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教育で人の本質が炙り出される
私たちは時間経過とともに、避けては通れぬ必要性に迫られる事柄がある。それは、人に教え育むという「教育」である。
この世には大きく分けて二通りの教育者がいる。一つは「教員免許を持つ」教育者。学校の先生がその代表だ。しかし世の中には、「教員免許を持たぬ」教育者というものが多数存在する。それが二つ目の教育者である。
例えば、アルバイトを3ヶ月以上行なうと、必ずと言ってよいほど「後輩」が出来る。仕事場に1年以上いると、新入社員が入ってくる。そうなると、先陣を切って仕事をしている自分は、必ず何らかの形で、教える役になる。
更には、家族を持つと子供が出来ることがある。ここでもまた、教育が出てくる。
残念ながら、教育という行為は、ほぼ全員が経験するものであり、なかなか避けて通ることが難しいのである。避ければ避けるほど、無責任、という烙印が押されることもあり、得意・不得意はあるだろうが、教育者という立場は特別に免許を持たずとも、誰でも経験するような仕組みになっている。
人間同士が生きるということは、次世代へ橋渡ししてゆくことでもあるので、こればかりは仕方ない。
さて今回の本題は、そんな教育からもたらされる本質というものを明確にしてみたい。
私たちが、今でも施し続けている教育というのは、何を隠そう、私たち一人一人の生きる姿勢、考え方、価値観などを投影させた結果そのものであることに気付いているだろうか。
よく、教育者側の責任を問われたくないからと言って、「私はしっかりと言いました」とリスクマネジメントをして責任回避をし、後輩の覚えが悪いと、立場の弱い人間へ責任を擦り付ける教育者が昨今多い。
確かに、物覚えの悪い人間、不器用な人間はいるが、教育者の権力を利用すれば、「言った、言わない」だけで簡単に教育者の責任を回避することが容易であり、教育者自身がどのように分かりやすく、的確なタイミングで教え育んだのかという点がフィードバックされにくいという、悪魔的な権力と立場を獲得しているのが「教育」でもある。
例え教育を受ける側が物覚えの悪い人であっても、要点を分かりやすく、的確なタイミングで伝えていれば、相応の形として部分的にでも整った何らかの結果は出てくるものだ。しかし、何も目立って出てこずに迷い続けているだけというのは、教育者側の態度がどこか欠けている場合が多い。
例えば、「私は伝えた」という事実はあるものの、早口で口頭で一回だけ伝えただけとか…、覚えづらい部分を表にまとめたものを作らず、頭に叩き込め!とプレッシャーをかけるだけで終了していたりと。教育者が今、当たり前のように習得している知識や技術を伝えるだけで、「伝え方」というものを追求しないことは、よくあることだ。
教育を受けた側は、教育者自身の「姿勢」というのも見ている。教育者が責任を自分で取らず、常に他責にするようであれば、その悪い姿勢も一緒に伝わってしまうものだ。終には、学校全体、もしくは組織全体に悪い影響を蔓延らせてしまう元凶に成り下がる。
教育者が忘れがちなのは、理解・習得するまでの道のりで躓いた、苦しんだ経験を「明るい」方向性で活かそうとしないことである。
人間は兎角、自分が苦しんだ、という抽象的な事実は伝えたがるものだが、その苦しみをどのように解消し、余計な苦しみを省き、要点をどのように掴むのかのアイデアを展開し、教え育むことへ繋げようとはしない。
自分も苦しんだのだから、お前も苦しめ!などと復讐の悪鬼になり、教育を展開したくなるという、実に捻くれた部分がある。
教育や子育てを行なう中で、過去の復讐を果たそうと躍起になっている自分はいないだろうか?人のためと言いつつも、自分のイライラ感を当てていないだろうか?無意識のうちに行っているそれらは、自分の潜在レベルに存在する本質であり、それは確実に他人へ伝わるものなのである。
自分自身が今、所有している本質を伝える作業が、教育であるとも言える。まさに教育とは、自分の姿を映し出す鏡である。自分の中に悪魔が宿っているのなら、その悪魔は次世代へ継承される。教育は、教育者自身も自分と向き合う作業である。
教える側が、教わる事多し。これは紛れもない真実である。
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