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第2話 学生課のマリリン・モンロー 

 美希は大学正門の案内板で「学生課」の場所を探した。それは、この門を入って左の突き当たりにあるらしい。

 門の傍のモダンなカフェの前を過ぎると由緒ありげな赤煉瓦の建物が並んでいる。桜が十数本植えられており、春の午後のくすんだ青空の下、風が吹くたびに乳白色の花弁がはらはらと宙を舞っていた。

 すれ違った学生二人連れの「もう桜も終わりかけだね」「また新入生でキャンパスが混む新年度が始まるなあ」という会話が耳に入ってきて、美希はきゅっと唇をかんだ。

 ──私も新入生になるはずだったのに……。

 いや、今ならまだ新入生なのだ。先月入学手続きをしたのだから、今日これから退学届を出すまではここの学生だ。

 美希はそびえ立つ時計台を見た。午後三時。学生課の事務窓口が閉まるのは五時だ。少しだけでも西都大生でいたい美希はぎりぎりまで未練がましくキャンパスを歩き回って過ごした。

 四時四十五分。夕暮れに向かう春の柔らかい日差しがが翳ってきた頃、美希は事務棟の中に入る。しかし、入り口付近で掲示板を眺めている女性の姿に美希はぎょっとして立ち止まった。

 ──不良だ!

 なんといっても髪型が凄い。不自然なほどまばゆい金髪が大きく巻かれている。マリリン・モンローみたいだ。けれど、どうみても彼女の顔は本来なら地味な東洋人の顔だとしか思えない。その顔にアイメイク、頬のチーク、口紅と、けばけばしい化粧を施している。服だってジャケットから覗くインナーはヒョウ柄!

 ──西都大学の学生かしら? こんな人が西都大学にいるの?

 西都大学は日本有数の高偏差値の国立大学だ。女子学生と言えば黒縁眼鏡に三つ編みのガリ勉タイプの女の子が大半だろうと美希は何となく想像していた。

 いや、自分自身だってそんなステレオタイプな格好をしていないし、さっきから目にする女子学生達だってほどほどにお洒落ではある。だけど、こんな水商売のような格好の女性は明らかに異質だ

 美希は彼女を見ないように足早に窓口に進み用件を告げた。男性職員が顔を上げて「何カイセイですか?」と尋ねる。

「カイセイ?」

 背後から女性の声がした。

「何年生なのかを聞かれてるのよ。関西じゃ学年を二回生とか三回生と呼ぶの。それを知らないって貴女はまだ新入生なの?」

 振り返るとあの金髪のド派手な女性だった。

 窓口の人が「え? まだ新入生なのに退学ですか?」と身を仰け反らせる。

「はい、家庭の事情で……」

「失礼ですがどんな事情なんですか? 経済的なことなら奨学金とか厚生課で聞いてみればいいと思いますが」

「経済的なこともありますが、とにかく母が退学して東京に戻れと申しておりますので……」

 女性が尋ねる。

「どういうこと?」

「ど、どういうことって……」

 そんなこと赤の他人に話せるわけがない。母が「家庭内のことを変な人に話すなんて」と怒るのは間違いない。そもそも、こんな身なりの人と関りになっただけでも叱られてしまうだろう。

「あの、とにかく私はこの大学を辞めなくちゃいけないんです……」

「その言い方だと、貴女自身が辞めたいわけじゃないんだよね?」

「それは……もちろん。せっかく合格したのですから。でも、辞めなくちゃだめなんです」

 金髪女性は腕を組んだ。

「辞めるのはいつでも出来る。今日でなくてもいい。ちょっと慎重に考えなよ」

 美希は首を振った。振らざるを得ないのだ。

「でも、ホテルだって引き払ってきました」

「ホテル? 下宿は?」

「あの、三月までの下宿探しに出遅れちゃって。だからしばらくホテルに長期滞在してゆっくり下宿を探す予定だったんです。でも、父が病気になって、私実家に帰らなきゃならなくなって、だから大学辞めなきゃいけなくて……」

「……」

 金髪女性は少し視線を外して考え込んだ。怖い風貌の女性が自分から目を逸らしてくれて美希はホッとする。このまま納得して自分を解放してくれるかと思ったが、そうはならない。

「父親の病気って事情があるとしても。それで貴女が退学しなきゃならないって結論になるのがよく分からない」

「だって……。癌なんです。娘の私が親元に帰って看病するのが当然でしょう?」

 それが優しく正しい娘のあり方だ。

「癌だって色んな種類とステージがあるし。父親の話でしょう? 母親がどうにかすべきだよ。 娘の大学進学を阻んでまで看病させようなんておかしいって」

「ですが、父が病気だと経済的な不安もあります。母は、大学は……東京に戻って自宅から通える大学でいいじゃないかって言ってます」

「……」

「私の通ってた高校にはエスカレーター式で上がれる大学もあるんです。浪人しても推薦は大丈夫です。あ、聖星女学院ってところなんですけど」

「あー、あのお嬢様大学。学費が高いことで有名な。あそこに通えるんなら進学費用は問題ないんじゃないの?」

「だって。京都で下宿するなら学費以外に家賃がかかります。お家賃が月十万円、年間で百二十万円ですよ?」

 金髪女性が濃いアイメイクの両目を見開いた。

「家賃十万円? そりゃ高すぎる。そんなの安い物件を探せば金銭的にはどうとでもなるよ」

「でも……」

 そこに窓口の男の人の声がした。

「あの、そろそろ、受付を閉めますんで……」

「スミマセン。今、手続きしますから」

 けれど、金髪女性が美希を止める。

「ちょっと考え直そうよ。退学届を出す前に考えることはいっぱいあるよ? せっかくすごく社会的評価の高い西都大学に合格したのに。こんな有利な学歴を捨てるなんてありえない」

「でも……」

「今日はとりあえず頭を冷やしなって」

「でも、私、今日泊まるとこもないんです」

「じゃあ、ウチの女子寮にくればいい。客用の部屋は空いているはずだから」

 そして、金髪女性は窓口の男性に「私、下鴨女子寮から通っているんです」とその寮の名前を告げた。

 男性は表情を緩めてうんうんと頷く。

「あー、あそこね。うん、あそこなら女の子が泊まっても安心だ。ねえ、そこに泊まってじっくり考えてください、うん」

 窓口の男性は腰を浮かせて窓口のカーテンを引いてしまった。
 
「あ……の……」

 金髪女性が自分のスマホを弄り始める。

「ちょっと待って。今から寮まで案内できる寮生を探してるから。私はこれからバイトなんだよね」

 彼女が画面から目を離して美希を見た。

「自転車はまだ買ってないよね。私の使ってくれたらいいよ」

「あの……」

「とにかく今日の受付は終わり。こんな新年度早々に退学希望なんて受付の人だって困ってたよ。後からやっぱり取り消しますとかトラブルになったら大変だもん。顔にはっきり『面倒事は困る』って書いてあったの気づかなかった?」

 美希は心の中で「貴女が面倒にしたんじゃない」と呟いた。

 金髪女性が出口へ向かおうとする。

「図書館に寮生がいた。今から寮に帰るところなんだって。駐輪場で待ち合わせて、一緒に寮まで行けばいい」

「あの……」

「寮はオンボロで汚いけど客用部屋が一応あるし」

「ありがとうございます。でも……私、自転車に乗れません」

「はあ?」

 京都で暮らすのに自転車は必須だと金髪の女性──金田典子と意外に地味な名前の女性は言った。西都大学で今年度から文学部の学生になるという。その手続きに事務を訪れていて、美希が退学届けを出すところに出くわしたらしい。

 一回生なら美希と同じ新入生のはず。それにしては年長に見えるし、京都での寮暮らしに慣れていて、しかもスマホで用事を頼める友達が既にいる。

 そんな見た目も経歴も怪しそうな金田さんが、図書館前で別の西都大生を紹介してくれた。髪も黒いしお化粧もしてない。グレーのパーカーに紺色のスカート、黒のリュック。地味な大学生でほっとする。

「はじめまして。教育学部三回生の河合麻衣まいです。心理学を勉強してます。貴女は?」

「北村美希です。はじめまして。法学部に入学したんですけど……」

「へえ、法学部。じゃあ、司法試験目指してたりするの?」

「ええ、そのつもりでした……。いえ、大学を移ってまた目指すことになるかもしれませんが……」

 怪訝そうな河合さんに父の病気で退学しなければならないこと、それを金田さんに止められたことを話した。そうこうしているうちに、金田さんのアルバイトの時間が迫ってきたらしい。

「ともかく北村さんはウチの寮に泊めることにしたから。だけど、北村さんは自転車乗れないんだって。だから寮までバスだね」

「へええ。自転車に乗れないの? 変わってるね。ええと、じゃあ正門前のバス停から市バスの206系統に乗って『府立植物園前』ってバス停で降りて。 私は自転車で先回りしてバス停で待ってる」

 そう言って河合さんはスタスタと駐輪場の自転車の列の中に行ってしまった。「じゃ、私これからバイトに行くし」と金田さんも金髪のウェーブを揺らしながら南に向かってしまう。

 美希は旅行鞄を抱え直すとバス停に向かった。自転車よりバスの方が早く到着するだろう。「植物園前」というからには鬱蒼とした森の中だろうか。そんなところに独りで降り立つのは少し心細い気がした。

「あ!」

 バスの中で美希は声を上げた。母に電話を掛けなければならない。なかなか来ないバスを待っていたからもう午後六時を過ぎている。予定では京都駅から新幹線に乗っている頃だ。そして母に連絡することになっていた。

 ──でも、バスからは電話できないし……。

 植物園は通りから離れているらしく、バス停は普通の住宅街にあった。既に河合さんが立っていて、美希に「あ、ちゃんと来れたね。よかった」と笑いかける。

「自転車なのにバスより早かったんですね」

「京都では自転車の方が早いよ。京都の街はさ、第二次大戦の被害が少ない分昔ながらの道で幅が狭いし、観光客で混むし。それにお年寄りが多いから乗り降りに時間もかかるしね。急ぐんなら自転車の方が確実で早い」

「へえ……」

 いや、そんな話をしている場合ではなかった。美希には京都の交通事情より気がかりがある。

「あの! 私、母に電話しないと!」

「ああ、今晩東京に帰るってことになってたんだっけ」

「ええ。退学手続きを済ませて新幹線に乗って……」

「ま、日も暮れてきたからともかく寮に行こうよ。今から東京に帰るのも遅くなるしさ。で、お母さんには大家さんから説明してもらおう。大家さんが寮の隣に住んでてちゃんとした大人だって分かったら、北村さんが泊まっても親御さんも安心すると思うよ」

「……そうですね」

 確かに大人の人に説明して貰わないと、娘の外泊など母は承諾しないだろう。

 下鴨は京都市内でも高級住宅地だという。たしかにバス通りから一分も歩かないうちに、夕闇の中でも豪邸だと分かる建物が立ち並ぶようになった。木造の和風の御屋敷もあれば、ヨーロッパ風の白亜の殿堂のような建築もあり、木の格子を印象的に使った和モダンの新しいものもある。

 中でも広々としたエントランスから、窓の大きい建物が見えるここは──。

「モダンアートの美術館ですか?」

 美希の隣で自転車を押して歩いていた河合さんが「ああ」とその建物をちらりと見た。

「まあ美術館かと思うよね。そうじゃなくて個人のお宅だよ」

「へええ」

 下鴨とは本当に高級住宅街なのだ。その隣は樹木が多くちょっとした森のようになっていた。河合さんがその敷地に入っていく。その先にハーフティンバーが印象的な、イギリスかドイツ風の瀟洒な洋館が見えてきた

「素敵……」

 こんな所に寝泊まりできるなんて……と思いかけたのを、河合さんがあっさり遮る。

「ここは大家さんのお宅。言っとくけど寮は普通にボロい建物だからね。期待しないで」

「はい」


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