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スピリチュアルブームの功罪

功罪と聞くと個人的に、この言葉自体の意味合いとして罪深さが先行するイメージがある。だが、誤解なきように言っておくと、功罪とは、良い点と悪い点、2つあるよ、という意味である。

さて、もう数十年も前のことだったか。有名な霊能力者として、あの二人が登場する「○○の泉」なんていうTV番組があった。未だにこのTV番組…、というよりも、恐らくあの二人を支持する層、というのは絶えることがない。

現に、私の親しい友人が、昔に当該番組を録画し、DVDに保存してあるそれを最近見せてくれたこともあるくらい、根深く、どこか、あのお二人の考え…、死後の世界の法則みたいなものを頑なに信じている人がいると思われる。

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と、偉そうに語る私も実は、この番組を愛して止まない一人だった。録画されたものを何度も見返し、終いには、音声だけを抽出して、CDコンポから夜な夜な流しては子守唄代わりにするという熱狂ぶり。確か、5~6年くらいは続けていたと思う。

だが、ここからが本題だ。
私的に、このお二人が伝えようとする本質、つまり死後の世界の法則と、人はなぜこの世に生まれ、どう生きてゆくのかは、よく理解はできた。納得する部分もある。深く理解できる点も多々あった。

ただし、
何事にも言えることではあるが、あまりにも酔狂・熱狂してしまうと、人間は間違いなく極端で違和感のある判断や行動をするものなのだ。例えば、あの有名な霊能力者二人がTVで発言した内容、ラジオや雑誌等での言葉すべてが、絶対的にこの世における正しき内容、となってしまうところだ。内容が内容なだけに、この二人が神格化し、絶対的正義になりやすい点も押さえておきたい。

よく考えて欲しい。
いくら霊能力で信頼の置ける人であったとしても、話の内容自体は、視聴者として見ている我々が霊視鑑定を実際に受けての発言ではなく、あくまでも相談者は、自分の人生と瓜二つとは言えない赤の他人なのだ。

確かに、参考となる部分はある。だが、それをそのまま自分へ受け入れてしまうと、複雑に絡みついた自分の経験の中にスルリと入れ込めるものもあれば、入れ込んだ瞬間に劇薬へ豹変し、自分の心象風景を壊す可能性だってある。

これは、最近のインターネットの書き込みに通じるところがある。正しければそれでいい…、だけでは、ある人にとっては苦痛を伴い、命を落とす切欠となる言葉へ化けてしまう恐れが十分にある。正しいのだから聞き入れろ、は実に危険である。

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この番組を見た人は、多分薄々気付いているのではないだろうか…。散々、芸能人が有名霊能力者二人に、こーしたほうがいい、あーしたほうがいい、と言われていたのに、その忠告を無視し、自分のやりたいような人生を歩んでいることに…。しかも今でも悠々自適に、この世で楽しく生活を送っている方はたくさんいる。

だが、それを熱心に見た視聴者はどうだろうか?
スピリチュアリズムからの法則を信じ、それを何とか取り入れながら社会で生活を営もうと試みるが、どうしてもそれとは相反する出来事が次々と発生し、その都度、もはや法則も何もどうでもよくなってゆく。でも、どこかで信じながら生きている。

中には、スピリチュアリズムの法則に背くような生き方しかできない自分が腹立たしく、罪悪感や虚しさを抱く人も居るのではないだろうか? もしくは、人へ少々の不快な思いをさせたくらいで、大きな悪い出来事が自分へ必ず返ってくると怯えて、自分へ罪の意識を重く課しているのが癖になっている人もいるのではないか?

自分の生きるか死ぬかの心境にまで達しているのに、それでもスピリチュアルの世界を中心に考える、というのは、いくら何でも、これ自体に自分が押し潰されているだけである。最悪、命を落としかねない。

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「○○の泉」
が放送されていた当時から、日本人の精神的崩壊が始まっていたのは確かなことではある。その下支えとなったこの二人の有名霊能力者の存在は、世間にとって大きいものへ変わった。

故に、この二人の発言内容自体が絶対的に正しいことだから守らなければ…、と常にプレッシャーを受け続けている視聴者が多いようにも思える。

繰り返しで言うと、TV画面の向こう側から発言する内容というのは、自分に対しても思い当たる節はあるかも知れないが、相談者は自分との繋がりの無い、赤の他人。すべてを取り入れようと考えながら見聞きしているのなら、程よいディスタンスを取るべきである。

これは何も、スピリチュアルだけの話ではない。自分が酔狂する他人の存在すべてに言えることだ。最近は自己啓発や心理学が流行し、動画配信サイトで気軽に無料で聞ける。酔狂し、依存する、その可能性は誰でも十分に孕んでいる。

自分を動かしているのは、自分自身である。しかしそこに誰かの思考を取り入れ、自分を染め上げるのであれば、それは他人の人生の中で生きているだけの、主体性なき人間に過ぎない。

他者へ酔狂し、気持ちよくなるだけの自分に早く気づく必要がある。気付いた時がチャンスだ。距離(ディスタンス)を取る工夫を展開することで、そのガチガチにこびり付いた習慣に、違和感を覚えるはずだ。

私は、その違和感にある時、気付いた。
思い切って、「○○の泉」の録画分や有名霊能力者二人の本をすべて処分し、TV出演の際の言葉の数々から距離を置いた。そして全く違う考えを持つ人の本を読み、頭に新たな世界観を構築できるようになったのだった。

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私たち人間にとって、自分を支える下地、というのは必要である。だが、それはあくまでも下地であって、自分のメインには成り得ない。無理にメインへ押し上げようとすると、それ以外の他者の存在を取り入れない固着が生まれるだけで、柔軟性を欠くことへ繋がる。

自分自身を形成するメインとなる世界は、誰かが創り上げた思考をそのままコピーし、創り上げるものではない。自身の形成とは、自分だけの様々な経験と思いが絡み合い、それが時に、他人のそれと化学反応を起こすことで、また新たな世界観が完成する。その点において、他者の存在は必要不可欠なだけで、自分の生み出した過去の素材を捨ててまで他人を取り入れる必要など無いのだ。

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さて、私個人としては、このスピリチュアルブームで得たものがある。新たなる死生観である。プラスアルファで、神社で写真を撮るのが好きになったこと。

神社はスピリチュアルな力を…、というよりも、昔の日本庭園の風情を感じるので絵面的に好きな空間であるというだけ。

死生観についてだが、死後、恐らく魂の存在は残るのだろうな…、という点においては、不思議と腑に落ちたのだった。更に私は、病気をして連日痛くて苦しい思いもした。そしてこれ以上、苦しい思いはしないだろうな…、という開き直りが、ある時に降りた。それらが相重なり、「死」というものが妙に怖くなくなったのだ。

だからと言って、早く死にたい、と言っているのではなく、いつかは死ぬ…、その真実を真正面から堂々と見つめる強さが宿った…、つまりはそういう意味合いで、若い頃よりも死生観はガラリと変化はしたのだった。

これを良しと考えるかどうかは、他人が勝手に判断すればいい。私としては、死生観の変化そのものが、妙に嬉しかった。変化に嬉しさが伴うとは、すなわちこれ、自分にとっては良き成長に等しい、という方程式を手に入れたのだった。

ほら、こんな感じで「人生の方程式」を得られるでしょ。化学反応ってこうして発生するんだよ。

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