ハウツーラブ
「琥珀、俺は会社に行ってくる。くれぐれも外出しないでくれ」
「いいけど、どうして?」
「君が心配だからに決まっているだろう」
「どうして心配なの?」
「……君を失うことは俺の中でも大きな物を失うことを意味するんだ」
「そう、わかったわ」
思考が噛み合わない2人。だがこうなってしまったのにはこのような経緯がある。
──1ヶ月前
「ねえあなた、今日何の日か覚えてる?」
琥珀は笑みを浮かべて尋ねる。唐突な質問だったが暦は即答した。
「君と初めて出会った記念日だ。忘れるはずがない」
「流石あなた! 夕飯は何がいい? 今日は奮発するわよ!」
「君の手料理ならなんでもいいよ」
「もう、なんでもいいって言うのが1番困るのよ!」
「はは、悪いな。じゃあ俺は行ってくる」
「……ねえ、あなた」
「どうした?」
「いえ、なんでもない。行ってらっしゃい」
「あぁ」
今日は記念日だし何かサプライズでも用意しよう。そう考えながら仕事をしているときだった。
琥珀が暴走した車により跳ねられたとの報せが入ったのは。
暦は慌てて病院へ向かうも告げられたのは前頭葉が酷く損傷しているという物だった。
このままでは最悪の事態も考えられる。そう告げられ、目の前が真っ暗になった時だった。
「……1つだけ奥様を救えるかもしれない方法があります」
医者が言うには琥珀の前頭葉をAIに置き換えれば最悪の事態は免れられる。
しかしどんな問題が生じるかも分からないとのことだった。
それでも暦は悩んだ末に妻がまた目を開くなら、と頷いた。
そして琥珀の前頭葉はAIに置き換えられた。だが同時に暦の苦悩が始まった。
「琥珀。手術が成功して良かった」
「……あなた」
「あぁ、俺だ。君の声がまた聞けて嬉しい」
「? どうして嬉しいの?」
「え──」
このように琥珀からは感情というものが欠落してしまった。
──
「琥珀、もう8時だ。起きてないのか?」
暦はドアをノックするも反応がない。
「開けるぞ。……あれ? 起きてるじゃないか。なんで返事しなかったんだ?」
「返事する必要が無いと思ったから」
「……これからは俺が呼んだら返事をしてくれ」
「わかったわ」
「それに琥珀、君はいつも同じパジャマを着ている。着替えたらどうだ?」
「わかったわ」
すると琥珀は暦の目の前で着替えようとする。
「琥珀、着替えるときは人に見られないようにするんだ」
「どうして?」
「人に裸を見られるのは恥ずかしい、いや、道徳上よくないことだからだ」
「わかったわ」
そして琥珀は部屋へ行き、着替え終わる。
「それでいい。じゃあ行ってくる」
「行ってらっしゃい」
仕事中も暦が考えるのは妻のことばかりであった。
無断で外出していないか心配で、残業をせずに早めに帰宅した。
「ただいま──あれ、なんで電気がついてないんだ?」
「どうしてつける必要があるの?」
「だって、暗かったら何も出来ないだろう!? たとえば本を読むにしろ──」
「何でそんなことする必要あるの?」
「……それは心を満たすためだ。琥珀、君は今日一日なにをしていた?」
「何もしていない」
「……そうか」
人間性を失い、変わり果てた妻。
暦はなんとかして受け入れようとするも限界があった。
そしてある時気付いてしまった。
妻を愛せないことに。
暦はすっかり精神がすり減り、ある決断をした。
「……それじゃ行ってくる」
「行ってらっしゃい」
暦は駅へ向かったが目指す先は会社ではなかった。
(この駅に飛び込んで終わりにしよう。琥珀を愛せない俺に生きる資格はない)
そしてアナウンスが流れた頃だった。
「……あなた」
外出を禁じ、それを遵守した琥珀が何故か追ってきたのだ。
「琥珀!? どうしてここに?」
「今日のあなたはいつもと様子が違った。 それで様子を見にきたの」
「もしかしてこれが〝心配〟ってこと?」
「あぁ、琥珀……俺はなんて馬鹿なことを考えたんだ……」
暦は人目も憚らず涙を流し、琥珀を抱き寄せた。
妻を理解し、愛することから逃げ、自ら命を断とうとした暦。
しかしこの出来事がきっかけで、琥珀にも感情らしい物が生まれた。
──
「ただいま、琥珀」
「おかえりなさい、あなた」
「今日は君好みの服を買ってきたんだ。 良かったら着てみてくれ」
「わかったわ」
そして琥珀は暦が買ったカジュアルなクリーム色のスカートと白いブラウス、淡い黄緑色のカーディガンに着替える。
「着替えたわ」
「うん、やっぱり君によく似合うな」
「……嬉しい」
琥珀はぎこちないながらも笑みを浮かべ、さらに「嬉しい」と言った。
確実に感情を学習しつつある。
「そういえば君はあの日── 君と出会った記念日、なんて言おうとしたんだ?」
「今までもこれからもずっと愛してる」
「え?」
「でも愛してるってどういう意味?」
「……それも近いうちに分かるさ、きっと……」
自分と琥珀は愛しあえる。暦はそう確信していた。