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第16話 若紫の盗み酒

 その夜。午前二時になっても美希は眠ることができない。

 こんなことになっても美希は何もかもが嘘だったと思いたくない。だって。清水さんは本当に心から心地よさげに美希を見つめてくれたのだ、「可愛いなあ」と言いながら。

 生まれて初めて男性が美希を「可愛い」と褒めてくれたのに。私を好きだって言ってくれたのに。だから自分にも男性に好かれる程度に価値があると自信を持つことができたのに。

 それなのにその人は美希を棄てる。それが悲しく、苦しく、そして怖くてたまらない。

 美希は、自分が望むのなら黒田さんの劣化版扱いでもいいんじゃないだろうかとさえ思う。清水さんは、大人っぽい黒田さんに「可愛い」とは言わなくても、私にはそう言ってくれたし、私が望んでいるのも「可愛い」と言ってくれることだけなのだから。

 ――清水さんとやりなおせないだろうか……。

 いや、普通に考えるなら、あそこまでにこやかにきっぱり別れの言葉を口にする相手と再びというのは無理だろう。

 だけど……。

 美希の自問自答は何度も何度も行ったり来たりを繰り返す。

 母に電話してみようかとも美希は頭の片隅で考えてみた。でも、母に彼氏にフラれたと話したら……。「ほうら、美希に男の人を捕まえるなんて無理だったのよ」と嘲り笑われてしまうだろう。

 更に辛くなって、涙が出てきた。

 カーテンの隙間から月の光が細く入ってくる。その光は美希のベッドの反対側の壁際、和田さんのお布団をぼんやりと照らしている。

 寮生活に慣れない美希に良かれと、ほとんど寮にいない和田さんと同室ということになったけれど、こういう時は同じ部屋の人がいればよかったのにと思う。和田さんは明るくて朗らかな人だから、きっと寂しい思いも慰められただろうに。

 美希は「そうだ」と思いついた。娯楽室に行ってみよう。そこに誰かがいたらその人と話せばいい。

 真っ暗な廊下を非常灯の緑の明かりを頼りに歩く。階段は足を滑らせそうなので一階に降りるまで電気をつけた。

 残念ながら娯楽室に人はいなかった。それもそうだろう。今は草木も眠る丑三つ時だ。

 だけど、一人の部屋にもう戻りたくない。失恋をした女性ってこんな時どうやって気を紛らわせるのだろう。

 美希はふらふらと地下まで降りて食堂に入る。カウンターの裏には食材を保存する棚がある。料理用のワインが確かそこにあったはず。

 天井にぶら下がっている素っ気ない電灯を一つだけ照らし、腰を屈めて収納棚を開けてみた。しょうゆ、みりん、サラダ油にオリーブオイルと買い置きのボトルが並ぶ中からワインを探していると……。

「こら、未成年!」

 突然かけられた声にびっくりした美希の口から「ひゃあっ!」と甲高い悲鳴が上がる。

「ゆ、由梨さん!」

 由梨さんが苦笑を浮かべ、腰に手を当てながら立っていた。

「私も眠れなくて。ドアの横の窓から誰かが階段の電気を点けたのが分かったから、誰だろうと思って見に来ちゃった」

「……」

 由梨さんは指を立てて突き出し、チッチッチッと横に振った。

「駄目よ、十八歳で成人になっても飲酒については未成年。彼氏にふられてヤケ酒なんてまだ早いわ。お茶にしましょう。ふふ、いい葉っぱがあるのよ」

 葉っぱ。それはお酒よりもマズいものでは?

「大丈夫よ、ハーブティ。私色々持ってるの。部屋から持ってくるわ。美希ちゃん、そこのコンロでお湯沸かしておいて」

「は、はい……」

 食堂の天井の手前半分に電気を点けて、由梨さんが自分のトレイをテーブルに置く。素敵なバスケットにいろんなティーバックの盛り合わせ。それからとても可愛らしいマグカップが二つ。深夜のお茶会の始まりだ。

「どっちのマグカップを使いたい?」

「あの、そのピンクの花柄の……」

 由梨さんが「どうぞ」と渡してくれる。

「お茶は……そうね、リラックスできるカモミールにしましょうか」

「はい、それでお願いします」

 柔らかで甘い香りが食堂の空間を漂う。

「由梨さん、ひょっとして私が立てた足音で目を覚ましちゃったんですか?」

「ううん。その前から起きてたわよ。布団の中で目だけ覚ましてたの」

 由梨さんはひっそりと笑んだ。

「本当よ。私も今日の出来事で、自分が彼氏にふられた過去を思い出していたから」

「え、あの、スミマセン」

「何を謝るの?」

「ええと。辛い出来事を思い出させてしまって」

 由梨さんは掌で自分のマグカップを包んだ。

「そう、辛かったの。だから人に話を聞いてもらいたいの。いい? 今、美希ちゃんに聞いてもらっても」

「もちろんです! 私に話すことで楽になれるんだったらいくらでも!」

 由梨さんは目を伏せた。相手の目を見られない美希は、つい由梨さんの顎に視線を向ける。いつ見ても細くて尖った顎だ。

「私は留年して今五回生なんだけど、入学してすぐに社交ダンス部に入ったの。そしてパートナーの男性とお付き合いするようになって……。そう、私も一回生の夏は彼と祇園さんに行ったわ」」

「そうなんですか」

「彼は『西都大学の女子は四分の一しか幸せになれない』というのが口癖でね」

「何ですか、その四分の一というのは?」

「彼が知ってる西都大学のOGの結婚率だそうよ」

「ええと。その人としては女性の幸せは結婚だと思ってるわけですね。ちょっとそれは……」

「そうね。古臭い価値観の持ち主よね。だけど、『女の幸せは結婚だけとは限らない』って社会で言われるようになって久しいのに、女性は男性に選ばれなければならないっていうプレッシャーは消えずに残っていると思わない?」

 美希は答えに詰まる。美希は自分に価値がないから男性に選ばれないと思っている。自分の価値は男性に選ばれるかどうかで判別されてしまうのだと、美希も思っているのだ。

「そうですね……。私もその元彼さんとあまり違わないのかもしれません……」

 由梨さんはハーブティーを一口飲んだ。

「世の中には本音と建前がある。私は家族や学校で建前に囲まれて過ごしてきたけれど、『女は男に選ばれなくてはならない』という社会の本音もうっすら知っていた。そして、大学で初めてそれを真正面から言う男性に会って『やっぱり』って思った」
 
「……」

「彼は同時に私に言ったの。『俺は君が好きだよ』って。私を選んでくれるって。私、ほっとしたの。私は西都大学の女子だけど、幸せな四分の一に入れるんだって安心した」

 美希は「分かります」と答えた。彼氏がいる女であること。そこに自分の価値があるのだと、ついさっきまで思っていたのだから。

「その頃の私にとって、社会の本音を口にする彼が世慣れた大人に見えた。だからずっとついて行こうと思った。けれど、彼の方は半年くらいで『もう恋愛感情はない』って言いだして、それで別れることになったの」

「そのいきさつでそれはちょっと……」

 男女の仲はどちらかの気持ちが変われば終わらざるを得ない。だけど、その人はちょっとどうかと美希の中でモヤモヤした感情が沸き起こる。

「なんていうか……。由梨さん、はしごを外されたって感じじゃないですか」

「……」

「恋人にしようとする女性を『女は男に選ばれないと駄目だ』って言葉で追い込んでおいてから『好きだ』って言ったのは、なんだか卑怯です。そうやってお付き合いするように仕向けておいて……」

 それでも愛情が無くなったというならそれは仕方ないかもしれないけれど……。

「でも、とにかく由梨さんは何も悪くないです。悪いのは絶対その男の人です!」

 由梨さんの表情がやるせなさそうに歪んだ。

「ありがとう。でも、その時の私はそう思わなかった。私は、失恋の原因は自分に価値が無いからだって思ったの」

「そんな!」

 美人で優しくて頭が良くて。そんな由梨さんに価値がないなんて!

 けれど。そう思う美希が言葉を続けるより先に、由梨さんは被せるように早口で、そして激しい口調で小さく叫ぶ。

「そう思う方が楽だったの! だって……だって! 価値がないのなら努力して価値を身に着ければ解決する話でしょう?」
 


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