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大河ドラマから見る日本貨幣史16『銭緡の使い方と誕生の経緯』

今週の放送で、いよいよ、光秀が織田家に仕えるようになるまでの物語が動き出しました。先週で武家の棟梁足り得ないと見捨てた義昭ですが、落ち着いて語らうことでその意見を改めたようですね。ただ、信長と光秀の、世を平らかにする手法の差もちらりと見えて今後の波乱も感じさせました。

さて、これまで大河ドラマ劇中の場面から、戦国時代のお金についてずっとnoteでは語ってきました。それは金や銀、あるいは銭の話が中心でしたが、劇中でなんども登場している、銭緡(ぜにさし)について話をしておりませんでした。そこでドラマが後半戦に向かう前に、当時の一般的な支払い手段であった銭緡が、どのようにつくられ、使われていたのかという話をしておきたいと思います。

現在、ドラマの中では丸薬の製造で東庵先生のお宅は大儲けしております。壷の中に入れた銭を手にもち、ほくそ笑む堺正章の演技が印象的ですが、この時の銭、紐で通してまとめていましたね。そう、丁度下記サイトで販売されている、このような形で……。

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https://www.auction-world.co.jp/library/item_79475.html(上記URLより画像を転載しております)。

このように銭を紐で通してまとめた物を銭緡(緡と書くことも)といいます。地域や時代によって異なりますが、銭緡一本は96〜98枚の銭でまとめられています。そして、一本で100文として扱われました。2〜4文得をするため、紐をほどいて使うよりは、劇中で伊呂波太夫が手付金として東庵先生に支払ったように、塊のまま渡すのが一般的です。

銭緡にした際、2〜4文サバを読む文化を短陌(たんぱく)または、省陌(しょうひゃく)と呼びます。これは戦国時代や日本ならではの商習慣ではなく、東アジア全土で行われておりました。そもそもは銭の発祥国である中国で始まった慣習です。100枚の銭を集めて紐で通す場合の手間賃とも言われています。実際、江戸時代の落語『鼠穴』などを聞くと、緡紐もただではなかったことがわかるため、手間賃は必要だったと思われます。が、中国ではもっと明確に、価格を割り増さなければならない理由がありました。

現在でこそ中国はレアメタルなどで資源国のイメージがありますが、実はそれほど銅の生産力がある国ではありません。それなのに、貨幣の発明により中国経済は急速に発展します。中国の銅銭は、日本を含む東アジア全域で使われるようになり、経済の需要に対して銅銭の製造給付が間に合わなくなりました。結果として、中国では銅銭が慢性的に不足してしまいました。そこで、少ない枚数でも紐でまとめた場合は100文として扱って、銅銭を節約する必要が生まれてきたのです。東アジア経済の中心である中国が銭のレートを変更したら、周辺国も従う必要があります。こうして短陌はアジア全土で行われるようになりました。

銭緡を10本まとめたもの、すなわち1000文相当の銭緡を1貫と言います。重量を表す単位の貫とは異なりますので、史料を読み解くときは、支払いに用いられたものが銭だったのか、金や銀だったのかを注意する必要があります。

銭緡一本を基準にしてやり取りをする商習慣が生まれたのは、東アジアで使用される「銭」の中央には必ず穴が空けられており、紐を通せたからです。銭の中央に紐を通して使う習慣はかなり古くからありましたが、そもそも銭の穴は、紐を通すために空けられたものではありません。銭の中央の穴には、ある重要な役割がありました。

古代中国の史料には、銭の円型は宇宙を、中央の穴は調和を表すと書かれていますが、実はそれ以上にこの穴には重要な意味があります。同じ中央に穴の空いた貨幣である現在の5円玉と銭を比較するとことが、この穴の正体を解き明かす大きなヒントとなります。

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現在の貨幣は機械を使い圧延で製造しますが、昔の貨幣である銭は機械を用いて製造していません。ですが、現在の貨幣と同じように全ての人が手に出来るように大量に製造する必要がありました。だから、東アジアでは鋳造をつかって貨幣を製造しました。銭というのは鋳物なのです。

ここで下の画像をご覧下さい。これは「枝銭」と呼ばれるものです。骨董屋さんなどにいくと「金のなる木」の名称で縁起物として売られていたりします。

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枝銭だけ見るといったいこれは何なのかと思うかもしれませんが、古代の銭をどうやって作っていたかを理解すれば、この正体が分かります。鋳物というのは、鋳型に溶けた金属を流し込むことで作ります。数百度の金属が冷えて固まるにはそれなりの時間がかかりますが、それだけの時間をかけたのに、できあがりが銭1枚では効率が悪いです。そこで考慮されたのが、下の手書きイラストのようなつくり方でした。

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このような鋳型を用いれば一回の溶銅の流し込みで複数枚の銭を作ることが(上の絵ですと1度に5枚の銭が)できます。枝銭とは、この鋳型から取り出した直後の銭なのです。

そして、枝銭の画像を見ると分かるかと思いますが鋳物にはバリ、いわゆる余分な金属のはみ出しが銭の側面に生じます。機械がない昔はこれらのバリ取りをすべて手作業で行うしかありませんでした。一日で数百〜数千枚も作られる銭のバリ取りを、一枚一枚行っていたのでは膨大な手間がかかります。そこで編み出されたのが、中央の穴に棒を通して、数十枚を一気に磨くという手法でした。

さて、ここで穴の形状が関係してきます。もし、五円玉のような真円の穴であった場合、力を入れてヤスリがけを行えば銭がくるくる回ってしまい、上手に磨くことができません。対して、正方形ならば、角柱を中央に通せば、がっちりと銭を固定することができ、効率よくバリ取りを行うことができました。現在の5円玉は機械の力を用いるため、穴の形状にこだわる必要はないのですが、鋳物であった銭の中央の穴は、ヤスリがけのために四角である必要があったのです。

まとめられた銭緡はかなりの重さになります。当時の主要な銭であった永楽通宝が2〜4gです。仮に1枚3gだとすると銭緡一本は397g。1貫文は約4kgにもなります。そのため、なかなか持ち運ぶには不便でした。なので、一般人は銭緡を持ち歩くことはしませんでした。銭緡一本は戦国時代の米価から現在の額に換算すると約15000円ですので、なかなか毎日使うことのない額です。普段の買い物用にはバラの銭を用い、高額の買い物を決意した時のみ銭緡を持ち出すというのが一般的な庶民でした。使わない間の銭緡は、東庵先生のように壷に入れて貯金するのが一般的だったようです。定期的に、持ち主が掘り返し忘れたか、生前に使えなかった壷一杯に詰まった銭が出土してきます。(一括出土銭という)

寺町・大雲院跡一括出土銭

↑寺町・大雲院跡出土 一括出土銭

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