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異端児の宿命

私にはいろんな友達がいる。みんな常日頃連絡を取り合うというわけではないのだが、ふとした瞬間やタイミングでお互いに急激に引き合う。そんな特別な因果を持った友人が実にたくさんいる。私はこういう人たちを、もちろん友人ではあるのだが、ある意味で『仲間』だと思っている。仲間は常に闘っている。見えないものと、超えられない自分と、過去のなにがしかと、色々な社会の圧力と、実に様々なケースだがみんな闘っている。私はそんな彼らのことが大好きで、いつも会えるたびに嬉しく思う。ああ、生きていてよかったな、今生で会う機会がまだあってよかったなあと、いつも胸が熱くなるのだ。ついこないだ、溝井孝司君と会う機会に恵まれた。孝司君とは実はなんだかんだで付き合いが長い。その昔、私が初めて舞台を主催するということで色々な人に協力してもらい、打ち合わせをする機会があった。その際にとある歌姫と信じられないくらい大げんかをした。彼女は私を罵った。愛を持ってあなたに意見を言っていると言っていたが、私には『私はいろんなこと言っているけど絶対に責めないでね。』と言っているような気がしてとても腹が立った。喧嘩するなら正々堂々タイマンで勝負しろよ!と思いおそらく其れ相応のことを言い放ち、結果として私たちは決裂した。その直後、孝司くんは一言私にこう言ってくれたことを覚えている。『みなみちゃんのいうこと聞いて、ああ、最近本質で行けていなかったなあって思ったよ。何か手伝えることがあれば、手伝うよ!』私にはまさに、天の助けだった。あの時は結果として決裂してしまったが、本音できちんと意見をぶちまけることの大切さを孝司君から学んだ。届く人には届くのだと、彼は教えてくれた。

それからというもの、孝司君とはそう言ったタイミングでお互いにやり取りをすることが多くなった。この間もふっとした瞬間に彼からメールが来た。なんでも即興芝居をするので見にきて欲しいとのこと。『おおおおお!!!!!!!!!もちろんいくぜえええええええええええええええええええええええええええええええ!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!』となった私は意気揚々と彼の舞台を観に言った。当日はひどい雨、かなり肌寒く、春めいてきたというのに冬に逆戻りしたような天気の日だった。私はいつも、こう言った天気の日に自分を試されているような気持ちになる。こんなにひどい雨の中、それでもお前はいく気があるのか?と問いかけられているような気持ちになるのである。今回の答えはもちろんイエス。不思議とそんな時は天気が全く気にならない。アドレナリンが出まくっているのだろうか、会場に着いた瞬間に『すごい雨の中、ありがとうございます。』と言われてから気がついたくらいだった。何年かぶりに観た孝司君はとてもいい肌艶をしていた。まるで剥きたてのゆで卵のようにとぅるんとぅるんしている彼は、いつになくとてもセクシーだった。ああ、男の人はやっぱりいいなあ、とこちらの雌の本能的なものも刺激されてとても嬉しかった。やはり人間、色気が大事である。色気のないものほど、つまらないものはない。そんなこんなで生き生きしている彼はそれでも前日には舞台から逃げ出したいと思っていたそうだ。今回、ご時世的なものもあり、自分が呼びたい人誰か一人を呼んでいい、ということで私を思い浮かべてくれたとのことだった。それを聞いてとても嬉しかったと同時に、『私を呼んだ意味がわかってるんだろうな?』という思いもあった。私は表現を見るからには本気で見る。感じる。体感する。だからこそ、相手にも本気であることを求める傾向がある。役者やダンサー、歌手、なんでもいい、表現者はその命の総てが舞台に出るものだと思っている。当日までどうやって生きたのか、何を苦しんできたのか、それこそ、何と闘ってきたのか、それら総てがまざまざと現れるのが舞台だと思っている。だからこそ見る側の人間も、其れ相応の覚悟で挑まなければならないと思っている。後で聞いた話だが、どうやら孝司君も私を呼ぶことで逃げ出したい自分を叩きのめし、腹を括ってくれたそうだ。(皆さん覚えておいてください、私はこんな風に使うこともできるのですよ。遠慮なく使ってくださいね。)

結論から言うと、孝司君の芝居は秀逸だった。彼の持つ空間を操る力がとても生かされていて、いい具合に人と人との間を引っ掻き回していた。元来のいたずらっ子なのだろうか、役者たちを翻弄する姿は見ていて非常に痛快でそれでいて『この人はやはり本気なのだな』と言うことをまざまざと見せつけられたような気がした。彼は芝居をする瞬間に目つきが変わる。彼をまとっている空気がまるで違うものになる。それが私にはとても新鮮で、これは彼の武器だなと思った。そして何よりも過去の総てを乗り越えてここまできた、という轍が見えるような気がしてとても嬉しかった。彼は血まみれで芝居をしていた。血まみれ、と言っても物騒なものではない。いわゆる岡本太郎の『血を流してニッコリ笑おう』を観たような気がしたのだ。私は彼の闇を知っている。昔、彼が主催していた舞台でそれを観たからだ。だからこそ、その闇を乗り越えここまで来るのは実に辛く長い道のりだったろう、と思うと胸がいっぱいになった。ここまで来ると親心を超えて老婆心にも近いと思うのだが、兎にも角にも、『良かった。本当に良かった。』と、心底思った。

素晴らしいものに出会うと、自分も猛烈に熱くなり居ても立ってもいられなくなる。私は今年の冬にある勝負をする。何度もいうがまだ詳細は述べられない(夏くらいに公開します)、それでもこの企画はどんどん彩りを帯び、勢いを増し、最初には考えられなかったほど豪華絢爛なものとなっている。自分自身が果たしてこれを成し遂げられるのだろうか、と思うことが多々ある。それでもやるしかないという思いと、先が見えないワクワク感とが交差し、もはや金属バットで頭を殴られても痛みを感じないのではないかというくらいに興奮している。とても楽しみで、もはや楽しみしかない状態だ。自分一人では到底できない、いろんな人たちのお力添えがあるからこそできることであり、何よりも今回のこの企画は色々な人の人生と、想いが交錯しているのである。私は想いだけで生きているような人間だ。だからこそ、できないことなんてないと思っている。やろうと思った時点でその勝負は大半が勝ちだ。やりきって負けたら仕方ないが、勝てるまでやればいいのだ。というかもはや勝ち負けなど関係ない、挑むことが大切なのだ。人間は、妄信して全力疾走している時こそ、やはり得体の知れない光を放ち美しいのである。その瞬間をたくさんの人たちと分かち合えることを、今から心底楽しみにしている。

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