三十六 白狼、竹の宮で不興を買う
竹の宮の邸宅の門に到着したのは、西に広がる山々の陰に太陽が隠れる少し前の頃だった。白狼たち一行と入れ替わりで京に戻る武人達が出迎え、そして、そのまま竹の宮の姫君に挨拶をしろと言う。
一人が不満げな声を上げた。
「このままですかい? 旅装を解くくらいのことはさせてもらえませんかね?」
相手は首を振った。
「駄目だ。外が明るいうちに庭で姫君に顔をお目に掛けろ。でないと、今晩、竹の宮の敷地に入れて貰えないぞ。ここの周りは竹槍をあちこちに仕込んだ竹林しかない。まともな場所で寝たけりゃさっさと挨拶を済ませとけ」
竹の宮は小規模ながら正殿と東の対を備えている。姫君は正殿で寝起きをし、東の対の一角が書庫なのだという。真名を学びにきた近衛達も東の対には出入りを許される。
東の対だけとはいえ、竹の宮の姫君にとっては自邸に人が出入りするのだ。だから、新しく来た者がどんな人間なのか、到着すると同時にすぐに確認したいのだろうと白狼は想像した。
竹林で鋭く尖っている槍の穂先は、今朝切ったばかりのように白く、そして邸に近いほど密集している。ここの女の警戒心は相当に強いらしい。
白狼たち五人は正殿の南庭に座らされた。簀子の上に、三十路ばかりの平凡な顔立ちの女が何枚も袿を重ねたいかにも貴族らしい格好で座っていた。そして冷ややかに男たちを見下ろしている。
この宮の主、竹の宮の姫君は、当代の貴婦人の常として母屋の御簾の中にいるらしい。その言葉は奥から取り次がれ、そして白狼たちには簀子に座る女房が声を掛けることになっているようだった。
女房が、御簾の奥から何かを伝えられて頷いた。そして手にしていた扇をついっと持ち上げると、白狼にだけに差し向けて尋ねる。
「お前に問う」
「……俺か?」
「そうじゃ、お前じゃ。お前は近衛の舎人なのか? 死人のように白い肌といい、やたら高い鼻といい。その大きな体は異形の者のように見えるが人間か? 昨今の近衛府は妖を使うようになったのか?」
白狼はあからさまに肩をすくめた。自分の風貌が胡乱な目で見られることはこれまで生きていて何度も経験済みだ。またか、と思うとため息もでる。
「俺は父親が異国の者だ。向こうでは珍しくはない顔らしい。背が高いのも父親譲りだ。近衛の者どうかだと? 俺はそのつもりだが、疑問があれば誰かに聞いてみればいいだろう」
そのぞんざいな態度に、女が顔色を変えた。
「お前は貴人の前で使うべき言葉遣いを知らぬのか。御簾の中におわすのは先々帝の姫宮ぞ」
──姫宮?
白狼にとって「姫宮」と言えば、あの錦濤から来た少女のことだ。「姫宮」という呼称は、帝と血縁関係がある女が敬われる際に使われるものだそうだが……。そう言えば、ここの女主も姫宮ということになるのか。
ただ、佳卓の話では、ここの女主は自分の父や兄を失い後ろ盾がなく、都でも忘れ去られた存在だ。ここの女房以外に姫宮などと呼ぶ者はいないだろう。
だが、そんなことはどうでもよいことだと白狼は思う。他人からの形式的な敬意などあってもなくてもどうでもよかろうに。
白狼の袖をくいくいと引く手があった。
「おい、お前、ちゃんと平伏しろよ」
ふと見ると、それは竹の宮まで同行してきた男の一人で、その男も頭を下げて腕だけを白狼に延ばしている。その隣では、あの猥談好きの男がこれ見よがしに大袈裟に額を地面にこすり付けていた。
その下衆が、芝居がかった勢いでがばっと身を起こした。やけに顔を歪め、母屋に向かって切々と言い募る。まず、彼は竹の宮の姫君をわざわざ「姫宮」と呼んだ。
「恐れながら『姫宮』にお言葉差し上げますこと、どうかお許しあれ」
簀子の女房は、彼が『姫宮』と呼んだことに満足そうにうなずいた。
「お前は貴人に対する礼儀を弁えているようじゃ。言うが良い」
その男は続ける。ここへの道の途中で彼が見せた品性下劣な本性を知る者からは白々しいほどの上品ぶった口調だった。
「こちらの姫宮をさしおき、錦濤などの田舎育ちの女童を東宮に迎えるような嘆かわしい世の中でございます。氏素性の分からぬ卑しい者も近衛に出入りすること、拙もお恥ずかしゅうございます」
竹の宮への露骨な阿諛追従だ。ここへ来るまで、ここの女を卑猥な目で見ていたくせに何を言うやら。全くの噴飯ものだと白狼は呆れた。他の男達の間にも白けた空気が流れる。
しかし、庭の地面に伏す男たちに漂う空気など、彼らの頭上に座る女房には届かない。その女は大きく首を縦に振った。
「まことに。近衛とは本来帝などの貴人の近くに侍るもの。近衛大将佳卓殿は何やら内裏の外を走り回るのがお好きなようじゃが、このような野良犬を拾ってくるとはの。そなたのような心ある近衛舎人にとっては、このような妖が同僚では不快であろう」
白狼は思わず口に出した。俺のことはいい。だが、俺にかこつけて佳卓を馬鹿にするのは許せない。
「佳卓は宮廷の奥深くでふんぞり返っているような腰抜けじゃない。民のために必要なら東国でも内裏の外でも駆け回るさ。俺だって、佳卓のためになら、近衛の中でおとなしく振る舞う。ここでもそうするつもりだ」
女は白狼の言葉に何一つ感じることがない様子で、無表情に言葉を捨て置く。
「姫宮はお前の容貌がお嫌でいらっしゃるのじゃ」
白狼は寝殿の奥に向かって大声で怒鳴った。
「おい、『姫宮』!」
その太くてよく響く声に女房はびくりと身を震わせたが、白狼は気にも留めない。姫宮という女が自分を嫌だというなら、俺がその女に嫌だと言って何が悪い。
「こっちの姫宮とやらはずいぶんと器の小さい主公だな。十歳の少女でも珍しい者を受けとめる度量があるというのに」
これには女房の方が敏感に反応した。
「これ! お前の言う十歳の少女とは、先頃御所に迎え入れられたと聞く『錦濤の姫宮』とか申す女君を指しているのか。その女君の方が優れているなどとお前は申すか……無礼な!」
女はいきり立った。
「こちらの姫宮はその女君の叔母に当たられるれっきとした皇女。お血筋、お育ち、本来ならこちらの姫宮こそ東宮に相応しい。錦濤の女君は、こちらの姫宮を差し置いて帝に就くのに一言の挨拶もこちらにはない。鄙育ちは礼節もご存じないか」
「……」
「本来、我々の方こそ内裏の中でときめいているはずだったのじゃ。こんな竹林しかない辺鄙なところに引っ込んで暮らすなど……」
「……なに?」
白狼は首を傾げた。竹林に仕込まれた、毎日尖らせている槍の切っ先。ここに住む女はそれらに護られながら暮らすことを望んでいるのではなかったのか。
「お黙りなさい」
高くてか細い、しかしこの竹林の竹槍のように鋭く尖った女の声がした。
御簾の中、庭を満たす明るく爽やかな陽光も届かぬ真っ暗な闇の中からその声は届く。簀子の女房が慌てて後ろを振り返っているのだから、その声は竹の宮の姫君自身のものなのだろう。
女房は不服そうな声を上げた。
「貴女様がこのような下賤な者に直接声がけするなど……」
「仕方がなかろう。そなたの役目は取次ぎであろうに、先ほどから出しゃばりすぎです。そなたの独断で勝手なことを喋られては困る」
「……」
「わたくしは東宮の地位などどうでもよい。内裏など、あのような魔窟に戻る気などさらさらない。錦濤の姫宮なる御方がどんな女君か知らぬが、御所からの挨拶などなくて結構。わたくしはこのまま忘れ置かれて構わぬ」
竹の宮の姫君の声は相変わらず細く、そして冷たい。
「そなたたちが華やかな御所で働きたいと思っているのは知っています。このような寂れた出仕先が不満だというなら内侍司に命じて錦濤の御方のところで働けるよう取りはからいましょう」
白狼達が近衛府から派遣されるように、ここの女房も内侍司から送り込まれるものらしい。確かに禁裏と比べ、この竹の宮では仕え先として格が落ちると感じる女房もいるだろう。「こちらの姫君を姫宮と呼べ」「錦濤の姫宮が礼を取れ」というのは、姫君本人より女房が、己の主公に泊をつけたいだけのことのようだった。
竹の宮の姫君は、自分が錦濤の姫宮を妬んでいるわけではないことは明らかにしたが、同時に自分の口ではっきりと白狼を拒絶した。
「わたくしが命じるのは一つだけです。その白い妖を京に戻しなさい」
白狼は大声で叫んだ。
「俺の見た目が厭わしいのか? ただそれだけの理由か?」
返ってきた声は冷ややかだった。
「わたくしは気味の悪いものが嫌いです。自分の暮らしをかき乱されたくありません。佳卓も近衛には普通の容貌の者を寄越してくれればよいものを……」
この女が静かに暮らしたいと願うのは分かる。しかし、自分だって何もするつもりはないのだ。白狼はそう言いたかった。
だが、竹の宮の姫君が何かを口にしているようなのでそれを待つ。姫君はもう直接に庭に座る白狼に声を掛ける気はないらしく、最初と同じく女房に代言させる。
姫君に咎められた女房は、決まりの悪さを隠したいのかより一層居丈高に言葉を放って寄越した。
「姫宮は礼儀を弁えた者しか東の対に入れたくないとのご希望じゃ」
あの猥談好きの男が声を上げた。
「それでは、まずは拙からお願い申し上げまする。一刻も早く真名を学びたいと思いますれば」
こいつにこんな向学心があると思えないが……。そう思いながら白狼はその男を横目で見た。
女房は要望を聞き入れた。
「良いでしょう。夕餉の前に姫宮が書庫をお使いになるが、それまでの時間は立ち入っても良い」
「ははあ、恐悦至極に存じます」
大仰な謝辞を述べながら、その男は再び地面にひれ伏す。
「それから、そこの妖。お前は早々に帰り支度をせよ。近衛大将佳卓殿にはまともな近衛と交代させるよう命じる」
「……! 俺もここで真名を学ぶことになってるはずだ!」
「お前のような異形、それも礼節を弁えぬ粗暴な妖が姫宮のものを使えると思うてか。東の対に上がること断じてまかりならぬ」
「な……」
あの男に許されるものが自分に許されないのか。
別に真名自体はどうでもいいが、佳卓は俺を学ばせるつもりで段取りをつけた。こんなことになっては、あいつの面子が立たないではないか。
御所では無実なのに盗みの疑いを掛けられた。だから、佳卓が俺の居場所を作ってくれようとしたのに。それを、こんな形で奪われてしまうのか。
自分は何もしていない。ただ、容貌が怪異なだけで。そして、ただ、ここの女主人が俺の外見を気に入らないというだけで。そんな理由だけで、俺はあんな男よりも理不尽な目に遭わなければならないのか。
女と見れば下卑た欲望の対象としか見ないあの男。妻と望む女に立場と計略で関係を強要し、金で買った女に獣姦をさせたあげく、日の高いうちから人の耳にねじ込んでくるようなあんな品性下劣な男。あんな者でも、この国の人間の容貌を持ち、口先だけの礼節さえ取れればそれでいいのか。それらを持たない俺は、人間以下の野良犬だというのか。
あの男が白狼を見ていた。白狼と目が合うと、勝ち誇ったようににやりと笑う。
その酷く醜く歪んだ顔には、今この場での白狼に対する優越感以外にも、もっとどす黒いものが混じっているようだった。だが……。
──知ったことか。
あの男はいつか何かをやらかすだろう。自分はそれを事前に忠告してやろうと思っていた。だが、白狼の中でそんな気は全く消え失せていた。
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