旅籠

トレンチコートの上からショールをはおり
ポケットに小銭をしのばせると
彼女は出かけていった

落ち葉舞う
晩秋の冷たい風が
彼女を誘う

家路を急ぐ人々の
流れに逆らうようにして
大通りを進む

すでに上空に控える濃い藍の中へ
とろりとしたオレンジが今、
溶け込もうとしている
切り裂くような風が
北の海からの記憶を運んでくる

右から左へ吹きつける風
湿気を含んでまとわりつく砂粒
並んで座り
微動だにしない二人

足元をガサガサいわせながら
イチョウの並木道をそれ
路地裏をぶらつくと
一つ
二つ
家々に明かりが灯される

灰色の海辺に並んだ
黒い石造りの旅籠
午後の早いうちからもれる
窓辺の、重たげなオレンジの光
パチパチと燃える暖炉

日が落ちて
一気に気温が下がった大通りは
華やかなイルミネーションに彩られている

彼は去り際
彼女の内に小さな火をそっと灯していった

湿気と砂を含んで
一層重たくなったウールのコート
セーター…

彼女は色々なことをすっかり忘れていたが
小さなその火はかえって、彼女の中に留まり続け
こうして遠くまでやってきた彼女のことを温めた

これまで何かを強く願ったり、望んだりすることもなく
いつも手持ちのカードで上手く切り抜けてきたが
火の消し方は分からなかった
毎年辺りが冷え込むようになると
フト蘇っては存在感を発揮した

やがてあきらめのいい彼女は
軽くため息をつくと
それと同居することにした

一度歩調が合わさると
小さな炎は
雑踏の中
ユラリ、ユラリと彼女を満たした

そして内なる熱を確かめるごとく
ますます寒くなっていく夜の街を
いつまでもさまよい続けた

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