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18年11カ月の時を超えて、おじっさまがやってきた。

私がもっとも尊敬する人は、18年前から変わらない。母方の祖父だ。でも、私は彼を「おじいちゃん」と呼んだことが1度もない。私はずっと彼を「おじっさま」と呼んでいた。祖母のことは「おばっさま」と呼んでいたかと言えば、そんなことはない。母方の祖母のことは「おばあちゃん」と呼んでいたし、父方の祖父のことは「おじいちゃん」と呼んでいた。おばあちゃんが2人とおじいちゃんが1人。おじっさまが1人。私の祖父母の構成は、物心ついた時からこうだった。今日は私が今もなお敬愛するおじっさまについて書いてみようと思う。

憧れのおじっさま

おじっさまは、長野県松本市に生まれた。家庭の事情で北海道に引っ越し、戦争を経験した後に英語の教師・教授になった。そして、シェイクスピアの研究をしていたと聞いている。おじっさまという名は、孫ができたら自分をそう呼ばせたいと彼がずっと思っていたそうで、母に「自分のことはおじっさまと呼ばせてほしい」とリクエストしたらしい。母もその理由はよくわかっていなくて、「松本の方言なのでは」とのことだったが、今となってはそれも定かではない。私たちは生まれてからおじっさまと呼んでいたので、彼と自分の関係性が祖父と孫であることは認識していたが、なんの疑いもなく、「私のお母さんのほうのおじいちゃんはおじっさまって言うんだよ」と思っていた。実際、小学生くらいまでは友だちの前でも平気で「おじっさまがね……あ、おじっさまっていうのはお母さんのほうのおじいちゃんで……」と我が家は特別とでも言うかのように説明していたし、そんな存在がうれしかったりもした。(別にただ呼び名が違うだけなのに特別な気がしていた)

厳格なおじっさま

私が記憶しているおじっさまは、家に行くといつも着物姿で、地下の書斎にいるか、居間の立派なスピーカーで爆音を流しながら英語の難しいビデオを観ていた。おじっさまの家に行くと、玄関でまずドアを開けると同時に元気よく挨拶をして、おばあちゃんが来てくれるのを待つ。そして、「いらっしゃい」と言われたら、「おじゃまします」と答えて靴を脱ぎ、靴をそろえて手を洗いに行く。手を洗いに行ったら、おばあちゃんからおじっさまの所在を聞いて、ご挨拶に行く。居間にいる場合は、タイミングを見て声をかければ良いのだが、地下の書斎にいる場合は少し緊張する。薄暗く急な階段を一歩、一歩と踏み外さないように降りていって、寝室を通り過ぎ、1番奥にある書斎のドアをコンコンと叩くのだ。おじっさまは部屋の1番奥の机にいるので、返事をしてくれたのかどうか定かでない。ノックの反応があったかどうかわからないため、姉妹(私は3姉妹の次女)で顔を見合わせて入っていいか、ダメかのジャッジをする。(別に怒られたことはないが、失敗してはならないという謎の緊張感をいつも感じていた)

そおっとドアを開けて、部屋の中を覗き込むと、大抵おじっさまは奥の机にゆったりと座っていた。メガネを下の方にかけて、照明は手元のライトだけ。「ああ」と言ってくれたのか何も話していないのかわからないくらいの薄い反応で、私たちが正座するのを待つ。私たちは机のそばに3人並んで正座をして、三つ指ついて「おじゃまします」と頭を下げる。挨拶が終わると、彼がゆったりと話し始めるのを待って、談笑が始まる。談笑タイムは正座をしたまま聞くパターンもあるし、立って聞くパターンもあった。彼が忙しい時はほんの数分だけの時もあったし、調子がいい時は1時間以上正座のまま話を聞き続けた時もあった。薄暗い部屋の椅子にゆったりと座るおじっさまと足の痺れを我慢しながら前重心で正座をする小学生3人。おじっさまの家の思い出と言われれば、その光景を思い出す。

おじっさまの教えは「とにかく遊べ」

おじっさまが書いてくれたメモ

英語の教授で、シェイクスピアの研究者だったおじっさまだが、彼から1度も「勉強しなさい」と言われたことはない。むしろ、「勉強なんてしなくていいから、たくさん遊べ」と言われていた。彼曰く、学校(school)の語源は暇(leisure)から来ているらしく、暇な人が行く場所が学校だと教わった。(その後、私は語源に興味を持って高校の入学祝いに語源辞典をプレゼントしてもらうことになる)

その言葉通り、彼は私たち孫とたくさん遊んでくれた。彼の家には家よりも広い庭があったのだが、夏にはブルーベリーを摘み、池で両手いっぱいのカエルの卵を持ち上げて見せてくれた。秋にはカレンズを積んで、胡桃がどう実るのかを目の前で実を割って見せてくれた。離れの縁側で何の鳥が鳴いているのかを教えてくれて、冬には米袋で作ったソリで何度もソリ滑りをした。思い出してみると、外で遊んでいたことが大半で、彼の家でテレビを見る時間はほとんどなかった。(ビデオも英語版のチキチキバンバンを観たことしかない。チキチキバンバンはよく観た)確かに寒い季節や陽が落ちた後は、家の中でも遊んだ。紙風船でバレーボールをして、レコードから流れる英語の曲で踊り、おばあちゃんと料理をした。とにかく、おじっさまの家で体験できる遊びは、友だちや姉妹だけで経験できる日常のそれとはまったく違っていて、贅沢なものばかりだった。

おじっさまが伝えたかった「遊ぶ」の意味

大人になった今思い返すと、おじっさまが言っていた「遊ぶ」は「体験する」ことだったのではないだろうか。「外に出て遊べ」は「外に出ていろんなことをやってみなさい」だったのではないかと思うと、私が体験させてもらったことすべてが彼の真意だったように思える。

カレンズと間違えて、オンコの実(イチイの実)を口に入れたことがあった。(カレンズはプチプチしていて甘酸っぱくておいしいが、オンコの実は
ぶにゅっとしていて全然おいしくない)

カエルの卵がゼラチンのようにぶにゅぶにゅしていることを知らなかった。その小さなひとつ一つがオタマジャクシになって足が生えてカエルになるなんて信じられなかった。

胡桃はシワシワの殻の状態で木に実るのだと思っていた。緑色の実を剥いて茶色の殻が出てきた時、こんなに神秘的な植物があるのかと感動した。

おじっさまは私にたくさんの言葉を教えてくれた。それと同じくらい、体験を通していろんなことを教えてくれていたのだと、この文章を書きながら気づかされた。

Anyway try!

高校受験を控えた私におじっさまがくれた言葉「Anyway try!」

で、このメモである。これは、「もんちゃんの机の周りを見せて欲しい」と言われたことで、掘り起こしてきたメモである。もうどんなきっかけで書いてもらったのかは覚えていないが、日付から見るに、私が高校受験をする年に書いてもらったものだ。

「Anyway try!」

色々思い返してからこのメモを見ると、何だか泣きそうになる。戦争を経験して、英語の教授になり、世界中を飛び回って、アメリカでは差別にあったことも武勇伝のように話していたおじっさま。それでもなお彼は、「Anyway try!」と言うのだ。

Anyway try! Anyway try! Anyway try!

じんわりと、暖かく、彼の言葉が染み渡る。今日からこれを私の指針にしようと思う。

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