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大河ドラマから見る日本貨幣史19『摂津晴門が大きな顔をしている理由は?』

ついにドラマでは、明智光秀が足利・織田両属の家臣であった時代から、徐々に織田家臣へと移行していく転機となった『金ヶ崎の退き口』が描かれました。現状、信長を上手におだてることに成功している光秀を見ると、今後、本能寺の変のきっかけとなりそうな場面は宗教関係しかなさそうなのが気になりますね……。(史実では信長よりも光秀の方が圧倒的に仏教権威を弾圧しています)。

さて、光秀の幕府再興の夢をじわりじわりと打ち砕こうとしているのが、片岡鶴太郎演じる幕府守旧派の重鎮・摂津晴門です。あまり史料も残っていない人物ですが、突如出てきた割に足利義昭からの絶大な信頼を得ていることに驚いた人も多かったのではないでしょうか。劇中でセリフもありましたが、この人物は、先々代の将軍・足利義輝が重用した人物です。僧侶出身で右も左も判らぬ義昭が頼るのは何となく理解できるかと思いますが、幕府再興を目指す細川藤孝、三淵藤英やその他幕臣が、まるで恐れるかのように晴門の意見に従う姿には、所詮この人たちも旧い幕府の人間だったのかと呆れた方も多いのではないでしょうか。

ですが、細川藤孝はこの後、義昭を見捨て信長に仕えるようになるような先進的な思想の持ち主であり、決して唯々諾々と晴門に従っていたわけではありません。

晴門の権力が強い理由は、歴史好きなら劇中で明示されていたのですが、多くの人は何のことかさっぱりわからず聞き逃していたと思いますので改めてここで説明しましょう。晴門の権力の裏付けは、彼が就いている役職「政所執事」にあります。

かつて日本には「政所」という役所がありました。この言葉の指す役所の業務は、時代によって異なるため一概に政所とはどのような役所かとはいいにくいのですが、室町幕府に置ける政所の業務は財政と領地に関する訴訟の解決でした。政所執事とは、この政所のトップを務めた人物です。現代風にいうなら、財務大臣兼最高裁判所長官なのです。

財務大臣は分かるとして領地に関する訴訟のみを扱う人が、どうして最高裁判所の長官にあたるのか疑問に思う人も多いでしょう。これは、室町時代の土地訴訟の異様なまでの多さに関係しています。一所懸命という言葉もあるように、武士に取って自らの領地の確定は命よりも大切なことでした。が、その命よりも大切な土地をぞんざいに扱った人がいました。それが、初代室町幕府将軍の足利尊氏でした。

以前書きましたが、室町幕府は朝廷から政権を簒奪することで成立した幕府です。そのため、室町幕府成立後も真の朝廷である後醍醐天皇は、自ら吉野に新たな朝廷を打ち立て(南朝)、全国の武士に打倒尊氏を訴えました。南北朝時代です。尊氏はこの呼びかけに対抗するため有力な武士に「あなたの土地を安堵します」という口約束やら書状の発給を連発しました。何も考えていませんでしたので、南北朝の動乱後「同じ土地に領主が二人」「先祖代々守り抜いていた土地なのに、見知らぬ武士が突然現れ奪っていった」といった問題が全国各地で多発しました。

実力至上主義の鎌倉時代初期なら、このような領土紛争が起こった場合には、問答無用で相手をぶっ●せばOKでしたが、少し秩序が出来てきた14世紀ごろになると、幕府や朝廷が発行した土地の所有を認める知行書が必須となります。ですが、肝心の知行書は、尊氏が戦争中に適当に書いたものがどっさりとありました。適当なものですので偽造も多発します。

となると、最終的に沙汰を下す政所執事の力が武士達の中で高まっていくのは仕方のないことでした。幕府政策を実現するための原資となる財務と、直轄地の支配の根拠を一存できめられる司法権を一手に握る政所執事は、ある意味、室町幕府の行政の長である三管領家よりも力があったと言えます。そして困ったことに、この政所執事という役職は、室町将軍の家宰(主家の家庭内の庶務を行う家臣)であった伊勢家が世襲していたのです。

結果的に、伊勢家の機嫌を損ねないようにと全国の武士は定期的に付け届けを伊勢家に送るようになり、伊勢家の財力は将軍家を凌ぐようになってきました。嘉吉元年(1441)年に六代将軍・足利義教が暗殺されましたが、このとき義教の嫡子で、後に八代将軍となる足利義政を代わりに育てたのが伊勢家の伊勢貞親でした。貞親は政所執事であり、将軍の義理の父という身分となり、その権力は絶頂を迎えます。貞親はこの後調子に乗り、応仁の乱直前の政治に積極的に関与。最終的には応仁の乱の最中に、義政の弟である足利義視の暗殺を企て追放されてしまいます。

ですが、どれだけ財務大臣の首がすげ変わろうが、実務を行う財務官僚の力が落ちることがないことは、今の日本の政治を見ていてもよくわかるかと思います。金の流れや司法の仕組みを熟知する才能は、一朝一夕に身に付く物ではないからです。この後も伊勢家が廃絶することはなく、貞親も気がつけば復権を果たします(まあ、もう一度将軍家への反逆とも取られる計画を企てたことで貞親は再追放されるのですが)。

幕府財務と領地の裁判権を握る政所執事というのは、武士にとっては絶対的な権力者だったのです。ちなみに、伊豆・小田原の戦国大名・後北条家を打ち立てた初代・北条早雲は、本名を伊勢新九郎盛時と言い、貞親の甥っ子であることが近年判明しました。

政所執事という役職がどれほど室町幕府において権力が集中する立場にあったかはこれで分かったかと思います。さて、麒麟がくる劇中の時代での政所執事ですが、ドラマスタート時は伊勢貞孝という伊勢家の棟梁でした。貞孝という人間は、よく言えば職務に忠実なのですが、端から見れば節操がない人物でした。貞孝は政所の業務を完璧にこなしました。職務をこなすためには、京へ居続けなければなりません。なので、政変が起こる度京を陣取ることの出来そうな強い者の味方をしました。将軍であり、直接の主家である足利義輝が京を離れている間も、職務をこなすため、主を追放した三好家にかしずいています。

将軍が京にいないのに、将軍がいた時代と同じように財務や訴訟は回っている。これでは実質的に伊勢家が室町幕府で、伊勢家を抱えたものが将軍です。伊勢家は京にとどまっているのに、将軍・義輝が京を離れ逃げ惑っているという状況は、両家の間に大きな溝を生みました。

伊勢家は、義輝に敵視されるようになります。そしてついに、義輝が京へ復帰し三好長慶と手を結んだタイミングで職務を追放されてしまうのです。このとき、伊勢家の代わりとして政所執事へ抜擢されたのが、摂津晴門でした。先述の通り、政所執事という役職は、一朝一夕で身に付く業務ではありません。義輝と都落ちをともにしたメンバーの中で、晴門は数少ない財務と裁判運営の経験者でした。

摂津氏が代々家職として受け継いできた仕事である地方頭人は、京内外の道路や建物の管理を行う職……とされています。が、その実態は寺や京の町中で起きた領地訴訟の裁判を司司る役職です。そして、兼任していた神宮方という職は、室町幕府が伊勢神宮の普請を行うために、全国から税を集めたり、差配を行ったりする役職でした。摂津家は小規模ながらも政所執事と似た業務を行う家柄だったのです。

義輝政権下で大出世を遂げた晴門は、義昭政権下でも同じように政所執事として抜擢されます。これは、ドラマでも描かれていました。突然の大出世により手にした政所執事という立場で晴門が私腹を肥やしていた可能性は非常に高いですし、それに固執したのも分かります。が、全国の守護や有力な地侍が完全に戦国大名化を果たしたこの時代は、すでに政所がうまく機能する状態ではなくなっていました。

室町幕府の財務と司法を司った政所執事という役職は、晴門を最後に事実上力を失います。晴門もかつての伊勢貞親のように調子に乗り、元亀2(1571)年、将軍に無断で、伊勢神宮の禰宜職を推薦する武家奏上を行ってしまい失脚。再び伊勢家の伊勢貞興が政所執事となりますが、この時点で室町幕府の財務は織田信長に牛耳られており、名前だけの役職となっていました。

ちなみに、摂津氏は晴門を最後に断絶してしまいますが、最後の政所執事である伊勢貞興は明智光秀臣下としてこの後も歴史の表舞台で活躍します。伊勢家は貞興以降も、徳川将軍直属の旗本として明治時代まで生き残りました。これは、長年の政所執事を務めるために伝えてきた、武家間での礼儀作法を、将軍や大名相手に指導することができたからです。

恥をかくことを嫌う武家階層にとって、目上の人と会う際の礼法を身につけることは、武芸と並ぶ位大切なことでした。伊勢家が伝えた礼法は『伊勢流』の名で知られており、徳川将軍を始め金を払ってでも教えを請いたい上流の武家は全国に多数存在していたのです。

余談ですが、礼法で思い出しました。ドラマでは殿上人ではない信長が、殿上で天皇に会った風に描いていましたが、あんな無礼なことは絶対にあり得ません。殿上人でない身分の者と天皇がどうしても目通りをしなければならない場合は、天皇自らが宮廷を出るタイミング、例えば花見や祭礼などを見計らって、偶然を装って出会うという演出がなされます。もちろん、事前に側近達は入念なリハーサルを行ってです。恐らく、信長と正親町天皇の会談もこの形で行われていたでしょう。

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