手帳
先日、久々に手帳を買った。
大学1年生になりたての頃、これからの新生活のスケジュールを管理するために初めて手帳を買った。予定が入るにつれて空白が少なくなっていく様を見ると、ワクワクと不安が混ざり合った変な気持ちになった。その気持ちを紛らわせようと、もう既に終わった過去のどうでもいいような出来事をいちいちページを前に捲って書き込んだ時には多少ばかりの安心を感じたりもした。たまに書くのが面倒くさくなった。1ヶ月、2ヶ月何も書かないままで時間が過ぎたこともあった。それでも好きな人と出かける予定ができたり、大好きなアーティストの新作が発売された日には連なる空白の日々の中に、わざわざ強調をさせて色ペンで予定を書き込んだ記憶もある。
大学3年生になると、手帳は必要なくなっていた。それは、別のもので管理していたわけではなく、管理する必要がなくなっていたからである。忙しい時間が全くなかったわけではないが、頭の中で予定を組み立てるのがさほど難しくないくらいには余裕があった。レポートの期限やゼミの発表日も大体頭の中で把握できたし、人との予定はLINEやTwitterの履歴として確認することもできた。何かをすっぽかしたことはなかったし、頭の中で整理できる自分の要領の良さを得意げに思ったこともあった。ただ予定が他人よりずっと少ないだけなのに。
そして4年の本月11月、約2年ぶりに新しい手帳を手にした。
就活を終えた今、卒業研究に取り組む中で楽しい予定やワクワクするような出来事が入る気配はほぼ皆無である。今日が昨日と同じように過ぎていくし、明日も当然のようにそうなる。そのことに不満を感じることも最近は少なくなっている。
では、なぜこのタイミングで手帳を買ったのか。
自分の手帳の使い方は少し変わっている。変わっているというと大袈裟ではあるが、その時に思いついた言葉をメモするようにしている。
例えば過去の手帳を見返すと、こんなことが書かれている。
今後の予定を書くことに加え、嬉しいことも嫌なことも、それ以外の無感情の時も、とにかく思いついた言葉をその瞬間に書くようにしている。その時間は大抵朝が多かった。1限が始まる40分ほど前に大学に行き、誰もいない広々とした教室の中で手帳と向き合って言葉を紙に溢していた。それは自分にとって特別な時間であった。
書き記す言葉は本当に色々だったが、その多くは自分にとって美しいと思えるものであった。好きになった曲の歌詞のフレーズであったり、今度こんなタイトルで文章を書きたいなっていう言葉を書いたり。読みたい本のタイトル、好きな漢字、あるいは愚痴とか雑念とかそういうものを書くこともあったが、なるべく綺麗な言葉で埋めるような意識を持っていたと思う。
3年生から就活を終える最近までは、このような形で文章や言葉を作る気力や欲求が無くなった。その原因に明確な自覚はないが、単純にそんな余裕がなかったのだと思う。相変わらずの性格のもので、色んなことを考え込む時間は変わらず多かったが、それを言葉にして誰かに伝える事ができなかった、あるいはしたくなかった。そういう時期が最近まで続いていた。
しかし、喜ばしいことに最近その欲が戻ってきた。先ほど書いたように、今は毎日毎日が同じように流れていっているため、どうしようもないことを考える時間が減っている。でも、何かを言葉にしたいという気持ちがとても大きい。有難いことにこのような文章を書くと、誰かしらが何かしらの反応をしてくれる。このnoteを多くの人に見てもらいたいとか文章を上手く書けるようになりたいとか、そういうつもりでやっているわけではないが、やっぱり反応を貰えると至極嬉しい。そしてそれが自分のモチベーションにもなって、新しい言葉を記す原動力にもなる。だから、同じような平坦な毎日の中で必死に美しいものにアンテナを張って、どのような言葉で表現するのかを模索している。その時間の一部が自分にとって"手帳を書く"というものなのだ。
そういうわけで数日前、久しぶりに手帳と向き合った。
しかし、なぜだろう。思ったように書きたい言葉が出てこない。前々からあれを書こう、と決めていた言葉も上手く思い出せない。新しい手帳に初めて文字を記す独特の緊張感のせいでもあるのだろうか。2年前、あれだけスラスラと書きたい言葉が出てきたのが不思議だとすら思う。どうしよう。あれだけ楽しみにしていたのに。またあの時と同じく、自分の感情、思考、パーソナリティを思う存分に振りかざすかのように言葉を書きたかったのに。感性が鈍くなってしまったのか。何も浮かばない。
そして、長らく考えた挙句、誰にも理解されないであろう謎の緊張感に包まれながら、これからの手帳に初めての言葉をこう書き綴ったのであった。
Twitter:檸(@nei_monologue)
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