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立ち飲み屋、という素晴らしきオアシス

立ち飲み屋にハマり出したのは、妊娠するほんの一年ほど前からだった。

当時住んでいた家からほど近い所に、やってるのかやってないのか、そもそも何をやってるのかよく分からない店があった。
線路沿いの裏通りに、割とこっそりでも無く、堂々と建っている。古民家ではあるのだが、若い子が喜ぶようなレトロなものではない。レトロという言葉を通り越して、ボロい。一部窓がない。しかも、そのガラスの抜けた窓枠に、いつも鳩が数羽とまっている。暖簾も看板も何も無い。
でも、常に開け放たれているガラス戸を遠巻きにこっそり覗いてみると、いつも誰かしら立っている。
朝から昼にかけてよく通る道だったが、そんな明るい時間にも関わらず、店内は照明が点いていないのか何となく暗い。でも入口は開いている。気になる。
晴れた日のその店の玄関には、紐で繋がれた赤い首輪を着けた黒猫が、日向ぼっこをしていた。私は犬猫が大好きなので、これはますます気になる。

ある日、とうとう意を決して、正面から突入する事にした。
猫ちゃんを撫でに来たんですよ、お店が怪しいから覗きに来た訳じゃないんですよ〜。という顔をしながら、ジリジリとお店に近付く。入口から漂ってきたその酒臭さで、飲み屋だとすぐに分かった。
懐っこい黒猫の喉を撫でながら、お店の様子を伺う。中には三、四人入っていた。
床はコンクリで、カウンターと四人ほどが使える背の高いテーブルが一つ。奥に障子が見えるが、座敷は客用で使っている訳ではなさそうだ。壁際に業務用の冷蔵庫があり、酒やらビールやら炭酸水が並んでいる。

これ、見たことがあるぞ。土間だ!

家の土間を立ち飲み屋に改装しているのだ。しかし、改装してからもかなりの年月が経っているように見える。こういう店、大好きだ。
店主らしき男性が声を掛けてくれた。
「猫、お好きですか?」
「はい、大人しくて可愛い猫ちゃんですね」
猫は、私の手から離れると主人の足元に擦り寄った。
「ここは飲み屋さんなんですね。一杯頂いても良いですか?」
「え!?女の子が!?オッサンしかおらへんよ、ええの?」
店主は、優しげだった目元を大きく開いて、驚いた様子だった。
「お酒好きなので!大丈夫です!」
しゃがんでいた私は立ち上がると、堂々とお店の奥へ入った。堂々と、というのは、背筋を伸ばしただけで、内心はビクビク、どぎまぎしていた。こういう雰囲気も、お酒も大好きなのは本当だが、実際に入るのは初めてだった。
店主の言った通り、店内にはオジサンしかいない。分かってはいたが、物珍しそうに見られる。おじ様方のオアシスを荒らしに来た害獣になったようで、申し訳なく肩身が狭い。
なるべく邪魔にならないようにと、障子が半開きになっている奥に陣取る。
奥の段差沿いの席だけ、ビールのケースを逆さにした簡易テーブルが二つ置いてあり、その段差に座って飲めるようになっていた。

「何にします?」
物腰の柔らかい店主が訊いてくれた。

ここはまずビールを頼むのだろうか。でも嫌いだしな……。

周りを見渡す。
多分、あれは焼酎の水割りだろう。あちらはハイボールっぽい色をしている。ビールと同じく、どちらも飲めない。
「日本酒、冷やで下さい」
こういう店、慣れてるんですよ。という雰囲気を出すために、この間僅か一秒未満。
テーブルで飲んでいた一人が、おっ?と声を掛けた。
「お姉ちゃん、いきなり日本酒かいな!昼間っから好きやなぁ〜」
「へへっ……」
いかにも酒好きそうなオジサンにそう言われて、満更でも無い気持ちになる。
日本酒は確かに好きなのだが、それしか飲めないので、とは何となく恥ずかしくて言えなかった。

私の体温より少しぬるい酒を、一口頂く。一瞬、喉が熱くなるのを感じる。鼻から抜ける酒の匂いに、アルコール臭がほんのり混ざっていた。

あ〜、安い酒だ!イイな、美味いな〜!

職場の上司に、醸造アルコールが入ってる酒は悪酔いするから気を付けろ、と忠告されたことがある。これ、絶対醸造アルコールの匂いだよ、そうに違いないよ。そう思いながら、また一口飲む。冷やなので、酒の香りが分かりやすい。
三口飲み落ち着いたところで、改めて店内を見渡す。台所がないようだが、アテはあるのだろうか?カウンターを見ると、壁に貼られた短冊にメニューが書いてあった。煙草の煙にやられたようで、黄ばんでいる。

ゆで卵  五十円
柿ピー  五十円
ナッツ 百円
生姜天  百円
ゲソ天  三百円

なるほど、乾き物ばかりだな……と思ったら、生姜天?ゲソ天?どこで作ってるのだろうか。ゲソ天なら日本酒にも合うし、調度良いと注文してみる。
後ろのレンジで温めた後、店主が太い一本の脚をブツブツとハサミで切ってくれた。
食べてみると、意外と美味しい。衣がちゃんと軽く揚がっており、身も締まっていて味が濃い。だが、この油の匂い、何となく知ってる気がする……と思うと同時に、二軒隣にある揚げ物屋の存在を思い出した。ここには市場があって、惣菜屋も点在しているのだ。その揚げ物屋の油の匂いだ。
そうか、近所で調達してたのかと察すると、何だか面白くなった。グニグニと噛んだゲソを、お酒で飲み下す。

二杯目に冷酒を頼んだところで、常連達の会話に少しずつ混ざらせてもらった。遠巻きに私を観察していたカウンターのオジサンも、テーブルでもう四杯もお湯割りを飲んでいるオジサンにも、私が無害だと分かってもらえたようで話を振ってもらえた。
なにも大した話では無い。定年退職して暇だとか、俺は孫のためにまだ働いてるとか、来週の競馬の予想だとか、そんなものだ。

外はまだ昼で、晴れていて良い陽気。アルコールの匂い漂う店内で、店主は穏やかな顔で皆の話に相槌を打つ。入口では黒猫がまた丸まり日向ぼっこをし、道行く人がこちらを興味深そうに流し見しながら通り過ぎて行く。お酒が入ってご機嫌な皆が、それぞれに笑い声をあげる。
なんて良いお店。なんて良い一日なんだろう……。

三杯目を飲んだところで、会計をしてもらう。
歴戦の酒飲みのように、「大将、おあいそ!」と言ってみたいところだが、まだまだレベルが低い身。気恥ずかしくて「あの、お会計、お願いします」と普通の台詞を言う。いや、だらだら飲まずにスマートに退店したから良しとしよう。
「姉ちゃん、もう帰るんかいな!」
話が盛り上がり気を良くしてくれたオジサンが、乗りで千五百円を奢ってくれた。また奢ったるからおいでな!と手を振ってくれる。思いがけぬ流れに、何度もお礼を言う。
入口でまた黒猫を撫でると、見送ってくれた主人に、はっきりと明るく「また来ます!」とお辞儀をした。

私はその足で二軒隣の揚げ物屋に行き、ゲソ天を買って帰った。
家で同じようにチンして、ハサミで切って、今度は醸造アルコールの入っていない日本酒と一緒に食べてみる。
ゲソ天はやはり同じものだったが、何故だかあの店で食べた方が、数倍美味しく感じられたのだった。

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