyons and umbrellas in the stammering community #2 盲人と象:吃音における社交不安」の続きからになります。

吃音コミュニティにおける峡谷

峡谷とは、2つの崖の間に存在する深い裂け目のことです。峡谷の片側から反対側へ渡ることは簡単なことではありません。峡谷のどちら側に立つかは、自分で決めなければならないのです。

ここで話題になっているのは、吃音児の流暢性治療が、吃音児にとって最良の選択であるかどうかということです。パトリックは、このテーマは先の「盲人と象」とは異なり、同じ問題を異なる視点から理解しようとしているのではなく、難しいテーマに対してどちらかの立場に立つ必要があるとしています。

医学モデルでは、障害者の持つ「deficit(障害があるせいで、あることが十分にできないが、障害がなければもっとできるはずだとした場合の、今障害によってできない分の不足という意味での障害だと解釈しています)」を治療しようとします。吃音の場合は、吃音のある人が流暢に話せるように訓練します。流暢性に基づいた治療プログラムが吃音児の「回復」率を向上させることが医学的研究によって示されています。「回復」率の正確な改善、吃音からの「回復」がどのようなものか、それを促進する最善の治療法については、まだ論争の余地がありますが、子供が若いうちに流暢さを重視した治療プログラムに参加すれば、自然に流暢に話せるようになることを裏付ける証拠となっています。このことから、医学的な見地からセラピストが取るべき立場はただ1つ、流暢性に基づいた治療を提唱することです。もし吃音児がより流暢に話せるようになれば、そのdisability(東大の熊谷晋一郎先生によると、当人の身体状況と社会環境との間に生じる齟齬という意味での障害)は軽減されるでしょう。もし吃音児が完全に流暢に話せるようになれば、そのdisabilityは完全に解消されます。この論理は説得力があり、医学的なdisabilityモデルが差異をめぐる支配的な物語として支持されている社会では、当たり前のことなのです。
アンは、未就学児の吃音治療については親の選択次第だとしています。親が早期吃音治療を望まないのであればそれも親の判断です。早期吃音治療の効果については議論されていますが、早期吃音治療によって吃音を取り除くことはできなくとも、どの子もかなり吃音を軽減させることができるように思う。それは良いことかもしれない、というのがアンの見解です。

社会モデルでは、disabilityによる負担を個人ではなく、不完全な社会に帰属させます。社会モデルでの吃音治療とは、吃音児に直接治療を行うのではなく、親や幼稚園、保育園、学校に啓発活動を行うなどによって吃音児が安心して話せる環境を作ることです。この場合、治療の目的は必ずしも流暢に話せるようになることではありません。しかし、社会モデルには微妙な問題があります。
それは、disability(東大の熊谷晋一郎先生によると、当人の身体状況と社会環境との間に生じる齟齬という意味での障害)とimpairment(東大の熊谷晋一郎先生によると、当人の持つ身体の特性という意味での障害)を区別していることです。社会モデルでは、必ずしも医学モデルでの治療を否定していません。吃音のある人の中には、吃るときの過緊張や随伴症状により話すだけで疲弊してしまったり、吃りながら話すことへの葛藤を抱えている人がいます。社会モデルでは、このような場合に吃音をimpairment(当人の持つ身体の特性という意味での障害)として捉え流暢性に基づいた治療を行うことで本人の負担を軽減させることがあります。したがって、社会モデルでも流暢性に基づいた治療で吃音のある人をサポートすることはでき、おそらく推奨もされますが、厄介なことがあります。それは、ある人のimpairmentを治療することが、他の人のdisabilityを悪化させることに繋がりかねないということです。吃音治療にもこのようなことが起きる可能性があります。幼児吃音で用いられるリッカム・プログラムでは、吃音児に対して繊細な介入や発言を行います。吃音児が流暢に話せたときは「流暢に話せたね」と声掛けを行い、流暢に話せなかったときは「もう一度やってみようか」と声掛けを行います。直接的ではありませんが、このような親からの言葉は吃音児に対して無意識に吃音は悪いものなのだ、吃る話し方を良くないのだと感じ取ってしまい、自分の話し方を異常なものだと認識することで自身のdisability(分かりやすく言うなら、自己スティグマ)を悪化させてしまう危険性があります。このような理由から、パトリックは社会モデルの視点は、現在使われている多くの流暢性に基づいた治療法とは相容れないものだと考えています。

パトリック「もし、吃音のある人のために本当に変化を望むのであれば、吃音のある人がただ吃り、社会が求める流暢さに従おうとしないことを覚悟しなければなりませんね。」

パトリックは、このような理由から流暢性に基づいた治療法に反対していますが、グラントは違います。

グラント「もし私に吃音になった子供がいたら、その子のために治療を受けるだろうか?個人的には「はい」と答えます。なぜなら、できるだけ早い時期に子どもたちに介入することで、流暢に話せるようになるというエビデンスを知っているからです...。なぜなら、多くの吃音のある人が歩んできた道のりは否定的で、自分の子どもが吃ることがないようにするために、治療を受けてもいいと思うからです。」

パトリックによれば、近年話題になりつつある新しいdisabilityモデルは、さらに極端になり、流暢性に基づいた治療法に対して敵対的ですらあるかのように映ります。政治的、またはそれに関連するモデルでは、吃音は人間の自然な多様性の一つに過ぎないと捉えられます。吃音のある人は単にユニークな話し方でコミュニケーションを取っているに過ぎず、吃音を取り除こうとすることは倫理に反するということになるだろう。
同様の視点は、自閉症におけるニューロダイバーシティ運動にも見られます。自閉症は、古典的には応用行動分析学(ABA)で治療されます。それは、通常の社会に適合することを難しくする「奇妙な」行動を取り除こうとするものです。これらの治療法では、適切なアイコンタクトを促し、自閉症のチックを取り除くために多大な努力が払われます。
しかし、ニューロダイバーシティ運動では、この行動訓練の妥当性を疑問視する声も上がってきました。自閉症に見られるチックや特徴的な行動は単に自閉症の美学の一部に過ぎないのだろうか?これらは自閉症の人たちがユニークな種族に属しているということを示す自然なサインに過ぎないのだろうか?同じような議論は、吃音児に対する流暢性に基づいた治療法にも当てはまります。吃音児の同意を得ずに吃音治療を行うことは、子どもの美学の基礎的な一部分、ユニークなアイデンティティを奪い取ることになるのだろうか。
もちろん、これらのモデルは不完全な試みであり、思想を体系的に捉えようとすることには無理があります。ここでの実生活での吃音に対する視点や意見において、個々のモデルにぴったりと当てはまる人などいません。
ここまでの議論はあくまで机上の空論、理論上での議論でしたが、現実の世界ではそうもいきません。自分と繋がりのある人たちには最善を望むのが人間です。自分の子どもがベストなスタートを切れるのなら、多少偽善的であっても構わないのではないでしょうか。

グラント 「パトリック、質問があるのですが、えーと、そう遠くない未来に、あなたとあなたのパートナーは子供を持つことになりますね。」

パトリック 「今のところかなり遠い話ですがね...」

グラント 「パトリック、あなたはハンサムな男性です.。あなたのお子さんが吃音になったとしましょう、でもあなたは人間を全体論的に捉えていますよね。お子さんが16歳になったとき、おそらくネガティブなスティグマや何らかの問題を経験し、「お父さん、どうして吃音を治してくれなかったの?」と聞かれたら、どのように答えますか?」

パトリック「私が言いたいのは、もし吃音のある人が吃音であることを誇りに思わなければ、吃音にまつわることは何も変わらないということです。だから、流暢性に基づく治療を提供することは、吃ることを否定することになり、吃音に対する社会の否定的な見方を広めてしまうことになると思うんです。私は、社会におけるより大きな問題(吃音に対するスティグマ)を助長するようなことはしないでしょう。」

今回はここまでとなります。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
ではまた〜


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