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大河ドラマから見る日本貨幣史13『旅と関所』

先週放送が再開されていることを忘れたので、今の再放送でみました。麒麟がくる第22話「京よりの使者」。

丁度、放送休止中と桶狭間語の十兵衛の浪人生活が、重なったようなつくりがして、ちょっと感慨深いものがありました。第2部開始のお話としてもよいスタートでしたね。足利義昭という今後のキーマンも登場し、しかも予想外のめっちゃいい人設定で今後が気になります。

我らが十兵衛は、越前(現在の福井県)から京へと旅立つことになりました。魚一尾を買うのに質屋に行かなければならないほどの明智家にとって、京までの旅費の捻出というのは大変なことだったでしょう。

江戸時代の庶民の旅行記録を見ると、目的地で豪遊するために途中の宿泊費や食費は極限まで節約しており、十兵衛もこのようなせせこましい旅路であったことでしょう。

ですが、この時代の旅には節約しようにも絶対に節約できない特別な出費があります。それが「関銭」です。

道路は、経済活動にも行軍にも欠かせません。そのため細かな維持管理に気を遣うのは当然のことでありました。関銭というのはこうしたインフラの維持管理費のために道路沿いに役所(関所)を設けて徴収した通行税のことです。関所自体は江戸時代まで続きますが、江戸時代の関所はあくまで国境を警備する検問所であるため趣を異にします。

さて、戦国時代の関所には、道路の維持管理のほかに、敵国からの間者を探し出すという意味合いもあったため大名はその管理に気を使っていましたが、実際の所は戦国時代後期にならないと自国を隅々まで管理できるような行政能力を確保した大名は現れていません。

そのため、関所の管理は道路沿いの村々や有力寺社に委任することがほとんどでした。この際、無償での奉仕を求めてもだれもまじめに関所の運営なんてやりません。そこで大名は、関所で金銭を追加で徴収する権利を村人や寺社に与えたわけです。

『中世法制史料集』第五巻に明応3(1494)年に越後国(現在の新潟県)守護・上杉房定が定めた関銭の徴収基準が載っています。それによると、

人……3文(約450円)

鉄(荷駄一つ)……20文(約3000円)

米(荷駄一つ)……10文(約1500円)

です。個人の旅行客が荷駄を複数個も抱えるようなことはないでしょうから、意外と数千円あれば、一ヵ所の関所は超えられたようです。そう、一ヵ所ならばです。

先ほども述べましたが、関銭の徴収は地元の有力者に委託されていたわけですから、公的な関所のほか、私関所とよばれる私的な関所も大量に設置されていたのが戦国時代でした。有名なところでは伊勢神宮周辺では神宮勢力の設けた関所が数多くあり、50km街道を歩くだけで100文(約1万5000円)の関銭を取られていたそうです。

このようなでたらめな税に対してなぜ人々は黙っていたのでしょう。一つには、当時の街道はまだ危険が多く、庶民はおいそれと他国へ出歩くということがなかったことがあげられます。が、それ以上に大きいのは、日本が海洋国家であったということです。関銭をもっとも多く徴収されたであろう商人も、陸路をいくよりも海上を進んだ方が安全かつ素早く荷駄が運べたため、関所は必要最低限しか通過しないルートを使いました。

とはいえ、こうした関所の増加は当然商業の発達を阻害します。様々な大名がやがて関所の廃止に向けて動き始めるのは自然な流れでした。ですが実際に関所を廃止できた大名は思ったよりも数が少ないです。これは、関所の設置が地元住民や寺社の利権と結びついたことによる弊害でした。大名が関所を廃止するには、これら関所利権を持つ人々に補填を行う必要があったのです。

この補填は、年貢の減免であったであろうと考えられていますが、いまだはっきりとはわかっていません。今後の研究が待たれます。「織田信長が楽市楽座を設置し関所を減らした」という教科書でわずか1行程度でかたずけられている事実は、実は信長が自国内の関所利権をもつ人々に有償補填が行えるだけの経済力を持っていたことをあらわしているのです。(楽市楽座を実施した大名は信長以前にもいますがいずれも、経済力の大きな有力大名です。)この一行だけでいかに信長の経済力が大きかったかが推察できるのです。

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